ep.39 白瀬栞の“可愛い”は、ギャルの昼を少しだけ乱す
翌朝、朝比奈湊は登校前から少しだけ嫌な予感がしていた。
理由はわかっている。
昨夜、黒瀬琉衣奈にそのまま伝えてしまったからだ。
――白瀬さんが、今日の黒瀬ちょっと可愛いって。
言った瞬間の黒瀬の反応は、かなり派手だった。
目を丸くして、耳まで赤くして、クッションに顔を埋めながら「何それ」「あのメガネ何言ってんの」「朝比奈も何そのまま伝えてんの」と、半分怒って半分照れていた。
そのあとも何度か「可愛いって何」「別に浮かれてないし」「ていうか、あのメガネに言われるの意味わかんない」とぶつぶつ言っていた。
つまり、効いていた。
かなり効いていた。
だから今日、黒瀬が学校でどんな顔をするのか、湊には少し予想がつかなかった。
教室のドアを開ける。
いつもの朝のざわめき。
窓際の席に、黒瀬はいた。
茶髪はきれいに整えられ、メイクもいつも通り。日焼けした肌に制服の着こなしも完璧で、どこからどう見ても教室の中のギャルだった。
ただ、一つだけ違った。
湊が入ってきた瞬間、黒瀬はいつも通り一度だけこちらを見た。
そして、目が合った瞬間。
ほんのわずかに、顔を逸らすのが早かった。
照れている。
たぶん、昨夜の“可愛い”をまだ引きずっている。
湊はそれに気づいてしまい、思わず口元が緩みそうになった。
だが、それを黒瀬も見逃さなかったらしい。
窓際から、じろりと睨まれた。
――笑うな。
声は聞こえないのに、そう言われた気がした。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声がした。
白瀬栞が、いつものように教科書を抱えて立っている。
「おはよう」
「今日は、少し楽しそうですね」
「……朝から鋭いな」
「わかりやすいので」
栞はそう言って、小さく笑った。
その笑顔を見て、湊は昨夜のことを思い出す。
この人が、黒瀬を“可愛い”と言った。
しかも嫌味ではなく、本当に見たままの感想として。
静かに近づくメガネっ娘と、わかりやすく乱されるギャル。
その構図が、今日もまた教室に持ち込まれようとしている。
「……白瀬さん」
「はい」
「昨日のこと、覚えてる?」
「どれですか?」
「黒瀬のこと、可愛いって言ったやつ」
そう言うと、栞は少しだけ目を丸くした。
それから、何でもないことのように頷く。
「覚えています」
「今日、本人に言うなよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……絶対荒れるから」
栞は少し考えるように、窓際のほうへ視線を向けた。
黒瀬は友達と話しているふりをしているが、明らかにこちらを気にしている。
その様子を見て、栞は静かに言った。
「でも、黒瀬さんは知っている顔をしていますね」
「……俺が言った」
「そうでしたか」
栞はほんの少しだけ笑った。
「では、今日は言わないほうがよさそうですね」
「頼む」
「でも、可愛かったのは本当です」
「そこを曲げないのが白瀬さんだよな」
「嘘ではないので」
その言い方が、あまりにも真っ直ぐだった。
一限前、栞は自然に前の席へ座った。
もう教室の風景として馴染み始めている。
それでも、今日は湊の背中が少しだけ緊張していた。
窓際からの視線が、いつもより刺さる気がする。
「朝比奈くん」
「ん?」
「黒瀬さん、今日はいつもより少し落ち着きませんね」
「やっぱり?」
「はい。たぶん、昨日のことを気にしています」
「だよな」
「でも、悪い気分ではなさそうです」
「そこまでわかるのか」
「少しだけです」
少しだけ、と言うが、だいたい当たっている。
黒瀬はたぶん、栞に可愛いと言われたことが気になっている。
そして、それを湊に見られていることがさらに気になっている。
二限の休み時間。
その予感は的中した。
湊がロッカーで教科書を入れ替えていると、黒瀬が近くを通った。
いつもなら小さく何か刺してくる場面だ。
だが今日は、通り過ぎる直前に一度止まり、視線だけで湊を見た。
「……言った?」
「何を」
「昨日の」
「何が」
「だから」
黒瀬は少しだけ声を低くした。
「メガネのやつ」
「ああ」
湊はわざと少し考えるふりをする。
「可愛いってやつ?」
「声大きい!」
黒瀬が珍しく慌てた。
もちろん、周囲に聞こえるほどではない。けれど彼女にとっては十分危険だったらしい。
「言ってないよ。白瀬さんには、今日は言わないほうがいいって言っといた」
「……余計なこと言ってんじゃん」
「でも本人には言ってない」
「そういう問題じゃないし」
そう言いながらも、黒瀬の声は怒っているというより、完全に照れていた。
「ていうか、あのメガネ、何見て可愛いとか言ったわけ」
「消しゴムで浮かれてたところじゃないか」
「浮かれてないし」
「昨日、ちょっとだけって認めてただろ」
「夜のこと昼に持ち込むな」
「そっちが聞いたんだろ」
黒瀬は言い返せず、少しだけ口を尖らせた。
その顔がまた、かなりわかりやすい。
「……なに」
「いや」
「今、思ったでしょ」
「何を」
「可愛いとか」
自分で言ってから、黒瀬ははっとしたように固まった。
湊も一瞬黙る。
昼の教室で、これは少し危ない。
「……思ってない」
咄嗟に言うと、黒瀬は目を細めた。
「うそ」
「うそじゃない」
「今の間でうそ」
「便利だな、それ」
「朝比奈がわかりやすいのが悪い」
そう言って、黒瀬は逃げるように窓際へ戻っていった。
その背中を見送っていると、いつの間にか近くに栞がいた。
「今の黒瀬さん、可愛かったですね」
「言うなって言っただろ」
「本人には言っていません」
「俺には言うのか」
「はい」
栞は少しだけ悪戯っぽく笑った。
珍しい表情だった。
昼休み。
栞はいつものように前の席へ来た。
湊は購買のパンを開けながら、少しだけ周囲を気にする。最近、前の席が栞の定位置になっていることを、クラスの何人かはもう気づいている。
そのうえで、今日の黒瀬はかなり不安定だ。
何か起こる予感がした。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日は黒瀬さん、来るかもしれません」
「ここに?」
「はい」
「何しに」
「たぶん、理由はあとから作ると思います」
恐ろしい予言だった。
そして、その数分後。
本当に黒瀬が来た。
友達との会話を切り上げるように立ち上がり、こちらの列へ歩いてくる。
湊は内心で身構えた。
栞は平然としている。
黒瀬は湊の机の横で止まり、机の上をちらっと見た。
「……消しゴム」
「今日は借りないって言ってなかったか」
「違うし」
「何?」
「昨日の、ちゃんと返したか確認」
「返しただろ」
「確認しただけ」
かなり苦しい理由だった。
けれど、昼に何か残したい黒瀬にとっては、それでも理由になるのだろう。
栞が静かに言った。
「黒瀬さん、昨日はちゃんとお礼も言っていましたね」
黒瀬の肩がわずかに跳ねた。
「……聞いてたの?」
「聞こえました」
「ふーん」
黒瀬は少しだけ顔を逸らす。
その耳が、ほんの少し赤い。
栞は穏やかなまま続けた。
「とても自然でした」
「……別に、消しゴム返しただけだし」
「はい。でも、よかったと思います」
黒瀬は完全に返しに困っていた。
湊は横で見ながら、なんとも言えない気持ちになる。
栞は攻撃していない。
むしろ褒めている。
けれど黒瀬にとって、それはたぶんかなり強い一手だ。
「……あのさ」
黒瀬が小さく言う。
「何ですか?」
栞が返す。
「そういうの、普通に言うのやめて」
「すみません」
「謝るのも早いし」
「では、少しだけ控えます」
「少しだけなんだ」
黒瀬が思わずそう返した。
その瞬間、三人の間にほんの少しだけ変な沈黙が落ちた。
そして、栞が小さく笑った。
黒瀬も、つられるようにほんの少しだけ口元を緩めかけて、慌てて戻した。
湊はそれを見逃さなかった。
この二人、思ったより相性が悪いだけではないのかもしれない。
いや、相性が良いと言うにはまだだいぶ棘がある。
でも、互いをちゃんと見ている。
それだけは確かだった。
放課後、黒瀬は珍しく教室で栞とすれ違う時に、小さく言った。
「……白瀬」
栞が振り向く。
「はい」
「昨日のやつ」
「昨日?」
「可愛いとか、変なこと言ったやつ」
自分から触れた。
湊は少し驚いた。
栞も、少しだけ目を丸くした。
黒瀬は視線を逸らしたまま、早口で続ける。
「あれ、朝比奈から聞いたし」
「そうでしたか」
「……変だから」
「そうですか?」
「変でしょ」
栞は少しだけ考えてから、穏やかに言った。
「私は本当にそう思いました」
黒瀬は完全に固まった。
廊下の空気が少しだけ静かになる。
「……っ、もういい」
黒瀬はそれだけ言って、逃げるように歩いていった。
ただ、その横顔は怒っているというより、やっぱり照れていた。
夜九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬は予想通り、かなり不満そうな顔をしていた。
「……遅」
「今日は本当に遅かったか?」
「気分の問題」
「はいはい」
部屋へ入るなり、黒瀬はソファへ沈み、クッションを抱えた。
「……あのメガネ、ほんと何なの」
「今日は何も悪いことしてないだろ」
「悪いとかじゃないし」
「じゃあ何」
「普通に、まっすぐ言ってくるのが無理」
湊はカフェラテを作りながら笑いそうになる。
「可愛いって?」
「言うな!」
「本人にも言われてたな」
「ほんと意味わかんない……」
黒瀬はクッションに顔を押しつける。
けれど、その声は完全に怒ってはいなかった。
「……で」
湊はカフェラテを持って戻りながら聞く。
「俺は?」
「は?」
「俺はどう思ったか、聞かなくていいのか」
言った瞬間、黒瀬の動きが止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……聞かないし」
「そうか」
「……」
「……」
「……でも、言いたいなら聞いてあげてもいい」
めちゃくちゃだった。
でも、黒瀬らしすぎて笑いそうになる。
湊はカップをテーブルに置き、少しだけ真面目に言った。
「昨日も今日も、可愛いと思ったよ」
部屋が静かになった。
黒瀬は数秒固まり、それから耳まで赤くなった。
「……そういうの」
「うん」
「普通に言うなって……」
「聞いてあげてもいいって言っただろ」
「言ったけど!」
黒瀬はクッションをぎゅっと抱きしめ、顔を半分隠した。
「……最低」
「ごめん」
「でも」
小さな声が続く。
「……ちょっとだけ、うれしい」
その一言で、今夜は十分だった。
白瀬栞の“可愛い”は、ギャルの昼を少しだけ乱す。
そして夜になると、その乱れはほんの少しだけ素直な言葉に変わる。
湊はその瞬間、また一つ、黒瀬琉衣奈の夜の顔を覚えてしまった。




