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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.30 夜に来るのが当たり前になったことを、二人はまだ恋と呼ばない

 特別なことは、何も起きなかった。


 朝比奈湊は、その夜のことをあとから思い返した時、たぶんそうまとめるのだろうと思っていた。


 大きな事件はない。

 ハプニングもない。

 ベランダに締め出されることもなければ、服を貸す必要もない。雨も降っていないし、寝落ちからの寝言もない。名前を呼び間違えることも、嫉妬で拗ねることも、たぶん今夜はそこまで露骨じゃない。


 なのに、こういう何もない夜ほど、あとになってじわじわ残る。


 それはきっと、何も起きなかったのではなく、もう“こうしていること自体”が十分に変化なのだと、どこかでわかっているからだ。


 夜九時少し前。


 湊は机の上に英語のワークを広げていた。


 ペンは持っている。ページも開いている。けれど、視線はたまに玄関のほうへ向いてしまう。最近はもう、そういう自分をいちいち否定するのも面倒になってきた。


 待っている。


 認めたくないけれど、たぶんそうだ。


 インターホンが鳴るのを。

 ラフな私服で、少しだけ眠そうか、少しだけ不機嫌か、あるいは何もない顔をした黒瀬琉衣奈が来るのを。


 その音がして初めて、夜がちゃんと形になるみたいな感覚が、もう少しずつ出来上がっている。


 それが怖くないわけではない。

 でも、それ以上にもう馴染んでしまっている。


 ピンポーン。


 考えていたところへ、ちょうど音が重なった。


 湊はペンを置き、小さく息を吐いて立ち上がる。


 モニターを覗くまでもない気がしたが、いちおう確認する。

 やはり黒瀬だった。


 今日は薄い色のパーカーにショートパンツ。髪は下ろしたまま。メイクも薄い。夜の黒瀬の、かなり標準装備に近い格好だ。


 ドアを開ける。


「……遅」


「最近それしか言わないな」


「最初の一言にちょうどいいし」


「便利な言葉扱いするなよ」


「強いから」


「はいはい」


 このやり取りも、もうだいぶ馴染んできた。


 黒瀬は当然みたいに靴を脱ぎ、当然みたいに部屋へ上がる。


 ソファへ向かい、クッションを抱えて、少しだけ体を沈める。

 湊はそれを止めない。止める理由も、今はもうほとんどない。


 冷蔵庫を勝手に開ける距離。

 私物を落としていく距離。

 名前を呼びかけてしまうくらい気を抜く距離。


 そこまで来たあとで、“座るな”とか“来るな”とか言うのは、たしかにもう少し不自然だった。


「なんか飲む?」


 湊が聞く。


「カフェラテ」


「知ってる」


「なら聞くなって」


「儀式みたいなもんだよ」


 そう返すと、黒瀬は少しだけ目を細めた。


「……それ、なんかやだ」


「なんで」


「当たり前みたいに言うし」


 その言葉に、湊は少しだけ立ち止まる。


 当たり前みたいに。


 たしかにそうだ。


 最近の二人は、もうかなり当たり前みたいにこの時間を過ごしている。


 インターホン。

 ソファ。

 カフェラテ。

 何でもない会話。

 時々、少しだけ深い言葉。


 どれも毎夜必ずではない。

 でも、それがない夜のほうが少なくなってきている。


「……嫌か?」


 湊が聞くと、黒瀬は少しだけカップを持つ手元を見るような顔をした。


「嫌ではないし」


「じゃあいいだろ」


「でも、当たり前になるのって、ちょっと怖い」


 その言い方は、かなり正直だった。


 湊はお湯を沸かしながら、背中越しにその言葉を受け取る。


 怖い。


 たぶん、それは自分も同じだ。


 来ることが当たり前になる。

 ここにいることが普通になる。

 それは心地いい。

 でも、それだけに依存してしまう怖さもある。


「……わかる」


 素直にそう返す。


 黒瀬は少しだけ黙った。


 そのあと、小さく言う。


「朝比奈も?」


「うん」


「へえ」


 驚いたみたいな、でもどこか少し安心したみたいな声だった。


 カフェラテを持って戻ると、黒瀬はソファの上で足を軽く崩していた。最近はもう、その姿勢もほとんど自然に見える。前なら心臓に悪かった距離感が、今は“それでも近い”と思いながらも、ひとつの夜の形として受け入れられつつある。


「はい」


「ありがと」


 湊は向かいの椅子に座る。

 今日はソファに来いと言われない。

 それだけで少しだけほっとしている自分がいて、我ながら情けないと思う。


 しばらく二人は黙っていた。


 テレビはつけない。

 スマホも見ない。

 エアコンの音と、カップを置く小さな音だけが部屋にある。


 こういう沈黙が平気になったのは、たぶんかなり大きい。


 前なら、間が持たない気がして何かしゃべっていた。今は、無理に会話を作らなくても成り立つ。それは気楽で、でも少しだけ深い。


「……最近さ」


 黒瀬が言う。


「ん?」


「“また来る”って言わなくなった」


 湊は少しだけ笑った。


「そうだな」


「前は、帰る時にわりと言ってたし」


「言ってたな」


「でも最近、言わなくても来るし」


 そこまで言ってから、黒瀬は少しだけ唇を尖らせた。


「それがなんか、変」


 変、という表現は何度も聞いた。


 でも今夜の“変”は、前よりずっと核心に近い。


 ルールじゃない。

 約束もしていない。

 なのに、夜になると自然にここへ来る。

 来ることに、互いにあまり疑問を持たなくなってきている。


 それはたぶん、かなり特別なことなのに、いつの間にか日常の形をしている。


 その危うさを、黒瀬も感じているのだろう。


「……来ちゃうし」


 黒瀬が、少しだけ目を伏せて言った。


 その一言は、ほとんど独り言みたいだった。


 言い訳でもない。

 強がりでもない。

 理由の説明でもない。

 ただ、もうそうなってしまっているという事実だけを、そのまま口にした言葉。


 来ちゃうし。


 簡単な四文字なのに、やけに胸に残る。


「……うん」


 湊はそれに、短く返すことしかできなかった。


 たぶん今は、それで十分だ。


 名前をつけるにはまだ早い。

 軽く流すには、もう少し重い。

 だから、その間くらいの返事がちょうどいい。


 黒瀬はカフェラテをひと口飲み、少しだけ肩の力を抜いた。


「朝比奈は?」


「何が」


「来るの、もう普通になってる?」


 その問いかけに、湊は少し考えた。


 即答すると、軽くなりすぎる気がしたからだ。


「……普通っていうか」


「うん」


「来ないと、ちょっと静かすぎるなって思う日はある」


 言いながら、自分で少しだけ驚く。


 でも嘘ではなかった。

 黒瀬が来ない夜の静けさは、以前より少しだけ空白に感じる。

 それを認めるのは、かなり負けな気もするけれど。


 黒瀬はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を丸くした。


「……それ、ずるい」


「何が」


「そういうの、普通の顔で言うし」


「そっちが聞いたんだろ」


「聞いたけど」


 そのあとで、小さく笑う。


 学校では絶対に見せない、夜の黒瀬の笑い方だ。


「じゃあ、お互い様じゃん」


 湊が言うと、黒瀬は少しだけ考えるような顔をした。


 それから、ぽつりと返す。


「……たぶん」


 その“たぶん”も、今は十分に肯定だった。


 大きな進展はない。

 告白もない。

 手をつなぐこともない。

 キスも、ましてそれ以上も、何もない。


 ただ、夜になると部屋へ来る。

 当たり前みたいにソファへ座る。

 カフェラテを飲んで、少しだけ本音をこぼす。

 そして、来ることが当たり前になりつつあるのを、少し怖がりながらもやめられない。


 それだけだ。


 それだけなのに、十分すぎるほど濃い。


「……朝比奈」


「ん?」


「今日、なんか夜食ある?」


「結局そこか」


「だってちょっとお腹空いたし」


「あるけど」


「何」


「そぼろ丼の残りなら」


「地味」


「文句言うなら出さない」


「食べるし」


 そういうやり取りが自然に戻ってくる。


 重くなりすぎた空気を、最後にはちゃんと日常へ戻す。


 その感じまで含めて、もうかなり馴染んでしまっていた。


 夜食を食べて、少しだけテレビを見て、何でもない会話をしているうちに時間は過ぎていく。


 帰る頃には、何かを結論づける必要もなくなっていた。


 玄関で靴を履きながら、黒瀬がふと振り返る。


「……また来る」


 今夜はちゃんと言った。


 最近は言わなくても来ていたのに、今日はあえて口にした。


 その意味が少しだけわかる気がして、湊は小さく頷いた。


「うん」


「待ってなくていいし」


「ちょっとは待ってるかも」


「……だからそういうの、ずるいって」


 頬を少しだけふくらませる。


 でも、嫌そうではない。


「黒瀬」


「なに」


「たぶんこれ、もう結構前から普通じゃないよ」


 そう言うと、黒瀬は数秒だけ黙った。


 そして、小さく息を吐く。


「……知ってるし」


 その返しが、やけに静かだった。


「でも、まだ別に」


「うん」


「恋とかじゃないし」


 言ってから、少しだけ目を逸らす。


 その一言には、否定と保留と照れと、少しの逃げが全部混ざっていた。


 湊は無理に何も言わなかった。


 たぶん今は、それでいい。


 夜に来るのが当たり前になったことを、二人はまだ恋と呼ばない。

 呼ばないけれど、何でもないとも思っていない。

 その曖昧な場所に、今の二人はたしかに立っていた。


 ドアが閉まる。


 静けさが戻る。


 でも、その静けさは前みたいに空っぽじゃない。


 夜の部屋に残る気配が、もう一人分ちゃんとあることを、湊は知っていた。

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