ep.28 ギャルは眠れない夜に、自分から名前を呼ぶ
夜のルールを作ろうとして、何ひとつ守れなかった翌日。
朝比奈湊は、自分が思っていた以上に引きずるタイプなのだと実感していた。
そもそも、ルールを決めようとしたこと自体が少し無茶だったのかもしれない。
学校では持ち込まない。
泊まらない。
私物を増やさない。
ベッドに座らない。
変に距離を詰めない。
口にした端から崩れていく予感はしていたが、まさかその夜のうちにほぼ全滅するとは思わなかった。
特に最後のほうはひどい。
結局、同じソファに座ったし、膝の距離はまた近かったし、黒瀬琉衣奈は当たり前みたいにベッドの端へ座った。
そして湊は、それを本気では止められなかった。
負けた気分だ、と昨夜ぼやいたのは、本当にそのままの意味だった。
ただ一つ救いがあるとすれば、泊まりだけはまだ守られていることくらいだろうか。
……そういう問題でもない気がするけれど。
朝の教室に入ると、黒瀬は今日も昼の顔をしていた。
窓際の席。
作り込んだ茶髪。
強めの目元。
気怠そうで、でも誰にも簡単に隙を見せない空気。
昨夜、ベッドの端にちょこんと座って「守れるやつは守るし」とか言っていた人間と同一人物とは思えない。
いや、思えるから困るのか。
目が合う。
一瞬だけ。
その一瞬のあとに、黒瀬はすぐ顔を逸らした。
でも、湊にはわかる。
完全な無関心ではない。
夜の続きを知っている目だ。
「朝比奈くん、おはようございます」
白瀬栞の静かな声がして、意識が引き戻される。
「おはよう」
「今日は少しだけ、疲れてます?」
「そんなにわかる?」
「少しだけ」
栞はいつも通りだった。真面目なメガネっ娘の見た目も、押しつけのない距離感も、やわらかい口調も変わらない。
ただ、その観察眼だけが今日も変わらず鋭い。
「昨日、よく眠れませんでしたか」
「……まあ、ちょっと」
「珍しいですね」
「最近ちょっと多いかも」
そう言うと、栞は小さく頷いた。
「夜に考え事をする時期なのかもしれませんね」
その言い方が妙にやさしくて、少しだけ救われる。
栞は、もうかなりのことに気づいているはずだ。
でも、それを暴いたりはしない。
ただ、見えていることを静かに受け止めてくれる。
それがありがたい。
同時に、ますます隠しづらい。
昼間の授業は、思ったよりちゃんと進んだ。
いや、進んだというより、考えないように必死だった。
昨夜のことを思い出すと、どうしてもベッドの端に座った黒瀬の姿が浮かんでしまう。
しかも、ルールを崩したくせにまるで悪びれず、「今さらそういうの線引いても変」と言い切った顔までセットで。
ああいうところがずるいのだ。
間違いなく理屈ではこちらが正しい場面でも、最後には“それでも来る夜”の空気で全部持っていく。
昼休み、栞が前の席に座った時も、湊は少し上の空だった。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日は三回くらい同じページ見てます」
「そんなに?」
「そんなにです」
言われて、手元の教科書を見下ろす。たしかに同じ箇所をぼんやり眺めていたらしい。
「だいぶ重症だな」
「そういう日もありますよ」
栞は自分の弁当箱を開きながら言う。
「ただ、朝比奈くんは最近、重症でも少し楽しそうです」
「それ前も言ってたな」
「はい。今日もそう見えます」
そこまで見えているのかと、少しだけ笑ってしまった。
「楽しそうに見える?」
「困ってるんですけど、どこか嬉しそうです」
図星すぎて反論できない。
黒瀬の夜は厄介だ。
困るし、落ち着かないし、理性にも悪い。
でも、来ないと気になる。来ると少し安心する。
そういう意味では、たしかに“嬉しい”の要素もあるのだろう。
夜九時半。
その日はインターホンが鳴るのが少し遅かった。
最近、眠れない夜に来ることが増えているせいか、湊は時間が遅くなるほど落ち着かなくなる自分に気づいていた。
机の上には英語のワーク。
スマホの画面は数分に一度確認。
エアコンの音だけがやけに大きく感じる。
来ないなら来ないでいい。
そう思おうとしても、体はまるでそう思っていない。
結局、インターホンが鳴った瞬間、湊は反射で立ち上がっていた。
モニターの向こうには黒瀬。
今日はかなり眠そうだった。私服はラフで、髪も少しだけ乱れている。メイクも薄いというより、ほとんどしていないように見えた。
ドアを開ける。
「……遅」
声まで少し眠そうだ。
「今日はほんとに遅いな」
「うん……」
珍しく、そこを否定しない。
「眠れないのか」
「……まあ」
それだけ言って、黒瀬は部屋へ上がる。
靴を脱ぐ動きも少しだけ鈍い。ソファへ向かう足取りも、今日はいつも以上に力が抜けていた。
クッションを抱えると、そのまま背もたれへ深く沈む。
「なんか飲む?」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ目を閉じたまま言う。
「カフェラテ……」
「はいはい」
最近、この返しにもほとんど迷いがない。
お湯を沸かしながら背中越しに見ると、黒瀬はソファでほとんど動かず、ただ静かにしていた。
今日は拗ねてもいないし、不機嫌でもない。
ただ、眠れなくて、ここに来た。
そのことがやけにわかりやすい夜だった。
カフェラテを持って戻る。
「はい」
「……ありがと」
受け取る手つきが、少しだけ頼りない。
湊は向かいの椅子へ座った。
しばらく、何も話さない。
黒瀬は両手でカップを包んで、ゆっくりと飲む。テレビもつけない。スマホも見ない。ただ部屋の静けさの中にいる。
その空気が最近は自然になってきていること自体が、もうかなり深い気がする。
「……朝比奈」
不意に呼ばれて、湊は顔を上げた。
「ん?」
「今日、眠くないの」
「俺?」
「うん」
「別に普通」
「……そっか」
それだけ言って、黒瀬はまたカップへ視線を戻す。
少ししてから、今度はソファの上で横向きに体勢を変えた。クッションを抱えたまま、膝を軽く曲げる。だいぶ無防備な姿勢だ。
「寝るなよ」
「寝ないし」
返事は返ってくる。
でも、その数分後にはまぶたが重たそうに落ち始めていた。
「黒瀬」
「……なに」
「かなり眠そう」
「眠くない……」
「それ前も聞いた」
「今日は前より、まだ起きてるし」
その言い方が、逆にかなり眠い時のそれだ。
湊は少しだけため息をつき、立ち上がる。
「毛布持ってくる」
「いらな……」
最後まで言い切る前に、黒瀬の声がだいぶ薄くなった。
押し入れから薄手の毛布を取って戻る。ソファの上の黒瀬は、さっきよりさらに体の力が抜けていた。
肩にそっとかけようとすると、黒瀬が少しだけ目を開けた。
「……みなと」
それは、あまりに自然にこぼれた。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
数秒遅れて、頭の中で音がつながる。
今、名前で呼ばれた。
朝比奈、でも。
あんた、でもなく。
“湊”と。
「……え」
声が喉に引っかかる。
黒瀬本人はたぶん、半分眠っている。目は開いているのに焦点が少し甘い。自分が何を言ったかも、まだ完全にはわかっていない顔だ。
「……なに」
眠そうに言う。
「今、なんて」
「……なにが」
「名前」
そこまで言った瞬間、黒瀬のまぶたがぴたりと止まった。
数秒の沈黙。
それから、じわっと耳が赤くなる。
「……っ」
完全に覚醒したらしい。
「い、今のなし」
「無理だろ」
「無理じゃなくて!」
クッションを抱えたまま、黒瀬は半分起き上がる。
でも眠気が残っているせいで勢いが足りず、余計にあたふたして見える。
「なんで今それ拾うの!」
「拾うだろ普通!」
「寝ぼけてたし!」
「それでも名前は名前だろ!」
「……っ、最悪」
顔まで赤い。
ここまでわかりやすく照れるのも珍しい。夜の部屋ではだいぶ素直になってきた黒瀬だが、名前呼びだけはまだ明確な線の向こうにあったのだろう。
それを本人も無自覚のまま越えてしまった。
たぶん今、その事実に一番動揺しているのは黒瀬自身だ。
「……もう一回呼んで」
湊が思わず言うと、黒瀬は本気で睨んだ。
「は?」
「いや、今の」
「死んでもやだ」
「そこまで!?」
「そこまでだし!」
勢いよく言ってから、黒瀬はクッションに顔を埋めた。
耳がまだ赤い。
毛布が少しずれて、肩が見える。起きたはずなのに、眠気の残る顔のままそんな反応をするから余計に破壊力がある。
「……朝比奈」
「戻ったな」
「戻すし」
「でも、さっきのはもう消えないぞ」
「消して」
「無理」
「最悪……」
クッションに顔を押しつけたまま、ぼそぼそ言う。
その姿があまりにも無防備で、湊は少しだけ笑ってしまった。
「笑うな」
「いや、だって」
「笑うなって」
「照れすぎだろ」
「照れてないし」
「今のでその否定は無理ある」
黒瀬はしばらく何も言わなかった。
ただ、クッションに顔を押しつけたまま、少しだけ肩を縮める。
その数秒後、小さな声が漏れた。
「……だって、変な感じしたし」
「何が」
「名前で呼ぶの」
「じゃあなんで呼んだんだよ」
「知らない。眠かったし」
そこはたぶん本当だろう。
眠気と安心感で、呼び方の線が一瞬だけゆるんだのだ。
それが事故なのか、本音のにじみなのかはわからない。
でも、どちらにしても強かった。
「……でも」
黒瀬が小さく続ける。
「ちょっとだけ、しっくりきたのがむかつく」
その言い方に、湊は息を止めた。
しっくりきた。
つまり、呼んでみて違和感がゼロではなかったということだ。
「それ、かなりやばいな」
「やばくないし」
「だいぶやばい」
「うるさい……」
そう言いながらも、黒瀬の声はさっきより少しだけ弱い。
もう怒る勢いも尽きて、照れと眠気が勝ち始めているのだろう。
湊は毛布をもう一度ちゃんとかけ直した。
「ほら、寝るなら寝ろ」
「……寝ないし」
「説得力ない」
「でも、ちょっとだけ静かにして」
「はいはい」
そう返して、椅子へ戻る。
黒瀬はソファの上で毛布にくるまったまま、しばらくごそごそ動いていたが、数分後にはかなり静かになった。
完全には寝ていない。
でも、起きているとも言いきれない。
その曖昧さの中で、さっきの“湊”だけが妙にはっきり部屋に残っている。
湊は文庫本を開くふりをしながら、ほとんど文字を追えていなかった。
名前で呼ばれた。
それだけだ。
たったそれだけなのに、昨夜のベッドより、膝の距離より、よほど強かった。
呼び方が変わるだけで、二人の距離はこんなにもあっさり揺れるのかと思う。
帰り際、黒瀬はだいぶ眠気が取れた顔で立ち上がった。
でも、まだ少しだけ不機嫌そうだった。
「今日のこと、ほんと忘れて」
「名前のやつ?」
「わざと言うな」
「忘れられるわけないだろ」
「……最低」
「いや、そっちが呼んだんだろ」
「寝ぼけてたの!」
「でも呼んだ」
「もう……」
言葉にならないまま、黒瀬は靴を履く。
玄関のドアを開ける直前、一度だけ振り返った。
「……次、絶対呼ばないから」
「その“次”はあるんだ」
「……そこ拾うなって」
最後まで顔が少し赤いまま、黒瀬は廊下へ出ていった。
ドアが閉まったあとも、部屋の中には妙な余韻が残っていた。
ギャルは眠れない夜に、自分から名前を呼ぶ。
それも、半分眠ったままの無防備なタイミングで。
反則だろ、と思う。
でも、その反則を嬉しいと思ってしまった時点で、たぶんもうかなり戻れないところに来ていた。




