ep.38 消しゴムひとつで浮かれるギャルは、夜になると少しだけ素直になる
消しゴムひとつで、こんなに空気が変わるものなのか。
朝比奈湊は、翌朝の教室に入った瞬間、そんなことを思った。
昨日、黒瀬琉衣奈は昼の教室で湊に消しゴムを借りた。
たったそれだけだ。
たったそれだけなのに、夜になって部屋へ来た黒瀬は、明らかに少し機嫌がよかった。
昼にも何かを残したい。
でも、うまく選べない。
だから、とりあえず消しゴムを借りた。
本人は「無難じゃん」と言っていたが、あれは相当勇気を出した一手だったのだろう。夜のソファでそれを話す時、黒瀬はクッションに顔を半分隠しながら、少しだけ照れていた。
その顔を思い出してしまうせいで、湊は今朝も少し落ち着かない。
教室の窓際を見る。
黒瀬は今日も、いつも通りの顔をしていた。
学校用のギャル。
茶髪、巻き髪、強めの目元、友達との軽い会話。
夜の部屋でクッションを抱えて「ちょっとだけ」と認めた彼女は、そこにはいないように見える。
けれど。
湊が教室へ入った瞬間、黒瀬は一度だけこちらを見た。
目が合う。
昨日より少しだけ短い。
でも、逃げるような短さではない。
まるで、昨日の消しゴムの続きが、まだそこにあるみたいだった。
「朝比奈くん、おはようございます」
横から、静かな声。
白瀬栞だった。
「おはよう」
「今日は少しだけ、機嫌がよさそうですね」
「朝から診断が早い」
「昨日よりわかりやすいので」
「そんなに?」
「はい」
栞は机の端にプリントを置きながら、ほんの少しだけ窓際へ視線を流した。
「黒瀬さんも、少しだけ落ち着いてます」
「……それもわかるのか」
「はい。昨日の消しゴム、たぶん黒瀬さんにとっては成功だったんだと思います」
成功。
その言葉に、湊は少しだけ笑ってしまった。
「消しゴム借りるだけで成功って、ハードル低くないか」
「低いようで、黒瀬さんには低くなかったのでは?」
静かな分析。
たぶん、かなり当たっている。
黒瀬は夜の部屋ではかなり近い。けれど、昼の教室ではまだ距離をうまく扱えない。だから消しゴムひとつでも、彼女にとっては昼に“何かを残す”ための小さな挑戦だったのだ。
「白瀬さん、やっぱりよく見てるな」
「朝比奈くんも、ちゃんと気づいていましたよね」
「まあ……」
「だから黒瀬さん、少し嬉しそうでした」
そう言われると、胸の奥が少しだけ熱くなる。
気づいていた。
だから、届いた。
それが黒瀬にとって嬉しかった。
そう考えると、たかが消しゴムでは済まなくなる。
一限前、栞はいつものように前の席へ座った。
「今日は英語、大丈夫ですか」
「たぶん」
「その“たぶん”は少し危ないです」
「見てくれる?」
「そのつもりで来ました」
その返しも、最近はかなり自然だ。
栞は静かに近づく。
黒瀬は昼に残したいものを不器用に探す。
二人のやり方はまるで違うのに、どちらも確実に湊の近くへ来ている。
そのことを自覚すると、やっぱり少し落ち着かなくなる。
二限の休み時間。
湊が机の上を整理していると、黒瀬が友達と話しながらこちらの列へ来た。
昨日と同じ流れだ。
ただ、今日はロッカーではなく、湊の机の横を通るだけだった。
通りすぎる直前、黒瀬の視線が一瞬だけ机の上を走る。
そこに昨日貸した消しゴムがある。
黒瀬はほんの少しだけ口元を動かした。
「……今日、ちゃんと持ってるじゃん」
小さな声だった。
「忘れてないよ」
「別に確認しただけだし」
「また借りる?」
「借りないし」
即答。
でも声は少しだけやわらかい。
黒瀬はそれだけ言って、すぐに友達のほうへ戻っていった。
ほんの数秒の会話。
でも昨日より自然だった。
消しゴムを借りる、という一手を昨日使ったから、今日はその続きをほんの少しだけ話せた。
たぶん、そういうことだ。
「……今の、かなり自然でしたね」
やはり、栞は近くにいた。
「毎回いるな」
「今日は本当にたまたまです」
「もう信じない」
「残念です」
栞は少しだけ笑ったあと、窓際を見ないまま言った。
「黒瀬さん、今日は昨日より少し安心している気がします」
「安心?」
「はい。昨日の一手が失敗じゃなかったから」
また“成功”の話だ。
でも、やっぱり当たっている。
黒瀬は、昼の教室で湊に何かを残す方法を一つ見つけた。
それがちゃんと届いた。
だから今日は、少しだけ浮かれている。
……浮かれている、という言い方を本人にしたら絶対怒るだろうけれど。
昼休み。
栞は前の席に座り、湊は購買で買ったパンを開けていた。
窓際の黒瀬は友達と話している。今日は昨日ほど露骨に機嫌悪くはない。むしろ、湊と栞が話しているのを見ても、すぐには目を細めなかった。
その代わり、何度か机の上の消しゴムを見るような視線を送ってくる。
わかりやすい。
本人は絶対に認めないだろうが、かなりわかりやすい。
「朝比奈くん」
「ん?」
「黒瀬さん、今日ちょっと可愛いですね」
いきなりそんなことを言われて、湊は紙パックのコーヒーを吹き出しそうになった。
「白瀬さんがそれ言うのか」
「見ていてそう思ったので」
「……本人に言ったら怒るぞ」
「言いません」
栞は静かに笑った。
「でも、朝比奈くんは気づいているでしょう?」
「何に」
「黒瀬さんが、昨日のことで少し浮かれていることに」
浮かれている。
やっぱり栞もそう見るらしい。
「……まあ、少しは」
「それに気づいてもらえるのが、黒瀬さんはたぶん嬉しいんだと思います」
「白瀬さん、ほんとに黒瀬のことまで見えてきたな」
「見えてきたというより、朝比奈くん越しに見える感じです」
「それ、どういう意味だよ」
「黒瀬さんは、朝比奈くんを見る時に一番わかりやすいので」
それを言われると、何も返せない。
午後の授業が終わる頃には、湊はかなり疲れていた。
大きな事件があったわけではない。
ただ、黒瀬の小さな視線と、栞の静かな観察が何度も重なっただけだ。
でも、その積み重ねだけで十分だった。
放課後、黒瀬は今日はすぐ帰らなかった。
友達と話したあと、何かを思い出したようにこちらへ来る。
湊の机の前で止まる。
「……朝比奈」
「何?」
黒瀬は少しだけ視線を横に逃がした。
「消しゴム」
「また?」
「違うし」
「じゃあ何」
「……昨日、ありがと」
小さい声。
でも、ちゃんと聞こえた。
湊は一瞬だけ驚いた。
黒瀬が教室で礼を言った。
しかも、昨日の消しゴムのことを。
かなり大きい。
「……うん」
湊が短く返すと、黒瀬はすぐに顔を逸らした。
「それだけ」
そう言って、逃げるように教室を出ていく。
残された湊は、しばらく机の前で固まっていた。
「今の」
横から栞の声。
「かなり頑張りましたね」
「……だな」
「黒瀬さん、今日は浮かれてましたけど、それ以上にちゃんと前へ進んだと思います」
その言葉は、妙にしっくりきた。
夜九時。
インターホンが鳴る。
今日は、モニターを見る前からわかっていた。
黒瀬だ。
ドアを開けると、黒瀬はいつもより少しだけ機嫌がいい顔で立っていた。
「……遅」
「今日は早い」
「気分の問題」
「はいはい」
部屋へ入るなり、黒瀬はソファへ座った。
クッションを抱え、少しだけ視線を逸らしている。
機嫌がいいのに、それを隠そうとしている顔だ。
「カフェラテ?」
「それ」
湊がキッチンへ向かうと、黒瀬が小さく言った。
「……今日の、聞こえた?」
「何が」
「学校で言ったやつ」
「ありがと、ってやつ?」
「……言うな」
声が少しだけ慌てる。
湊は笑いそうになるのをこらえた。
「聞こえたよ」
「そっか」
「教室で言うの、珍しいな」
「別に、消しゴムくらい普通に礼言うし」
「昨日は言わなかったけど」
「……昨日は無理だったし」
その“無理だった”が、かなり素直で可笑しい。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はカップを受け取りながら、ぽつりと言った。
「今日、ちょっと上手くできた気がした」
それは、今日一番の本音だった。
昼に残したいものを、昨日より少しだけうまく選べた。
消しゴムを借りて、翌日礼を言う。
それだけのことなのに、黒瀬にとってはたぶん大きな進歩だった。
「できてたと思う」
湊が言うと、黒瀬はカフェラテを見つめたまま、耳を少しだけ赤くした。
「……ならいいし」
「浮かれてた?」
「は?」
「白瀬さんが、今日の黒瀬ちょっと可愛いって」
言った瞬間、黒瀬の目が大きくなる。
「は!? あのメガネ何言ってんの!?」
「俺もびっくりした」
「てか、朝比奈も何それそのまま伝えてんの!」
「面白かったから」
「最低!」
怒っている。
でも、本気じゃない。
むしろ顔は完全に赤い。
「……可愛いって何」
少しして、クッションに顔を埋めながら、黒瀬が小さく言った。
「知らない。でも、今日の黒瀬はちょっと浮かれてた」
「浮かれてないし」
「浮かれてたよ」
「……ちょっとだけ」
また認めた。
夜になると、黒瀬は少しだけ素直になる。
消しゴムひとつで浮かれていたことも、昼にうまく残せたことが嬉しかったことも、こうして少しずつ言葉にしてくれる。
それが今夜は、妙に愛おしかった。




