ep.29 白瀬栞は問い詰めない。ただ、隣にいる時間を増やす
名前を呼ばれた翌朝は、思っていた以上に厄介だった。
朝比奈湊は登校しながら、何度目かわからないため息を飲み込んでいた。
昨夜、黒瀬琉衣奈は眠気の混じった声で、たしかに「湊」と呼んだ。
半分寝ぼけていた。
本人もすぐに気づいて、耳まで赤くして、「今のなし」と必死に打ち消そうとしていた。
でも、ああいうものは一度聞いてしまうと消えない。
むしろ、消えないから困る。
学校で顔を合わせた瞬間、絶対に思い出す。
そしてたぶん、向こうも同じだ。
そう考えただけで落ち着かない。
教室のドアを開ける。
黒瀬はもう来ていた。
窓際の席。
いつものように作られた学校の顔。
茶髪、強めの目元、少し気怠げな態度。友達と何か話しながら笑っている。
でも、湊が入ってきた瞬間、一度だけ視線が上がった。
合う。
一瞬だけ。
そして、黒瀬はすぐに逸らした。
それだけなのに、昨夜の「湊」が頭の中で勝手に再生される。
「……だる」
思わず口の中で呟く。
何がだるいのかは、もう自分でもよくわかっていた。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声がして、現実へ引き戻される。
白瀬栞が、いつものように教科書を抱えて立っていた。
「おはよう」
「今日はかなり眠そうですね」
「そんなに?」
「かなり」
即答だった。
栞はメガネの奥の目を少しだけ細める。
「昨日、何かありました?」
「その聞き方やめてくれ」
「聞き方、ですか」
「なんか全部見えてそうで怖い」
そう言うと、栞は少しだけ笑った。
「全部は見えてないです」
「“全部は”って言うのがもう怖い」
「残念です」
口調はやわらかいのに、やっぱり鋭い。
この子は最近、ますます問い詰めなくなった。前なら“何かありました?”と聞いたあと、少しはこちらの様子を見ていた気がする。今は違う。
聞くだけ聞いて、深追いしない。
その代わり、気づけば近くにいる。
それが前より増えた。
一限が始まる前、栞は自然な顔で前の席に座った。
「古典、少しだけ見ますか」
「助かる」
教科書を開きながら、湊は気づく。
最近、栞がこうして前の席に座る頻度が明らかに上がっている。
以前はプリントのついでとか、ノートの貸し借りとか、何かしら理由があった。今は理由がある時もない時もある。ただ自然に来て、自然に話して、自然に隣の時間を作る。
押しつけがましくないからこそ、余計に断りづらい。
しかも、それが不快じゃない。
むしろ話しやすい。
だからこそ厄介だ。
「朝比奈くん」
「ん?」
「最近、前よりちゃんと聞いてくれますよね」
「何を」
「私が説明すること」
「それは、まあ」
「前はもう少し上の空でした」
「ひどい言われようだな」
「今は上の空の時と、ちゃんと聞いてる時の差が大きいです」
それ、褒められているのかどうかわからない。
でも、こうして朝の短い時間に静かに話していると、たしかに落ち着く。栞は言葉を急がないし、変に距離を詰めすぎない。そのくせ、気づけばもうかなり近い。
――これ、黒瀬が見たらまた面倒だろうな。
そんな考えがよぎる時点で、もう末期だと思う。
昼休み。
購買でパンを買って戻ると、栞はもう前の席に座っていた。
「勝手に座ってる」
「空いていたので」
「最近そこ率高いな」
「落ち着くんです」
それをそんなに自然に言われると困る。
「俺の前の席が?」
「朝比奈くんの前の席が、です」
前にも聞いたようなやり取りだ。
でも、回数が増えると意味も少しずつ変わる。
栞はパンの袋を指先で整えながら、小さく続ける。
「問い詰めるのは違うと思うので」
湊は一瞬、手を止めた。
「……何が」
「最近の朝比奈くんのことです」
静かな言い方だった。
教室の空気に溶けるくらいの声量で、それでもちゃんと届く。
「何かあるのはわかります」
栞は視線をこちらへ向ける。
「でも、無理に聞き出したいわけじゃないです」
そこで少しだけ笑う。
「その代わり、隣にいる時間を増やすのはありかなと思って」
あまりにも率直で、湊は一瞬言葉を失った。
「……そんなこと、普通に言う?」
「普通じゃないですか?」
「いや、かなり近いけど」
「近いですよ」
栞はあっさり言った。
「少しずつ、ですけど」
それが冗談でもなく、駆け引きでもなく、ただ静かな事実みたいに置かれるから困る。
問い詰めない。
でも、離れない。
むしろ少しずつ、隣にいる時間を増やす。
それはたしかに、かなり強いやり方だった。
「白瀬さんって、たまにすごいこと言うよな」
「そうですか?」
「うん。静かな顔で、かなり近いこと言う」
そう言うと、栞は少しだけ目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ頬をやわらげる。
「それなら、ちゃんと伝わっててよかったです」
完全にやられた、と思った。
この子は本当に、派手なことをしないままじわじわ来る。
黒瀬の嫉妬がわかりやすく派手な火なら、栞の近さは気づいた時にはもう逃げ場がない静かな熱だ。
「……朝比奈くん」
栞が小さく言う。
「私、別に急いでないんです」
「何を」
「仲良くなるのを」
その一言は、昼休みの喧騒の中なのに、妙にくっきり聞こえた。
「だから、少しずつでいいんです」
それ以上は言わない。
でも、十分すぎるほど意味があった。
少しずつ、隣にいる時間を増やす。
問い詰めない。
急がない。
それが、白瀬栞のやり方なのだろう。
湊はパンの袋を握ったまま、小さく息を吐いた。
「……強いな、白瀬さん」
「そうですか?」
「かなり」
「なら、よかったです」
その返しすら静かだ。
午後の授業が終わる頃には、湊の頭の中はだいぶ散らかっていた。
昨夜の名前呼び。
昼間の黒瀬の視線。
そして、栞の“隣にいる時間を増やす”宣言。
どれも大げさな事件ではない。
なのに、それぞれがじわじわ効いてくる。
放課後、黒瀬は今日は友達と先に帰っていった。
帰り際、一瞬だけ湊のほうを見たが、何も言わない。
けれどその無言が、逆に夜へ続いている気がしてしまう。
一方で栞は、帰る前にまた少しだけ近くへ来た。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日の本、続き読んだら感想教えてください」
「うん」
「それと」
栞は少しだけ躊躇ってから、やわらかく言う。
「また前の席、座りますね」
言い方が自然すぎて、でも少しだけ照れくさそうで、湊は返事に困った。
「……もう宣言するんだな」
「はい」
「断ったら?」
「少し悲しいです」
「そこまで言う?」
「言います」
言ってから、栞はほんの少しだけ笑った。
教室では目立たないまま、それでも確実に近づいてくる。
それが今の白瀬栞だった。
帰宅してからも、その言葉はしばらく頭に残った。
夜九時過ぎ。
インターホンが鳴る。
モニターの向こうには、当然みたいに黒瀬琉衣奈がいた。
ドアを開ける。
「……遅」
「今日は早いだろ」
「気分の問題」
いつものやり取り。
けれど今夜は、そのあとが少しだけ違った。
黒瀬は部屋へ上がるなり、ソファへ座る前に湊の顔をじっと見た。
「なに」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ眉を寄せる。
「……今日、あのメガネまた前の席座ってたじゃん」
やっぱり見ていた。
しかもかなり細かく。
「座ってたな」
「普通に近くない?」
「……そうかも」
「そうかも、なんだ」
黒瀬は少しだけ口を尖らせる。
その表情を見て、湊は昼休みの栞の言葉を思い出した。
問い詰めない。
ただ、隣にいる時間を増やす。
たしかにそれは、黒瀬にとってかなり嫌なやり方かもしれない。
「白瀬さん、もうだいぶ強いな」
思わずそう漏らすと、黒瀬がぴくりと反応した。
「は?」
「いや、静かに近づいてくる感じ」
「……わかってんじゃん」
「まあ」
「なら、ぼーっとしてんなって」
それは、かなり本音っぽかった。
ぼーっとしている間に、隣を取られる。
そういう危機感を、黒瀬はたぶんもう感じ始めている。
そして湊自身も、栞の近さが“ただのクラスメイト”より一歩先にあることを、今日ははっきり認めざるをえなかった。
「大変だな、俺」
半分冗談で言うと、黒瀬はソファに座りながら言った。
「自業自得だし」
「なんで」
「鈍いくせに、拾うとこだけ拾うから」
「難しいこと言うな」
「知らない」
でも、その声はどこか安心したようでもあった。
たぶん、栞の近さに湊がちゃんと気づいていること自体が、黒瀬には少しだけ救いなのだろう。
そしてそのことを、湊ももう理解し始めている。
白瀬栞は問い詰めない。
ただ、隣にいる時間を増やす。
その静かな強さが、これから先ますます二人の夜を揺らしていくのだろうと、湊はなんとなく思った。




