ep.37 昼に残したくなるものを、ギャルはまだうまく選べない
昼にも、なんか残したくなる。
昨夜、黒瀬琉衣奈がそう言った言葉は、朝比奈湊の頭の中に思っていた以上に長く残っていた。
夜だけじゃなく。
教室の中にも、何かを残したい。
でも、うまくできない。
だから目や声の端にだけ夜の続きが滲む。
その感覚は、湊にもわかる気がした。
夜のことを引きずっているのは、たぶん自分も同じだからだ。
朝の通学路を歩きながら、湊は小さく息を吐いた。
「……また面倒なこと言うんだよな」
面倒だ。
でも、その面倒くささが嫌ではない時点で、もうだいぶ深いところまで来ているのだろう。
教室のドアを開ける。
今日も黒瀬は窓際の席にいた。
茶髪、巻き髪、メイク、少し気怠げな顔。学校用の彼女は今日も完璧で、昨夜ソファでクッションを抱えながら「昼にも残したくなる」と呟いていた人間とは思えない。
……いや、思えるから困るのか。
湊が入った瞬間、黒瀬は一度だけ目を上げた。
合う。
一秒より短い。
でも、すぐ逸らさない。
ほんのわずかに、昨夜より長い。
それだけの違いなのに、心臓には十分すぎた。
「朝比奈くん、おはようございます」
横から静かな声がする。
白瀬栞だった。
「おはよう」
「今日は少し、朝から落ち着かない顔ですね」
「もう顔の診断やめてくれない?」
「当たってます?」
「当たってるのが嫌なんだよ」
栞は少しだけ笑った。
相変わらず静かで、相変わらず近い。最近はもう、その近さを隠そうともしていない気がする。
「今日、英語の小テストでしたよね」
「うわ、忘れてた」
「やっぱり」
そのやり取りをしている間にも、窓際の空気が少しだけ動くのを感じた。
見なくてもわかる。
黒瀬がこっちを拾っている。
それを、たぶん栞もわかっている。
一限前、栞はいつものように前の席へ座った。
「少しだけ範囲見ますか」
「頼む」
ノートを広げ、ポイントを絞って話してくれる。穏やかで、わかりやすくて、無駄に焦らせない。
だから居心地がいい。
そして、その“居心地のよさ”が今の教室では少し危険でもある。
「……朝比奈くん」
「ん?」
「今日、黒瀬さん、ちょっとだけ頑張ってますね」
思わず顔を上げた。
「頑張ってる?」
「はい」
栞は窓際を直接見ないまま言う。
「視線の残し方が昨日より少し長いです」
そこまでわかるのか、と呆れるより先に、妙に納得してしまう。
たしかに今朝の目は少しだけ違った。
短すぎない。
でも長すぎもしない。
昼の教室で許されるぎりぎりを探っているみたいな、そんな視線だった。
「白瀬さん、もう実況の域だな」
「実況ではないです。観察です」
「似たようなもんだろ」
「かなり違います」
その断言が妙に面白くて、湊は小さく笑った。
その瞬間。
窓際から、はっきりわかるくらい視線が飛んできた。
笑ったのを、見られた。
たぶんそういうことだ。
二限の休み時間。
湊が自席でノートを閉じた時、黒瀬が友達と話しながらこちらの列へ来た。ロッカーか、あるいは廊下側の窓か、とにかく理由は何でも作れる動線だ。
そのまま通り過ぎるかと思ったが、湊の机の横で一瞬止まる。
「……消しゴム」
「え?」
「貸して」
かなり不自然だった。
黒瀬が消しゴムを忘れるタイプには見えないし、実際、たぶん忘れていない。
でも湊は何も言わず、筆箱から消しゴムを出した。
「はい」
「ん」
受け取る。
指先は触れない。
でも、ちゃんと受け渡しがある。
それだけだ。
それだけなのに、湊の胸は少しだけざわついた。
昼にも何か残したい。
その不器用な実践が、今のこれなのかもしれない。
黒瀬はそのまま戻っていくかと思いきや、半歩だけ振り返った。
「……あとで返すし」
小さくそう言って、また窓際へ戻っていった。
その“あとで返すし”の声は、少しだけ柔らかかった。
そしてもちろん、その一部始終を見ている人間がいた。
「今の、かなり頑張ってましたね」
後ろから栞の声。
「やっぱりわかる?」
「はい」
栞は教科書を抱えたまま、少しだけ目を細める。
「昼に何か残したい、みたいな感じでした」
その表現の正確さに、湊は少しだけ息を止めた。
昨夜の言葉を、まるで聞いていたみたいだ。
「白瀬さん、エスパーか?」
「違います」
「じゃあ観察力が怖い」
「今日は六割くらい褒め言葉ですね」
割合が下がったな、と思う。
昼休み。
栞はまた前の席にいた。
もうここまで来ると、前の席が彼女の定位置みたいに思えてくる。
「朝比奈くん」
「ん?」
「さっき、消しゴム」
「うん」
「うれしそうでしたね」
「俺が?」
「少しだけ」
その指摘に、湊はパンの袋を持ったまま固まった。
「そんな顔してた?」
「はい。ほんの少しですけど」
たぶん、していたのだろう。
わざとらしくなく、でも明らかに自分へ向けられた小さな接触。
それが、予想以上に効いた。
昼にも何か残したい。
その不器用な一手が、ちゃんと自分に届いてしまったのだ。
「……まずいな」
ぽつりと漏らす。
「何がですか」
「いや、いろいろ」
栞はそこで少しだけ黙った。
それから静かに言う。
「朝比奈くんって、拾うべきじゃないものまで拾うタイプですよね」
「それ、悪口か?」
「半分は」
「最近みんな半分ばっかだな」
「でも、そういう人だから」
栞は真っすぐには見ずに、パンの袋を整えながら続ける。
「黒瀬さんのああいう小さいの、ちゃんと気づくんだと思います」
その言い方はやさしかった。
少しやさしすぎて、湊は返事に困る。
気づく。
だから余計に苦しい。
でも、気づけるから嬉しい時もある。
たぶんその両方なのだろう。
午後、五限のあと。
黒瀬は消しゴムを返しに来た。
本当に返しに来たのかと、少しだけ驚く。
「……これ」
湊の机の端に置く。
「うん」
「別に、ほんとに借りたかっただけだし」
「そういうことにしとく」
「は?」
黒瀬が眉を寄せる。
その顔が、いつもの教室用の棘より少しだけ崩れていた。
「今日、ちょっと頑張っただろ」
小声で言うと、黒瀬は一瞬だけ目を丸くした。
「……知らないし」
否定は弱かった。
「でも、あんた気づいてたんだ」
「気づくだろ」
「……そっか」
その“そっか”は、たぶんかなり本音だった。
昼の教室で何かを残そうとして、ちゃんと届いたとわかる。
それだけで、少しは報われるのかもしれない。
ただ、そのやり取りを。
「やっぱり、今日はいつもより長かったですね」
すぐ後ろで栞が静かに言った。
もうタイミングが完璧すぎる。
「なんでいるんだよ毎回」
「たまたまです」
「そのたまたま、もう信じない」
「今日はそう言われると思ってました」
栞は少しだけ笑った。
「でも、よかったですね」
「何が」
「黒瀬さん、昼にもちゃんと残せました」
その言葉は、妙にやさしくて、少しだけ苦かった。
夜九時。
予想通り、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬は少しだけ気まずそうで、でもどこか機嫌が良かった。
「……遅」
「今日は普通だろ」
「気分の問題」
「それ便利だなほんと」
部屋へ上がってソファへ座る。
クッションを抱えて、少しだけ視線を泳がせてから、黒瀬が先に言った。
「……今日の、あれ」
「消しゴム?」
「うん」
「ちゃんと返したな」
「返すし」
当たり前みたいに言うが、その声は少しだけ照れていた。
「昼にも残したかったんだろ」
湊が言うと、黒瀬はクッションへ顔半分を埋めた。
「……ちょっとだけ」
ようやく認めた。
「でも、何すればいいかわかんなかったし」
「それで消しゴム?」
「無難じゃん」
「まあ、無難ではある」
「てか、もっと自然にやれると思ってたのに、普通に緊張したし」
そこまで言って、黒瀬は少しだけ笑う。
夜の黒瀬らしい、力の抜けた笑い方だった。
「昼に残したくなるものを、まだうまく選べない」
湊がぽつりと言うと、黒瀬はクッションの陰からこちらを見た。
「なにそれ」
「そのまま」
「……うまいこと言ったみたいな顔すんな」
「してない」
「してるし」
そう言いながらも、黒瀬の機嫌はかなりよかった。
昼の小さな一手が、ちゃんと届いていたとわかったからだろう。
そういう夜のやわらかさまで含めて、もうかなり深いところまで来ている気がして、湊はそれ以上考えるのをやめてキッチンへ向かった。
「カフェラテでいい?」
「それ」
即答。
その返事が、今夜は妙に愛おしく聞こえた。




