ep.35 メガネっ娘は静かに近づき、ギャルはわかりやすく不機嫌になる
静かに近づいてくる相手と、わかりやすく不機嫌になる相手。
その両方に挟まれているのだと自覚すると、朝比奈湊の学校生活は急に難易度が上がる。
いや、実際に何かを迫られているわけではない。
白瀬栞は問い詰めない。
黒瀬琉衣奈は告白しない。
どちらも決定的な言葉は口にしない。
なのに、空気だけが少しずつ濃くなる。
それがいちばん厄介だった。
前夜、黒瀬は同じソファで動画を見ながら、昼の不機嫌を夜の近さで回収していった。
「今日は昼のぶん」とかいう意味のわからない理屈で膝の距離を少し詰め、最後には「昨日の夜のこと思い出して、教室でちょっと笑いそうだった」とまで言った。
ああいう夜のあとに迎える朝は、大抵よくない。
教室のドアを開ける前から、それはわかっていた。
案の定、黒瀬はもう来ていた。
窓際の席。
茶髪、巻き髪、学校用の強い顔。
友達と話しながら、表向きはいつも通りのギャル。
でも、湊が教室へ入った瞬間に一度だけ上がった視線は、昨夜の続きを知っている目だった。
一秒。
ほんの一秒。
それだけなのに、昨夜ソファで肩を揺らして笑っていた顔が頭の中に戻ってくる。
湊は小さく息をつき、自分の席へ向かった。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声が横から届く。
白瀬栞だった。
「おはよう」
「今日は少しだけ、昨日より顔がやわらかいですね」
「それ昨日も言われた気がする」
「最近、表情が前より動きやすいので」
さらっと言われて、苦笑するしかない。
栞は本当に、こういう小さな変化を見逃さない。
「今日、放課後って少し時間ありますか」
「ん?」
「図書室に返す本があるので、そのついでに新しいのを探したくて」
言い方は控えめだ。
でも、ちゃんと誘っている。
最近の栞はそうだ。前なら“たまたま一緒”の形を取りたがっていた気がするのに、今はもう少しだけ自然に「一緒にどうですか」と差し出してくる。
「……ああ、いいよ」
答えると、栞はほんの少しだけ目をやわらげた。
「ありがとうございます」
そのやり取りの途中で、窓際から視線が飛んでくるのがわかった。
見なくても、もうなんとなくわかる。
そして、それが気のせいではないこともだいたい当たっている。
一限前、栞はいつものように前の席へ座った。
最近ではそれも、もうかなり自然な風景になってきていた。
「古典、今日は助動詞のところでしたっけ」
「うん。たぶん」
「たぶん、じゃなくてそうです」
「言い切るな」
「言い切れます」
小さく笑う。
こういうやり取りの中で、栞の近さはいつも静かに増えていく。
押しつけがましくない。
でも、引きもしない。
それが黒瀬からすると、たぶんいちばん面倒なのだろう。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日、窓際のこと気にしすぎです」
「やっぱりわかる?」
「今日はかなり」
「最近そればっかだな」
「事実が継続してるので」
冷静な言い方に、思わず笑う。
だが、笑ってばかりもいられない。
二限の休み時間、前の席の男子が戻ってきた時に何気なく言ったのだ。
「あれ、白瀬さん最近ここ固定じゃね?」
深い意味はない。
ただの雑談。
だからこそ厄介だった。
栞は動じず、「たまたまですよ」とだけ返して自分の席へ戻った。
でも、その一言が周囲の空気に薄く波紋を広げたのを、湊ははっきり感じた。
そしてその“波紋”を、窓際の誰かも拾っている。
昼休み。
購買から戻ると、栞はまた前の席にいた。
「今日も焼きそばパンじゃないんですね」
「毎日だと飽きるだろ」
「でも好きなんですよね」
「なんでそんな知ってるんだ」
「最近、見てるので」
言い切られると弱い。
「白瀬さん、最近ちょっとまっすぐだよな」
湊がそう言うと、栞はパンの袋を整えながら少しだけ首をかしげた。
「そうですか?」
「うん。前より“近くにいる”の隠さなくなった」
その言葉に、栞は少しだけ黙った。
それから、やわらかく言う。
「隠す必要、あまりないかなと思ったので」
「それ、かなり強い発言だな」
「そうかもしれません」
否定しない。
そして、その会話が終わる前に、窓際から椅子を引く音がした。
黒瀬が立ち上がったのだ。
友達と一緒に笑いながら、でもまっすぐこちらへ来る。
いや、正確にはこっちの列のロッカーを使うために来るだけだ。
でも、その足取りには妙なまっすぐさがあった。
湊の席の横を通る瞬間、黒瀬が小さく言う。
「……前、通るんだけど」
言い方は冷たい。
でも、必要以上に冷たい。
「悪い」
湊が少し椅子を引くと、黒瀬は「別に」とだけ言って通り過ぎた。
それだけだ。
それだけなのに、空気が少しだけ張る。
通り過ぎたあと、栞が小さく息をついた。
「今日の黒瀬さん、かなりわかりやすいですね」
「やっぱり?」
「はい」
栞は静かに続ける。
「前より、私に対して棘が増えてる気がします」
その指摘に、湊は少しだけ言葉を失った。
栞自身も、もう気づいているのだ。
自分が近づくことで、黒瀬の機嫌が揺れることに。
「嫌か?」
自然とそう聞いていた。
栞は少し考えてから、首を横に振る。
「嫌というより……」
「うん」
「ちゃんと見えるんだな、と思います」
思ったより静かな答えだった。
「私が近くにいることを、黒瀬さんがちゃんと嫌がるなら」
栞はメガネの位置を軽く直す。
「それだけ、朝比奈くんの近くが大事なんだと思うので」
その言葉は、刺さるというより重かった。
黒瀬の不機嫌を、栞はもう敵意としてだけ受け取っていない。
そこにある感情の向きまで、ちゃんと見ている。
しかも、その上で引かない。
やっぱり強い。
「白瀬さん、ほんと強いな」
湊がぽつりと言うと、栞は少しだけ笑った。
「静かにしてるだけです」
「それが強いんだよ」
放課後。
約束通り、図書室へ向かうことになった。
並んで廊下を歩く。
教室より少しだけ人が減り、空気が静かになる。
この時間の栞は、教室の中よりさらに話しやすい。
「この前の本、どこまで読みました?」
「半分ちょっと」
「最後のほう、朝比奈くん好きだと思います」
「それ、だいぶ精度高いよな」
「最近わかってきたので」
またその言い方だ。
最近わかってきた。
それは本の好みだけじゃなく、たぶん人としての湊のことも含んでいる。
図書室で返却を済ませ、新しい本を眺める。
栞は相変わらず無駄な動きが少なくて、静かに棚を選び、静かに話し、静かに距離を詰める。
それを自覚した瞬間、湊はふっと窓の外を見た。
ちょうど夕方の光が差し込んでいる。
そして、不意に教室の窓際を思い出した。
ああ、これをもし黒瀬が見たら、また今日みたいな顔をするんだろうな、と。
夜九時。
その予感は、やはり外れなかった。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はかなりわかりやすく不機嫌だった。
「……何」
湊が先に言うと、黒瀬はじとっと睨んできた。
「別に」
「今日それ絶対別にじゃないだろ」
「見てないけど、見えたし」
「またそれか」
「事実だし」
部屋へ上がってソファに座る動作すら、今日は少しだけ乱暴だ。
湊はキッチンへ向かいながら苦笑する。
「カフェラテでいい?」
「それ」
「知ってる」
お湯を沸かしていると、背中越しに黒瀬の声が飛ぶ。
「放課後、図書室行ってたじゃん」
「行ってた」
「そのあとも、ちょっと一緒だったし」
「本見てただけだろ」
「それがむかつくって言ってんの」
あっさり言った。
最近の黒瀬は、夜の部屋では嫉妬の輪郭が前よりずっと明確だ。
「……そんなにか」
「そんなにだし」
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はクッションをぎゅっと抱えていた。
「はい」
「ん」
ひと口飲む。
それから、少しだけ唇を尖らせたまま言う。
「あのメガネ、静かな顔で近づきすぎなんだよね」
「それはちょっとわかる」
「わかるんだ」
「今日、本人に言ったし」
その一言に、黒瀬がぴくっと反応した。
「……何を」
「前より近いって」
「で?」
「隠す必要あんまりないかなと思ったって」
そこまで伝えると、黒瀬は一瞬言葉を失った。
それから、深くため息をつく。
「強……」
ぽつりと漏れたその一言が、妙に本音っぽくて、湊は少しだけ笑いそうになった。
「笑うな」
「いや、だって」
「それ、ほんと強いじゃん」
「うん。俺もそう思った」
「……最悪」
言いながらも、その“最悪”には少しだけ諦めた響きが混じっていた。
メガネっ娘は静かに近づき、ギャルはわかりやすく不機嫌になる。
その構図がもうほとんど完成しつつあるのだと、湊はその夜あらためて思った。




