ep.34 夜のソファで笑うギャルは、昼の不機嫌をちゃんと引きずってくる
昼の教室で交わす一秒が長くなった分だけ、夜の部屋へ来る理由は少しずつ雑になっていく。
朝比奈湊は、その日の夜、そんなことを思っていた。
理由がなくなったわけじゃない。
黒瀬琉衣奈がここへ来る夜には、今でもたぶんちゃんと理由がある。家が落ち着かないとか、眠れないとか、教室の空気が妙にだるかったとか、そういう細かなものが重なっているのだろう。
ただ、それを毎回わざわざ言葉にしなくなっただけだ。
最近の黒瀬は、もう理由を作らなくても来る。
そして湊も、インターホンが鳴る前から少しだけ待っている。
そのこと自体が、かなり危ういのだと思う。
夜九時過ぎ。
案の定、インターホンが鳴った。
湊は机の上の文庫本を閉じ、ほとんど反射みたいに立ち上がる。モニターを見るまでもない気がしたが、一応覗くと、やはり黒瀬だった。
今日は淡い色のTシャツに、短めのルームパンツ。その上から薄いカーディガンを羽織っている。髪はおろしたまま。かなり家に近い格好だ。
ドアを開ける。
「……遅」
「最近それしか言わないな」
「使いやすいし」
「便利な言葉扱いするなよ」
「強いから」
「はいはい」
もうこのやり取りも、かなり身体に馴染んでいる。
黒瀬は自然に部屋へ上がり、自然にソファへ向かう。途中、冷蔵庫のほうをちらっと見たのが目に入って、湊は先に言った。
「今日は勝手に開けるなよ」
「なんで」
「まだ夜食の材料考えてる途中」
「夜食あるんだ」
「あるかも」
「じゃあ待つ」
そう言って、黒瀬はあっさりソファへ沈んだ。
クッションを抱え、足を軽く崩す。その姿はもうすっかり夜の彼女の標準形で、湊はそれを“いつもの位置”だと思ってしまう自分に少しうんざりする。
「カフェラテ?」
湊が聞くと、黒瀬はすぐに頷いた。
「それ」
「知ってた」
「なら聞くなって」
「儀式だよ」
前にも同じことを言った気がする。
でも、こういう繰り返しこそが、今の二人の夜を作っているのだろう。
お湯を沸かしながら背中越しに気配を探ると、黒瀬は今日、そこまで沈んでいる感じではなかった。眠そうでも、拗ね切っているわけでもない。
ただ、少しだけ昼の空気を引きずっている。
たぶん朝と昼の、あの細い視線のやり取りの続きだ。
カフェラテを持って戻る。
「はい」
「ん」
黒瀬は受け取るなり、ひと口飲んだ。
それから小さく息をついて、クッションへ顎を乗せる。
「……今日も、顔ゆるかったし」
やっぱりそこを言うのかと思う。
「昼の話か」
「うん」
「まだ引きずってるのそっちだろ」
「そりゃ引きずるし」
即答だった。
そこは隠さない。
「朝、目合ったじゃん」
黒瀬が言う。
「うん」
「で、そのあとちょっと顔やわらかくなってたし」
「そんな細かく見るなよ」
「見えるし」
「そっちも見てただろ」
「……まあ」
そこで少しだけ目を逸らす。
でも否定しない。
最近の黒瀬は、夜の部屋では本当に少しずつ嘘が下手になっている。
「あと、昼」
「ん?」
「あのメガネとまた近かったし」
「それも言うのか」
「言う」
クッションを抱え直しながら、黒瀬は不満そうに眉を寄せた。
「普通に前の席いるし、普通に話してるし」
「普通にクラスメイトだからな」
「その“普通”がなんかむかつく」
今日の黒瀬は、だいぶわかりやすい。
昼の不機嫌を夜までちゃんと持ってきている。
でも、それを持ってくるということは、ここで消化する前提でもあるのだろう。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ黙った。
「……知らない」
「またそれか」
「だって、ほんとわかんないし」
そこは本音なのだと思う。
栞が近いことが面白くない。
でも、どうしてほしいのかまでは自分でも整理できていない。
その曖昧さごと、夜になると持ち込んでくる。
面倒だ。
でも、その面倒くささが少しずつ可愛く見えてしまうから困る。
「昼の黒瀬って、最近ちょっと棘強いよな」
湊が言うと、黒瀬はすぐに睨んできた。
「それは朝比奈が悪い時もあるし」
「俺?」
「だって、あのメガネと話してる時、わりと無防備だし」
「無防備って」
「なんか、普通に楽しそうだし」
やっぱりそこなのだ。
栞と話している時の湊の空気が、前よりやわらかい。
それが、黒瀬にはちゃんと見えている。
「……白瀬さん、話しやすいから」
正直に言うと、黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
「それ、今ここで言う?」
「嘘ついてもしょうがないだろ」
「むかつく」
でも、本気で怒っているわけじゃない。
むしろ、その不満をこうしてちゃんと口にしてくる時点で、かなり夜の顔だ。
「でも」
湊は少しだけ言葉を選ぶ。
「それと、黒瀬が嫌って話は別だろ」
前にも似たようなことを言った気がする。
でも、今の二人には何度でも確認が必要なことなのかもしれない。
黒瀬は一瞬だけ黙って、それからクッションへ顔半分を埋めた。
「……そういうの、ずるい」
「なんで」
「ちゃんとわかるように言うし」
「わからないとお前ずっと不機嫌だろ」
「それは……まあ」
そこは否定しない。
少ししてから、黒瀬はようやく小さく笑った。
不機嫌の膜が少しだけはがれる。
「てか、今日なんか見る?」
湊が話題を変えると、黒瀬はクッション越しにこちらを見た。
「動画」
「またソファ?」
「なにその言い方」
「いや……」
昨日の、というか最近のソファ事情を思い出してしまう。
膝の距離。
“たまたま”を装うやつ。
ベッドの端に座られた夜。
そういうのが一気に頭へ浮かんで、湊は少しだけ言葉を濁した。
すると黒瀬は、それだけで面白そうな顔になった。
「……まだ気にしてるんだ」
「してない」
「うそ」
「してないって」
「じゃあ、同じソファ座れる?」
挑発みたいに言われて、湊は少しだけ眉をひそめた。
「それ、完全にわざとだろ」
「わざとじゃないし。画面見やすいだけ」
「その言い訳もう聞いた」
「使えるからいいじゃん」
まるで反省していない。
でも、その生意気さの奥に、昼の不機嫌をちゃんと夜で崩したい、みたいな空気があるのもわかる。
「……今日は端でも文句言うなよ」
湊が観念して言うと、黒瀬は少しだけ笑った。
「うん、たぶん」
「たぶんかよ」
結局また、二人は同じソファへ座ることになった。
もちろん湊はかなり端に寄る。
でも、黒瀬はそれを見るなり言った。
「それだと昼の教室で距離置いてる時と変わんないし」
「何その理屈」
「せっかく夜なんだから、もうちょい普通でいてよ」
普通、という言葉の使い方が絶対におかしい。
でも、その“せっかく夜なんだから”が、妙に今の二人を表している気もした。
昼は細い視線と冷たい一秒。
夜はインターホンとカフェラテと、少し近いソファ。
そういう切り替えが、もうほとんど二人の中で当たり前になりつつある。
動画を流し始めると、黒瀬は案の定、少しだけ距離を詰めてきた。
露骨ではない。
でも、わかる。
昨日までよりほんの少しだけ、膝が近い。
「……今日もか」
湊が小さく言うと、黒瀬は画面を見たまま返した。
「今日は昼のぶん」
「何だそれ」
「機嫌直す用」
その返しに、思わず笑ってしまった。
「便利だな、それ」
「そっちも笑ったし、たぶん効いてる」
「否定はしない」
そう答えると、黒瀬は少しだけ満足そうにクッションへ頬を押しつけた。
昼の不機嫌を、夜の近さで回収しに来る。
たぶん、それが最近の黒瀬のやり方なのだろう。
冷たい言葉のあとで来るギャルは、自分でも少し困っている。
でも、困っているだけじゃなく、どうにかしようともしている。
それがわかる夜は、やっぱり少しだけずるい。
「……朝比奈」
「ん?」
「今日、教室で目合った時さ」
「うん」
「ちょっとだけ、笑いそうだった」
黒瀬は小さく言った。
画面を見たまま。
でも声はかなりやわらかい。
「なんで」
「昨日の夜のこと思い出したから」
それはたぶん、湊も同じだった。
一秒だけ目が合う。
でも、その中に昨夜の空気が残っている。
それは昼の教室には重すぎる。
「……そりゃ、俺もだよ」
正直に返すと、黒瀬は少しだけ黙って、それからクッションの陰で笑った。
「やっぱり」
夜のソファで笑うギャルは、昼の不機嫌をちゃんと引きずってくる。
でも、その引きずり方まで含めて、もうだいぶ愛おしいと感じ始めている自分がいて、湊はそれ以上深く考えないように動画の画面へ視線を戻した。




