ep.36 静かなメガネっ娘の一手に、ギャルの夜は少し荒れる
翌日の昼休み、白瀬栞はいつも通り静かだった。
けれど、朝比奈湊にはわかっていた。
いつも通りに見えるだけで、今日はたぶん、少しだけ攻めている。
それは、席へ来るタイミングでわかった。
いつもなら購買から戻って少ししてから、自然に前の席へ腰を下ろす。
でも今日は違った。湊が購買の袋を手に教室へ戻ってきた瞬間、栞はもう前の席に座っていた。
しかも、机の上には自分の弁当箱と、湊のぶんらしい紙パックの紅茶が置かれていた。
「……白瀬さん?」
「おかえりなさい」
「いや、ここ俺の席じゃないんだけど」
「はい。前の席です」
「そういう意味じゃなくて」
栞はメガネの奥で少しだけ笑った。
「今日は早めに来てみました」
「早めって」
「黒瀬さんに先を越されないように」
湊は、思わずパンの袋を落としそうになった。
「……今、かなりすごいこと言ったな」
「そうですか?」
「そうだよ」
栞は淡々としている。
声はいつも通り小さいし、表情も穏やかだ。なのに、言っていることはかなり踏み込んでいた。
白瀬栞は、問い詰めない。
でも、何もしないわけではない。
昨日、黒瀬が「強……」と漏らした意味が、今さらながらよくわかった。
「座らないんですか?」
「座るけど」
湊は自席に座った。
その瞬間、窓際から視線が飛んできた気がした。
いや、気がしたではない。
来ている。
黒瀬琉衣奈が、友達と話しているふりをしながら、明らかにこちらを見ていた。
今日の目は細い。
かなり細い。
見ていないふりをしている時の目だと、栞が前に言っていた。
今なら、その意味が痛いほどわかる。
「……白瀬さん」
「はい」
「黒瀬、見てる」
「見ていますね」
栞はまったく動じない。
「いいのか?」
「何がですか」
「いや、こういうの」
「私は別に、悪いことをしているつもりはないので」
静かに言い切る。
強い。
本当に強い。
栞は紅茶の紙パックを湊のほうへ少し押し出した。
「これ、よかったら。朝比奈くん、今日は少し眠そうだったので」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……白瀬さん、今日ちょっと距離近くない?」
「はい」
「認めるんだ」
「認めます」
栞はそこで少しだけ視線を落とした。
「昨日、黒瀬さんが私のことをかなり気にしているのがわかったので」
「うん」
「だったら、私もちゃんと自分の位置を決めておいたほうがいいかなと思いました」
自分の位置。
その言葉が妙に重かった。
栞は、誰かを押しのけるような子ではない。
けれど、自分がどこにいたいのかを曖昧にしたまま、ただ眺めているつもりもないのだろう。
朝比奈湊の近く。
前の席。
昼の教室で自然に話せる場所。
その位置を、今日は静かに取りに来ている。
「白瀬さんって、本当に静かに強いよな」
「昨日も言われました」
「今日のほうが強い」
「そうですか」
栞は少しだけ困ったように笑う。
「でも、無理はしていません」
「そう見える」
「ならよかったです」
その会話の途中で、窓際から椅子を引く音がした。
湊の背筋がわずかに伸びる。
黒瀬が立ち上がっていた。
友達と何か話しながら、でも歩く方向は明らかにこちら側だ。ロッカーに用事があるのかもしれない。いや、たぶんそれは建前だ。
黒瀬は湊の席の横を通る瞬間、ぴたりと止まった。
「……そこ、通るんだけど」
昨日も聞いた気がする。
しかし今日は、昨日より少し声が低い。
「あ、ごめん」
湊が椅子を引く。
黒瀬はその隙間を通り抜けようとして、ふと机の上の紙パックに目を止めた。
「……紅茶?」
呟きのような声。
栞が静かに答える。
「朝比奈くん、少し眠そうだったので」
「へえ」
黒瀬の“へえ”は、過去最高に温度が低かった。
湊は内心で頭を抱える。
これはだめだ。
夜に確実に持ち込まれる。
「優しいんだね、白瀬って」
黒瀬が言った。
珍しく“メガネ”ではなく名前で呼んだ。
だが、そのぶん棘がある。
栞は少しも慌てなかった。
「そう見えたなら、嬉しいです」
さらっと返す。
黒瀬の眉が、ほんのわずかに動いた。
火花、とまでは言えない。
けれど、空気が確実に細く張った。
「……ふーん」
黒瀬はそれだけ言って、ロッカーのほうへ歩いていった。
湊はその背中を見ながら、小さく息を吐く。
「……今の、かなり怖かった」
「そうですね」
「白瀬さん、平気なのか」
「少し怖かったです」
「全然そう見えなかったけど」
「見せないようにしました」
栞は本当に強い。
そして、強いだけではなく、今日は明確に退かない。
昼休みの残り時間は、妙に落ち着かなかった。
栞はいつも通り穏やかに話す。
黒瀬はいつも通り友達と笑っている。
けれど、教室の空気の底には、さっきのやり取りがずっと残っていた。
放課後。
黒瀬は今日はすぐに帰らなかった。
友達に「先帰ってて」と言って、一人で教室に残った。
その時点で湊は、嫌な予感がした。
栞もそれに気づいたのか、帰り支度をしながら小さく言った。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日は、夜が少し荒れるかもしれませんね」
「予言やめてくれ」
「予言ではなく、観察です」
「どっちでも嫌だ」
栞は少しだけ笑った。
「でも、黒瀬さんはたぶん、ちゃんと来ます」
「それもわかるのか」
「はい」
栞は窓際を一度見てから、静かに続けた。
「今日の顔は、そういう顔です」
その言葉は、恐ろしいほど当たっていた。
夜九時。
インターホンが鳴る。
湊は深く息を吐いてから玄関へ向かった。
モニターには黒瀬。
表情は、かなりわかりやすく不機嫌だった。
ドアを開ける。
「……遅」
「今日は絶対それ言うと思った」
「何それ」
「いや、機嫌悪そうだったから」
「悪くないし」
「無理ある」
黒瀬は返事をせず、部屋へ上がった。
靴を脱ぐ音がいつもより少し強い。
ソファへ座る動きも、わかりやすく荒い。
クッションを抱える。
顔は逸らす。
でも、言いたいことが山ほどあるのは明白だった。
「カフェラテ?」
「……それ」
湊はキッチンへ向かった。
お湯を沸かす間、背中に刺さるような沈黙がある。
こういう時、黒瀬は自分から切り出すまでに少し時間がかかる。
怒っているというより、自分の感情をどう出せばいいかわからないのだ。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はすぐに受け取らなかった。
「……今日のあれ、何」
「紅茶?」
「それも」
「それも?」
「あのメガネ、なんか今日、やたら強かったんだけど」
やっぱりそこだ。
湊はカップをテーブルに置いた。
「白瀬さん、今日は自分の位置を決めたって言ってた」
「は?」
黒瀬の顔が本気で険しくなる。
「何それ」
「俺も詳しくはわかんないけど」
「いや、わかるじゃん」
「何が」
「あんたの近くにいるってことでしょ」
はっきり言った。
黒瀬自身も、その言葉の意味を理解しているからこそ、言った瞬間に少しだけ口を閉じる。
「……たぶん」
湊が答えると、黒瀬はカフェラテを掴むように取って、一口飲んだ。
「強すぎ」
「それ昨日も言ってた」
「今日のほうが強いし」
「俺もそう思った」
「そこで同意すんな」
黒瀬はクッションを抱き直した。
その仕草が、怒っているというより、自分の不安を隠すみたいに見えた。
「……あのメガネさ」
「うん」
「静かな顔して、普通に来るじゃん」
「そうだな」
「しかも、周りに見られてもあんまり崩れないし」
「うん」
「ずるい」
その言葉が、本音だった。
栞は昼の教室で堂々と近づける。
黒瀬はそれができない。
夜にしか出せない顔があるから、昼では余計に動けない。
そこが、彼女にとって一番しんどいのかもしれない。
「黒瀬は夜に来てるだろ」
湊が言うと、黒瀬は少しだけ目を上げた。
「……それはそうだけど」
「昼の白瀬さんと、夜の黒瀬で、場所が違うだけじゃないのか」
「そんな綺麗に分けられないし」
「まあ、そうだな」
「てか、あんたがそれ言う?」
「俺?」
「昼も夜も、どっちにもいるくせに」
それはその通りすぎて、湊は何も言えなかった。
栞の隣にもいる。
黒瀬の夜にもいる。
そういう自分が、一番曖昧なのだ。
「……悪い」
自然と口から出た。
黒瀬は一瞬だけ驚いた顔をした。
「なんで謝んの」
「いや、なんか」
「そういうのもずるい」
「今日ずるい多いな」
「多いし」
黒瀬は少しだけ口を尖らせる。
でも、最初に来た時の荒さは少し薄れていた。
カフェラテをもう一口飲み、息を吐く。
「……あたしも、昼にもうちょい普通に話せたらいいんだけど」
ぽつりと落ちた言葉。
それは、今までより少し前に進んだ本音だった。
「できない?」
「無理」
即答。
「なんで」
「学校だし。周りいるし。てか、今さら無理だし」
「まあ、急に変わったら驚かれるな」
「でしょ」
黒瀬はクッションへ顎を乗せた。
「でも、あのメガネが普通に近いの見ると、ちょっと思う」
「何を」
「……昼にも、なんか残したくなる」
それはかなり重要な一言だった。
昼にも、何かを残したい。
夜だけじゃなく。
教室の中でも、湊との間に何かがあると、少しだけ示したくなる。
それは、黒瀬自身が昼と夜の境界に揺れ始めている証拠だった。
「……残ってると思うけどな」
湊が言うと、黒瀬は少しだけ顔を上げた。
「何が」
「目とか。声とか」
「……白瀬にも言われてたやつ?」
「そう」
「最悪」
「でも、ゼロじゃないってことだろ」
黒瀬は数秒黙った。
それから、少しだけ目を逸らして言う。
「……なら、いいけど」
小さな声だった。
そのあと、黒瀬はようやくソファに深く座り直した。
夜は少し荒れた。
でも、荒れたあとでちゃんとやわらかくなる。
それが最近の黒瀬琉衣奈だった。
静かなメガネっ娘の一手に、ギャルの夜は少し荒れる。
けれどその荒れ方すら、もう湊にはただ面倒なだけのものではなくなっていた。




