ep.31 昼の教室に、夜の気配が残りはじめる
夜に来るのが当たり前になったことを、二人はまだ恋と呼ばなかった。
呼ばなかったけれど、何でもないとも思っていない。
その曖昧な場所に立ったまま迎える翌朝は、朝比奈湊にとってやけに落ち着かないものだった。
目が覚めた瞬間、昨夜の最後のやり取りを思い出す。
――また来る。
――待ってなくていいし。
――ちょっとは待ってるかも。
――でも、まだ別に恋とかじゃないし。
そこまで言って、少しだけ視線を逸らした黒瀬琉衣奈の顔まで思い出してしまって、湊は枕に顔を押しつけた。
「……朝から重い」
自分の独り言に、自分でうんざりする。
何も決着はついていない。付き合ったわけでもない。約束をしたわけでもない。
なのに、こうして言葉の端だけで心拍数が変わるあたり、相当どうかしていると思う。
それでも時間は進む。
制服に着替えて、トーストを焼いて、コーヒーを飲む。机の端には昨夜使ったマグカップを洗って伏せておいた跡があり、ソファのクッションは黒瀬が抱えやすい位置のままになっていた。
それを見て、無意識に整え直しかけて、やめる。
もうそういう細かい癖までついてきているのが嫌だった。
登校して、教室のドアを開ける。
視線はかなり自然を装いながら、それでも最初に窓際を探していた。
黒瀬はいる。
今日も学校の顔だ。茶髪は整えられ、メイクも抜かりなく、友達とスマホを覗き込みながら、いかにも“いつもの黒瀬琉衣奈”という空気をまとっている。
昨夜、玄関先で「恋とかじゃないし」と言った人間とは思えないくらい、いつも通りだ。
でも、その“いつも通り”が少しだけ薄い膜みたいに見える。
その膜の向こうに夜の彼女がいると知ってしまったせいで、もう完全には前みたいに見られない。
湊が自席に着いた時、黒瀬が一度だけ顔を上げた。
目が合う。
一瞬だけ。
そして、すぐ逸らす。
ただそれだけなのに、教室の空気の中に、昨夜の続きがほんの少しだけ残っている気がした。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声で現実に引き戻される。
白瀬栞が立っていた。
今日もメガネ、黒髪、真面目そうな制服。教室の中の彼女は相変わらず控えめで、でも近くに来るとちゃんと気配が残る。
「おはよう」
「今日は少し顔がやわらかいですね」
「え?」
「昨日よりは」
いきなりそんなことを言われて、湊は一瞬返事に詰まる。
「……それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「断言すると違うかもしれないので」
栞は小さく笑った。
この子は本当に、見ているところが細かい。
しかも、最近は見ていることを隠さなくなってきた気がする。問い詰めるわけではない。けれど、気づいたことは静かに置いていく。
「今日、放課後は急いで帰りますか」
栞が何気なく聞く。
「まだわかんない」
「そうですか」
それだけで終わる。
でも、その“急いで帰りますか”の中には、このところの湊の変化をちゃんと見ている感じがにじんでいた。
一限が始まる前、栞は自然な流れで前の席へ座った。
もうこれにもすっかり慣れてきている自分がいる。
「古典、少しだけ確認します?」
「助かる」
栞がノートを開き、助動詞の表を見せてくる。声は小さくて穏やかだ。近いけれど、圧はない。
それなのに、こうして隣にいる時間は確実に増えている。
前より少しずつ。
本当に少しずつ。
だからこそ、気づけばかなり自然になっている。
「……朝比奈くん」
「ん?」
「今、窓際見ましたね」
「見てない」
「見ました」
「こわいな」
「今日は九割くらい褒め言葉です」
「ほぼ満点じゃん」
栞は少しだけ口元をゆるめた。
「黒瀬さん、今日は少しだけ変です」
その一言に、湊の手が止まる。
「変?」
「朝から、何度かこっちを見てるんですけど」
「……うん」
「いつもより“見てないふり”が雑です」
そこまで言うのか、と思う。
でも実際、その通りかもしれなかった。
黒瀬は教室では線を引く。
それでも最近は、その線の引き方が少しだけ甘い時がある。
昨日の夜みたいに、やわらかい言葉を交わした翌朝ほど、たぶんその揺れが残るのだろう。
「白瀬さん、もう実況だな」
「実況ではないです」
「分析?」
「たぶん少し」
自分でも少しおかしくなって、湊は息をついた。
こうして栞と話している時、教室の中の自分は比較的落ち着いていられる。
でもその一方で、窓際の空気が変わるのもわかる。
それが前よりはっきり見えてきた。
二限の休み時間。
栞が一度席へ戻り、湊がロッカーのところで教科書を入れ替えていると、すぐ後ろを黒瀬が通った。
ほんの一瞬、肩が触れそうなくらいの距離になる。
「……邪魔」
小さな声が落ちる。
他の誰かが聞けば、ただの棘のある一言だ。
でも湊には、そこに昨夜の延長が混じっているとわかった。
「ごめん」
同じく小さく返す。
黒瀬はそのまま行くかと思ったが、一歩だけ止まり、振り返らずに続けた。
「今日も前の席いたし」
やっぱり、そこだ。
「座ってただけだろ」
「普通に近いし」
「それは昨日も言ってた」
「昨日より思った」
その言い方が少しだけ低くて、ほかの男子に向ける棘とは違っていた。
そして、その差を聞き取る耳は、たぶん湊以外にもあった。
「……あ」
すぐ近くから、ほんの小さな声がした。
振り向くと、栞が教科書を抱えたまま立っている。
たぶん今のやり取りを、かなり近い距離で聞いていたのだろう。
黒瀬はその気配に気づいたのか、ほんの一瞬だけ動きを止めたあと、何も言わず窓際へ戻っていった。
空気だけが少し残る。
「今の」
栞が小さく言う。
「やっぱり、違いますね」
もう否定しづらい段階だった。
「何が」
それでも一応聞くと、栞は少しだけ困ったように笑った。
「声です」
「声」
「黒瀬さん、朝比奈くんに話す時だけ、少し低いというか……距離が近いです」
その表現は意外と正確だった。
棘はある。
冷たい。
でも、ただの拒絶じゃない。
むしろ感情が近いからこそ、ああいう声になるのかもしれない。
「……そんなに違う?」
「今日のは、かなり」
栞は断言した。
「他の人に言う“邪魔”と、朝比奈くんに言う“邪魔”、全然違いました」
もうそこまで聞き分けられているのか、と湊は本気で頭を抱えたくなる。
「白瀬さんの耳、性能高すぎない?」
「耳というより、たぶん空気です」
「空気」
「はい。朝比奈くんにだけ、ちゃんと返してる感じがあるので」
それはたぶん、かなり核心だった。
黒瀬は教室で湊に冷たい。
でも無視ではない。
返す。
わざわざ言葉を置いていく。
その時点で、他の男子とはもう違う。
それを、栞はだいぶ前から見ている。
そして今は、たぶん確信に変わり始めている。
昼休み。
栞はまた前の席へ来た。
何も言わなくても、もうそれは自然な流れになりつつある。
「……最近、本当にそこ好きだな」
湊が言うと、栞は少しだけ首をかしげた。
「前にも言いましたけど、落ち着くので」
「それ、だいぶ強いよな」
「そうですか?」
「うん。結構まっすぐ来る」
そう言うと、栞は少しだけ言葉を選ぶような顔になった。
「問い詰めるのは違うと思ってるんです」
「うん」
「でも、隣にいる時間を増やすのは、たぶん悪くないので」
やっぱりそこへ戻る。
栞は静かなまま、やることはちゃんとやる。
その強さが前よりはっきりしてきた。
「……黒瀬さんには、嫌かもしれませんけど」
ぽつりと栞が言う。
「え?」
「今日の顔見てたら、そう思いました」
その言葉に、湊は少しだけ息を止めた。
栞は自分が“嫌がられているかもしれない位置”にいることも、ちゃんと理解しているのだ。
理解した上で、それでも引かない。
「でも私、別に奪いたいわけじゃないです」
栞はパンの袋を静かにたたみながら続けた。
「ただ、朝比奈くんの隣が居心地いいから、少し増やしてるだけです」
その言い方は、ものすごく静かなのに、かなり強かった。
奪いたいわけじゃない。
でも、隣にいたい。
しかもそれを、言い切る。
湊は少しだけ笑ってしまう。
「白瀬さん、やっぱり強いな」
「そうですか?」
「かなり」
栞は少しだけ目を伏せ、それからやわらかく言う。
「なら、たぶんよかったです」
午後の授業を終えて、教室の空気がほどけていく頃、黒瀬は湊のほうを一度だけ見た。
その視線には、今朝よりも少しだけはっきりしたものがあった。
昨日までなら、教室では線の向こうにいるだけだったはずなのに。
今は少しだけ、その線に夜の気配が残り始めている。
まだ誰も“恋”とは呼ばない。
でも、教室の中に夜の続きを持ち込まないのも、少しずつ難しくなってきていた。




