ep.32 昼の視線は細くなるのに、夜のインターホンはいつも通り鳴る
昼の教室に、夜の気配が残り始める。
その感覚は、朝比奈湊にとって日に日に厄介になっていた。
大きな変化が起きたわけじゃない。
黒瀬琉衣奈が学校で急に優しくなったわけでもなければ、白瀬栞が露骨に距離を詰めてきたわけでもない。全部、ほんの少しずつだ。
それでも、その“ほんの少し”が毎日積み重なると、教室の空気は確実に変わる。
湊が教室へ入る。
窓際の黒瀬が一瞬だけ見る。
前の席に栞が自然に座る。
その間にある視線や間合いを、誰かが拾い始める。
今はまだ、せいぜい栞が気づいているくらいだ。
でも、このままだとたぶん、もっと外側まで滲んでいく。
そんな予感が、その日の朝には妙にはっきりしていた。
教室に入ると、黒瀬はもう来ていた。
今日も学校の顔。
茶髪、巻き髪、きつめの目元、日焼け肌。
友達の女子二人とスマホを見ながら、いかにも“教室の中心にいるギャル”みたいな空気をまとっている。
なのに、湊がドアを開けた瞬間だけ、ほんの少し視線が跳ねた。
一瞬。
すぐ逸らされる。
でも、そのたった一瞬が、夜の続きを知っている目だとわかってしまう。
それがもうまずい。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声で、意識が切り替わる。
白瀬栞が今日も同じように立っていた。メガネ、黒髪、きちんとした制服。変わらないようでいて、最近はその“変わらなさ”の中に、意志みたいなものを感じる。
「おはよう」
「今日は少し早いですね」
「そうだっけ」
「三分くらい」
「細かいな」
「最近、朝比奈くんを見ることが多いので」
さらっと言う。
言われた側の心臓にはあまりよくない言い方だ。
「そういうこと、普通に言うなよ」
「だめでした?」
「だめっていうか、びっくりする」
「では次から少しやわらかく言います」
「そういう問題でもない気がするな」
栞は小さく笑った。
この子は最近、本当に変わった。問い詰めないし、騒がない。でも自分が近くにいることは隠さない。
一限前、やはり自然な流れで前の席に座る。
「古典、少しだけ確認します?」
「うん、頼む」
ノートを開きながら、湊は窓際からの視線をなんとなく感じていた。
見なくてもわかる時がある。
正確には、“見られているかもしれない”と思う自分が先にある。
それが自意識過剰なのか、実際そうなのか、その判断がもう難しい。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今、窓際のこと考えてました?」
心臓が少し跳ねた。
「なんで」
「顔が、少しだけそっち向きでした」
「……こわいな」
「今日は七割くらい褒め言葉です」
割合が細かい。
でも、こういう軽いやり取りができるくらいには、栞との距離も前より近い。
そして、その“近さ”が今日は少しだけ、目についた。
二限の休み時間、後ろの席の男子二人が何気ない調子で話していたのだ。
「朝比奈って最近、白瀬さんとよく話してね?」
「わかる。前こんなんだっけ」
小声ではない。
でも、わざと聞かせるほどでもない。
教室の雑談として、もっとも厄介な温度だった。
湊は机の中を整理するふりをしながら、その言葉を聞いた。
前なら聞き流せたかもしれない。
でも今は無理だ。
理由は簡単で、その雑談の届く範囲に黒瀬もいるからだ。
ちらりと窓際を見る。
黒瀬はスマホを見ている。
見ているふりをしている。
でも、耳はたぶんこっちを拾っている。
やばいな、と思う。
こういう、誰も悪気のない雑談が一番空気を変える。
そして、その日の昼休み、案の定その変化はもう一段だけ形になった。
栞が前の席に座った時、廊下側の女子二人が通りすがりにこちらを見て、少しだけ視線を交わしたのだ。
言葉にはならない。
でも、“あれ”という顔だった。
気のせいだと言い切れるほど鈍くはない。
「……朝比奈くん」
栞がパンの袋を開けながら、小さく言った。
「今日、少し見られてますね」
本人も気づいていたらしい。
「やっぱり?」
「はい」
「嫌か」
聞くと、栞は少しだけ考えた。
「嫌というより、そろそろ来たか、という感じです」
「何が」
「こういう空気です」
静かな返事だった。
慌ててもいない。
強がってもいない。
ただ、予想していたものが来た、という温度。
「白瀬さん、そういうの慣れてるのか?」
「慣れてはいないです」
「じゃあ平然としすぎだろ」
「平然としてるほうが、広がりにくいので」
それはかなり大人な考え方だった。
この子は本当に強い。派手に戦わない代わりに、空気の扱い方を知っている。
「朝比奈くんは、少しわかりやすいです」
「最近そればっかだな」
「今日は特に」
「なんで」
「窓際を気にしすぎてるので」
図星すぎる。
湊は小さくため息をついた。
「……そんなに見てた?」
「見てました」
即答だった。
「黒瀬さんのほうも、今日は少し細い目です」
「細い目?」
「はい。見てるけど、見てないふりを強くしてる時の目です」
そこまで分析されると、もう笑うしかない。
でも、その表現はかなり正確な気がした。
今日の黒瀬は、教室でいつもよりさらに冷たく見える。
その冷たさは、たぶん無関心の冷たさじゃない。
意識していることを隠すための細さだ。
それを栞はもう、ちゃんと見分け始めている。
午後の授業が終わり、放課後になる。
今日は栞と寄り道の約束はない。
それでも栞は自然に席の横へ来た。
「朝比奈くん、今日のプリント、あとで見せてもらってもいいですか」
「うん、いいよ」
「ありがとうございます」
それだけの会話だ。
でも、教室の中でそれが積み重なると、もう“それだけ”では済まなくなる。
窓際から椅子を引く音がした。
黒瀬が立ち上がっている。
友達と一緒に帰る流れらしい。鞄を肩にかけ、何でもない顔で出口へ向かう。
途中、一度だけこちらを見た。
目が合う。
今日はいつもより少しだけ長かった。
ほんの一秒か二秒。
でも、前より明らかに長い。
そのあと、黒瀬は何も言わずに教室を出ていった。
その一瞬を、たぶん何人かは見ている。
そして、見られることを意識してさらにぎこちなくなる自分もまた、かなりわかりやすいのだろう。
家に帰ってからも、そのことが頭に残った。
昼の教室に、夜の気配が残り始める。
それはただの比喩ではなく、具体的な空気の変化として出てきている。
このままいけば、きっともっと見えるようになる。
その時、何がどう変わるのか。
考えても答えは出ない。
でも、夜はいつも通りやってくる。
九時少し前、インターホンが鳴った。
もはや驚きもしない。
湊は立ち上がり、ドアを開ける。
黒瀬は今日、かなり不機嫌そうだった。
「……何」
先に聞くと、黒瀬はじとっとした目で睨んできた。
「別に」
「その顔で別には無理あるだろ」
「……教室」
ぽつりとそれだけ言う。
「見られてたし」
やっぱり、そこか。
黒瀬は部屋へ上がるなり、いつもより少しだけ強くソファに沈んだ。クッションを抱き寄せる手にも、少しだけ棘がある。
「カフェラテでいい?」
「それ」
返事は速い。
湊がキッチンへ向かうと、背中越しに声が飛んできた。
「あんた、今日ちょっとわかりやすかったし」
「俺だけかよ」
「だって、前の席にメガネいる時、こっち気にしすぎ」
「そっちもだろ」
「……」
そこで少しだけ黙る。
「まあ、そうかもしんないし」
珍しく、ほぼ認めた。
湊はお湯を注ぎながら、小さく笑う。
「昼の気配、残りすぎだな」
「何それ」
「いや、そのまま」
カフェラテを持って戻ると、黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「最近、教室でちょっと残るんだよね」
それはかなり正直な言葉だった。
「夜のこと?」
「……たぶん」
短い返事。
「別に、持ち込みたいわけじゃないし」
「うん」
「でも、なんか残る」
「わかる」
即答すると、黒瀬が少しだけ目を上げた。
「朝比奈も?」
「うん」
「……そっか」
そこでようやく、今日の不機嫌の輪郭が少しやわらぐ。
昼の教室に、夜の気配が残り始める。
それはたぶん、二人だけの問題ではなくなってきている。
でも同時に、二人とも同じことで揺れているのだと確認できるだけで、少しだけ楽になる。
「……じゃあ、どうすんの」
黒瀬が小さく聞く。
「何を」
「このまま、残るの」
その問いには、すぐ答えられなかった。
でも、少なくとも一つだけわかることはある。
残るからといって、今さら夜をやめる気は、たぶんどちらにもない。
「たぶん」
湊は少しだけ考えてから言った。
「うまくごまかすしかないんじゃないか」
黒瀬は数秒、黙ったあとで、小さく鼻を鳴らした。
「……だよね」
それは、半分あきらめたようで、半分納得している声だった。
その夜の部屋は、いつもより少し静かだった。
でもその静けさは、前みたいな不安の静けさじゃない。
共有された面倒くささの静けさだった。




