ep.32 冷たい言葉のあとで来るギャルは、自分でも少し困っている
昼の教室に夜の気配が残り始めると、何がいちばん厄介かといえば、たぶん“普通にすること”の難しさだ。
朝比奈湊は、その日の三限と四限のあいだ、ずっとそんなことを考えていた。
別に、大きな事件は起きていない。
黒瀬琉衣奈が学校であからさまに態度を変えたわけでもないし、白瀬栞が何かを言いふらしたわけでもない。周囲がざわついているといっても、せいぜい「最近ちょっと話してるよね」程度の、教室内の空気の揺れにすぎない。
それでも、一度気づき始めたものは簡単には見逃されない。
湊が前の席の栞と話している時間。
黒瀬がそれを見ないふりをしている時の目の細さ。
そして、夜になると何事もなかったみたいにインターホンが鳴ること。
その全部が、少しずつつながり始めていた。
四限が終わり、昼休みになる。
教室が一気にざわめいて、椅子を引く音や誰かを呼ぶ声が重なる。湊は購買に行こうとして立ち上がったが、その前に栞がいつものように静かな足取りで近づいてきた。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日、購買ですよね」
「たぶん」
「焼きそばパンが残っていたら、お願いしてもいいですか」
「また?」
「今日は食べたい気分なので」
「了解」
短いやり取りだ。
何も不自然じゃない。
なのに最近は、こういう何でもない会話すら教室の空気に小さく引っかかる。
それがわかるから、湊の視線はどうしても窓際へ向いた。
黒瀬は友達と話していた。
だが、視線だけがこちらを見ていた。しかも今日は一瞬じゃない。ほんの数秒。まっすぐではないが、明らかにこちらのやり取りを拾っている目だった。
目が合う。
その瞬間、黒瀬は小さく眉を寄せた。
そして。
「……購買行くなら、そこ通れないし」
いきなりそう言った。
席の前に立っていた女子二人が少しだけ驚いた顔をする。湊も一瞬、言葉が出なかった。
今のは、完全にこちらへ向けた言葉だったからだ。
しかも、いつもの“教室用の冷たさ”より少しだけ鋭い。
「あ、悪い」
湊が言うと、黒瀬は「別に」とだけ返して視線を逸らした。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、空気は少しだけ張った。
近くにいた栞が、その一瞬を静かに見ていたのがわかった。
購買へ向かう廊下で、湊は少しだけ息を吐く。
「……今の、わざとだよな」
誰に聞かせるでもなく呟いた時、すぐ後ろから栞の声がした。
「たぶん、少しだけ」
並んで歩いてきていたらしい。
「いたのか」
「いました」
栞は特に責めるでもなく、ただ落ち着いた顔で言う。
「今日の黒瀬さん、少し尖ってますね」
「さっきの、そんなわかりやすかった?」
「はい」
即答だった。
「他の人に向ける棘と、少し違いました」
「どう違うんだよ」
「朝比奈くんをちゃんと見てから言ってます」
それがいちばん厄介なのだ。
無関心じゃない棘。
見ているからこその冷たさ。
それが昼の黒瀬の特徴になりつつある。
焼きそばパンを二つ確保して教室へ戻ると、黒瀬はもう何事もなかったみたいな顔に戻っていた。
だからこそ、さっきの一言だけが妙に引っかかる。
昼休み、栞は前の席に座ってパンを受け取った。
「ありがとうございます」
「うん」
「……少し、気にしてますか」
焼きそばパンの袋を開きながら、栞が小さく聞く。
「何を」
「さっきのこと」
ごまかす意味もない。
「まあ、少しは」
「そうですよね」
栞は頷く。
「でも、あれはたぶん……朝比奈くんにだけ、です」
「それも最近よく聞くな」
「事実なので」
そこまできっぱり言われると、逆に逃げづらい。
昼の残り時間は、どこか落ち着かなかった。
黒瀬とは目が合う。
でも、合った瞬間に逸らされる。
時々、妙に機嫌が悪そうに見える。
でも友達と話している時にはちゃんと笑う。
つまり、自分が少しだけ原因なのだろう。
そうわかるのに、教室ではどうしようもない。
放課後になると、今日は黒瀬のほうが早く教室を出ていった。
帰り際、一度だけこちらを見たが、何も言わない。
あの顔は、夜に来る顔だなと、もうわかってしまう自分が嫌だった。
そしてやっぱり、その予感は当たる。
夜九時過ぎ。
インターホンが鳴った時、湊はほとんどため息と一緒に立ち上がった。
モニターには黒瀬。
今日はラフな部屋着っぽい格好で、髪も下ろしたまま。教室での尖った空気はかなり薄れている。ただ、表情にはまだ少しだけ昼の名残があった。
ドアを開ける。
「……遅」
「今日は早い」
「気分の問題」
「知ってる」
それだけ返すと、黒瀬は少しだけ目を丸くした。
「何」
「いや、今日はすぐ返したから」
「最近のテンプレだろ」
「うざ」
でも、その“うざ”にはもう強さがない。
黒瀬は部屋へ上がり、ソファに座った。クッションを抱えるまでの動きはいつも通り。けれど座ったあと、少しだけ膝を寄せている。これは、機嫌が悪い時か、何かを言いづらい時の座り方だと最近わかってきた。
「カフェラテ?」
湊が聞くと、黒瀬は小さく頷いた。
「うん」
キッチンでお湯を沸かす。
背中越しに感じる気配は、昼よりずっと静かだった。
やっぱり、教室の黒瀬は“作っている”のだと思う。夜のこの部屋では、その作った輪郭が少しずつ崩れていく。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はすぐには受け取らなかった。
「……ごめん」
ぽつりと、先にそう言った。
湊は一瞬、止まる。
「何が」
「昼」
それだけで十分だった。
さっきの、購買の前の一言。
わざと強く言ったやつ。
あれのことだ。
「機嫌悪かった?」
少しだけ意地悪く聞くと、黒瀬は露骨に眉を寄せた。
「そういう言い方やめて」
「図星なんだ」
「……知らないし」
でも、完全には否定しない。
カフェラテを受け取り、ひと口飲んでから、小さく続ける。
「なんか、教室だと変にイラっとする時ある」
「俺に?」
「……たぶん」
それはかなり正直だった。
昼の冷たい一言のあとで、夜にこうしてちゃんと認めてくるから、ずるいのだと思う。
「なんで」
「だって、昼って全部見えるじゃん」
「全部?」
「メガネが前の席来るのも、あんたが普通に話すのも、周りがちょっと見てるのも」
そこまで言って、黒瀬は少しだけ視線を落とした。
「それで、なんか、あたしだけちゃんと普通にしなきゃいけないのがだるい」
その一言に、湊は少し黙る。
なるほど、と思った。
栞は教室でも自然に近づける。
周りに見られても、不自然にはなりにくい。
でも黒瀬は違う。自分との距離を隠さなければいけない。しかも、夜のことを知っている分だけ、昼の“普通”がしんどい。
それが今日の苛立ちの正体なのだろう。
「……そっか」
「うん」
「それで、ああいう言い方した?」
「……うん」
ここまで素直に認められると、こっちもそれ以上責められない。
「でも、ちょっと困った」
湊が言うと、黒瀬は小さく鼻を鳴らした。
「わかってるし」
「わかってるのか」
「だから来たんじゃん」
その返しは、思っていたよりずっとまっすぐだった。
教室で冷たい言葉を置いてしまった。
だから夜にここへ来て、少し困った顔でごめんと言う。
それが今の黒瀬のやり方なのだ。
昼の棘を、夜で回収しに来る。
「昼の黒瀬、最近ますます面倒だな」
湊がわざと軽く言うと、黒瀬はクッションを抱き直した。
「夜のあたしが優しいからでしょ」
「自分で言うか」
「だってそうじゃん」
それは、否定しづらい。
夜の黒瀬は、教室の彼女よりずっと素直で、やわらかい。もちろんツンが消えるわけじゃない。でも、そのツンの奥がかなり見えるようになってしまっている。
「……あんた」
黒瀬が言う。
「昼、ちょっと困った顔してたし」
「してた?」
「してた。だから余計だるかった」
つまり、傷つけたいわけではなかったのだろう。
でも、イラついた。
それで少し強く当たった。
そのあと、ちゃんと気まずくなった。
かなり不器用だ。
でも、その不器用さが夜になるとちゃんと見えるから、湊はもう嫌いになれない。
「次から気をつける」
黒瀬が小さく言う。
「昼のほう」
「守れる?」
「……半分は」
「また半分かよ」
「全部は無理だし」
そこで、少しだけ笑う。
その笑い方を見て、湊はようやく肩の力を抜いた。
冷たい言葉のあとで来るギャルは、自分でも少し困っている。
そのことがわかるだけで、教室での棘も少し違って見えるのだから、我ながらだいぶ甘いと思う。




