ep.40 可愛いと言われたギャルは、昼でも少しだけ逃げなくなる
翌朝、黒瀬琉衣奈はほんの少しだけ変だった。
もちろん、教室にいる彼女はいつも通りだ。
茶髪はきれいに巻かれている。メイクも崩れていない。制服の着こなしも、気怠げな表情も、友達と交わす軽い会話も、全部いつもの黒瀬琉衣奈だった。
けれど朝比奈湊にはわかってしまった。
今日の黒瀬は、少しだけ逃げない。
教室に入った湊と目が合った時、彼女はいつものようにすぐ逸らさなかった。
一秒。
いや、二秒弱。
それだけ見てから、ようやく何でもない顔で友達の方へ向き直る。
たったそれだけなのに、湊の胸には十分だった。
昨夜のことを思い出す。
――昨日も今日も、可愛いと思ったよ。
そう言った瞬間、黒瀬は耳まで赤くなって、クッションに顔を埋めた。
それでも最後には、小さく「ちょっとだけ、うれしい」と言った。
あれを聞いたあとの朝だ。
何も変わらないほうが難しい。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞がいつものように声をかけてくる。
「おはよう」
「今日は、黒瀬さんが少しだけ逃げませんでしたね」
「……見てた?」
「見えました」
「本当に何でも見えるな」
「全部ではないです。でも、今のはかなり見えました」
栞は静かに笑った。
その笑い方には、少しだけ面白がっているような、少しだけ安心しているような色がある。
「昨日、何かありました?」
「何かって?」
「黒瀬さん、今日は昨日より少しだけ落ち着いているので」
湊はごまかそうとして、やめた。
「まあ、ちょっとだけ」
「そうですか」
栞はそれ以上聞かなかった。
聞かないのに、わかっている顔をする。
その距離感が、今は少しありがたかった。
一限前、栞は前の席へ座る。
もう完全に自然な流れだ。
けれど今日は、その途中で黒瀬が一度こちらを見た。
いつもなら、その時点で少し目を細めたり、不機嫌そうにしたりする。
だが今日は違った。
ほんの少しだけ眉を寄せたあと、すぐには逸らさない。
見ている。
そして、逃げない。
「……黒瀬さん、頑張ってますね」
栞が小さく言う。
「頑張ってる?」
「はい。見ないふりをしないようにしている感じです」
その表現は妙に当たっていた。
昼にも残したい。
消しゴムを借りた。
お礼を言った。
可愛いと言われて乱された。
そういう小さなことが積み重なって、黒瀬は少しずつ昼の教室での振る舞いを探している。
まだうまくはない。
でも、逃げない方向へ少しだけ進んでいる。
二限の休み時間。
黒瀬が湊の席の横を通った。
今日は用事があるようには見えない。
でも、わざわざ近くを通った。
通り過ぎる直前、机の上の消しゴムを見て、小さく言う。
「……今日は借りないし」
「まだ何も言ってない」
「先に言っただけ」
「なんだそれ」
「別に」
短い会話。
それだけで終わる。
だが、黒瀬はすぐには離れなかった。
ほんの一拍、そこに残った。
そして小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「昨日のこと、昼に思い出すのやめて」
「無理だろ」
「……最低」
そう言って、黒瀬は今度こそ歩いていった。
湊はその背中を見送りながら、思わず口元を押さえた。
まずい。
今のは、かなりまずい。
昼の教室なのに、夜の会話そのものだった。
そして当然のように、栞が近くにいた。
「今の、かなり残りましたね」
「もう何も言わないでくれ」
「はい。言わないでおきます」
言いながら、栞は少しだけ笑っていた。
昼休み。
栞は前の席に座ったが、今日は黒瀬も動いた。
友達と話していたはずなのに、ふいに立ち上がり、購買のパンを片手にこちらへ来る。
湊の机の横で止まり、ほんの少しだけ栞を見る。
「……白瀬」
「はい」
「昨日のやつ」
「可愛い、ですか?」
「言うなって!」
黒瀬が即座に反応する。
その声に周囲が少しだけこちらを見るが、黒瀬はすぐに咳払いしてごまかした。
「……それ、もう言わなくていいし」
「わかりました」
栞は素直に頷く。
そのあとで、少しだけ表情をやわらげた。
「でも、今日は昨日より自然だと思います」
「何が」
「朝比奈くんと話す時です」
黒瀬が固まった。
湊も固まった。
栞だけが静かだ。
「……ほんと、そういうの普通に言うよね」
黒瀬が小さく言う。
「すみません」
「謝るの早いし」
「でも、嘘ではないので」
黒瀬は少しだけ顔を逸らした。
怒っているというより、照れている。
「……なら、いいけど」
小さな声だった。
その一言に、湊は驚いた。
黒瀬が、昼の教室で、栞の言葉を受け取った。
反発しきらずに。
それはかなり大きな変化だった。
放課後、黒瀬は帰り際に湊の机の横へ来た。
今日は逃げるようではなかった。
「……朝比奈」
「何?」
「今日、ちょっとだけ普通だった?」
その問いは、教室では危険なくらい素直だった。
湊は少し考えてから答える。
「昨日よりは」
「そっか」
黒瀬はそれだけ言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。
すぐに隠したけれど、見えた。
見えてしまった。
「……夜、行くし」
それだけ残して、彼女は教室を出ていく。
もう、来る理由を探さない。
言わなくても来るはずなのに、今日はわざわざ言った。
昼に残したいものを、また一つ選んだのだろう。
夜九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬は少しだけ照れくさそうな顔で立っていた。
「……遅」
「今日は来るって言ってたな」
「言ったし」
「昼に」
「……うん」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座る。
クッションを抱えながら、少しだけ視線を泳がせる。
「今日、どうだった?」
「昼のこと?」
「うん」
「頑張ってたと思う」
「……上から」
「聞いたのそっちだろ」
「そうだけど」
湊がカフェラテを作って戻ると、黒瀬は受け取りながら小さく言った。
「可愛いって言われたの、ちょっと変だった」
「うん」
「でも、なんか……逃げてばっかも、だるいなって思った」
「そっか」
「だから今日は、ちょっとだけ逃げなかった」
その声は、夜の部屋だからこそ聞ける素直さだった。
湊は頷く。
「ちゃんと見えてた」
「……ならいいし」
黒瀬はカフェラテを飲み、耳を少しだけ赤くしたまま、クッションに頬を乗せた。
「でも、昼にあんまり見ないで」
「無理だろ」
「なんで」
「黒瀬が逃げなくなったら、余計見る」
「……最低」
そう言いながらも、黒瀬は少しだけ笑った。
可愛いと言われたギャルは、昼でも少しだけ逃げなくなる。
その小さな変化は、夜の部屋で静かに確認されて、また次の日の教室へ持ち越されていく。




