ep.33 教室で目が合う一秒は、夜の十分より長い
昼の教室で交わす一秒は、夜の十分より長く感じることがある。
朝比奈湊は、その日の朝、窓際の席を見た瞬間にそう思った。
黒瀬琉衣奈は今日も学校の顔をしていた。
茶髪はきれいに巻かれ、メイクも整っていて、制服の着崩し方もいつも通り絶妙だ。隣の席の女子とスマホをのぞき込みながら、少しだけ笑っている。その横顔だけ見れば、昨夜ソファでクッションを抱えながら「昼のほう、次から半分は気をつける」と言っていた人間には見えない。
でも、湊が教室に入った瞬間だけ、黒瀬の視線はたしかにこちらへ向いた。
目が合う。
ほんの一秒。
それだけなのに、昨夜の空気が一気に頭の中へ戻ってくる。
ごめん、と小さく言った声。
カフェラテを持つ指先。
“昼の棘を夜で回収しに来る”みたいな不器用さ。
その全部が、一秒の視線の中に圧縮されている気がした。
そして黒瀬はすぐに逸らす。
何もなかったみたいな顔で、また友達との会話へ戻っていく。
「……長」
思わず口の中で呟いた。
たった一秒なのに、やけに長い。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声がして、意識が切り替わる。
白瀬栞が今日もいつもの調子で立っていた。メガネ、黒髪、きちんとした制服。教室の中の栞は相変わらず地味で真面目な印象なのに、近くに来るとその“静かな近さ”が前より少しずつ濃くなっている。
「おはよう」
「今日は少しだけ、起きたばかりみたいな顔ですね」
「それどういう顔だよ」
「ぼんやりしてる顔です」
「朝一で刺してくるな」
「事実だけなので」
栞は少しだけ笑って、机の端にプリントを置いた。
「あと、今日は黒瀬さんと目、合いましたね」
湊は一瞬、固まる。
「……見てたのか」
「見えてしまった、が正しいです」
「その違いある?」
「あります。今日はかなり自然に見えました」
「自然に見えるな」
「ええ。だから逆に少し気になりました」
そこまで細かいのかと思う。
でも、今さら驚く段階でもない。この子はもうかなりいろいろ見えている。ただ、見えているものを騒がしく扱わないだけだ。
一限の前、栞は自然な流れで前の席へ座った。
最近はもう、これにもいちいち驚かなくなっている。むしろ、来ない日のほうが少しだけ不思議に感じるくらいだ。
「古典、少しだけ見ますか」
「うん」
ノートを開いて、助動詞と敬語の欄を見る。栞の説明は相変わらず簡潔でわかりやすい。
だが今日は、湊の意識が少しだけ散っていた。
窓際。
目が合った一秒。
それを見ていた栞。
全部が気になる。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日は三回くらい、同じところ読んでます」
「またか」
「またです」
栞は頷く。
「最近、授業前の集中力が少し落ちてますね」
「原因はなんとなくわかってる」
「それならいいです」
「よくないだろ」
「わからないままよりは」
その返しに、少しだけ笑ってしまう。
たしかにそうだ。
理由がわからないよりは、まだましだ。
問題は、その理由がかなり面倒くさいことだけれど。
二限と三限のあいだの休み時間、湊はロッカーで教科書を入れ替えていた。
その時、窓際から出てきた黒瀬とすれ違う。
今度は目が合わない。
その代わり、通り過ぎざまに小さな声だけが落ちた。
「……今日、顔ゆるいし」
「は?」
反射で振り返ると、黒瀬はすでに数歩先を歩いていた。
振り返りもしない。
でも、言葉だけはちゃんと置いていった。
顔ゆるい。
たぶん朝の一秒のあとから、そういうつもりの顔になっていたのだろう。
「……そっちのせいだろ」
小さく返すが、黒瀬には届いたかどうかわからない。
いや、たぶん届いている。
届いている前提で、振り返らないのが昼の黒瀬らしい。
そして、そのやり取りを。
「今のも、だいぶ違いましたね」
後ろから栞の声がした。
「なんで毎回近くにいるんだよ」
「たまたまです」
「そのたまたま、精度高すぎる」
「今日はかなり」
栞は教科書を抱えたまま、少しだけ首をかしげる。
「黒瀬さん、最近一秒で終わらないですね」
「何が」
「朝比奈くんを見る時間です」
その表現が妙にしっくりきて、湊は言葉に詰まった。
一秒で終わらない。
たしかにそうだ。
前なら、本当に一瞬だった。
今は、その一瞬の中に続きがある。
それが教室の中にも残り始めている。
「白瀬さんって、やっぱり怖いな」
「今日は何割ですか」
「七割」
「少し下がりましたね」
「慣れてきた」
「それはよかったです」
昼休み。
いつものように栞が前の席へ来た。
今日はサンドイッチだ。湊は購買のパンと紙パックのコーヒー。こういう組み合わせも、最近はかなり定着している。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日、少しだけ機嫌いいですか」
「え?」
「朝より、今のほうがやわらかい顔してます」
言われて、自分でも少し考える。
たしかに、昼の時点ではまだ昨夜の余韻が重たかった。けれど、朝に目が合って、休み時間に小さく言葉が飛んできて、そのたびに“ちゃんと続いてる”感じが少しずつ確認できたせいかもしれない。
教室では冷たい。
でも、完全に切れているわけじゃない。
そのことが見えるだけで、少し楽になる。
「……わかりやすいな、俺」
「かなり」
「もうそれ毎回言われてる気がする」
「事実が続いてるので」
栞はそう言って小さく笑った。
それから少しだけ真面目な顔になる。
「でも、少し安心しました」
「何が」
「黒瀬さん、やっぱりちゃんと返してます」
「返してる?」
「朝比奈くんにだけ」
その言い方は、静かなのにやけに強かった。
返している。
無視じゃない。
冷たくても、距離を取っていても、何かしら返ってくる。
それはもう、かなり特別なのだろう。
「……白瀬さん、それ言っててしんどくならない?」
つい聞いてしまう。
栞は一瞬だけ目を丸くして、それからやわらかく答えた。
「少しは」
そこは隠さない。
「でも、わかってることを無理に見ないふりするほうがしんどいので」
静かな本音だった。
栞もまた、この三角形の空気の中にちゃんと立っているのだと、その言葉で改めて思う。
放課後になると、教室の空気はまた少しほどける。
黒瀬は今日は友達と帰るらしく、先に鞄を持って立ち上がった。
出口へ向かう途中、ほんの一瞬だけ振り返る。
また目が合う。
朝の一秒より、少しだけ長い。
でも夜の十分よりは短い。
その中途半端な長さが、今の二人らしかった。
何も言わない。
でも、何もないわけじゃない。
そんな視線を残して、黒瀬は教室を出ていく。
湊はその背中を見送りながら、妙に深く息を吐いた。
昼の教室で交わす一秒は、夜の十分より長い。
それはたぶん、その一秒の中に夜の続きを詰め込みすぎているからだろう。
夜になればまたインターホンが鳴るかもしれない。
鳴らないかもしれない。
でも、昼の一秒がこんなに長くなってしまった以上、もう何も変わっていないとは言えなかった。




