ep.27 夜のルールを作ろうとして、結局ひとつも守れない
その夜、朝比奈湊は少し本気で考えていた。
このままだとまずいんじゃないか、と。
何がまずいのかを一言で説明するのは難しい。けれど、少なくとも健全な高校生活とか、平和な理性とか、そういうものの一部が、少しずつ侵食され始めている実感はあった。
黒瀬琉衣奈は、夜になると来る。
最近はもう、理由があってもなくても来る。
来れば冷蔵庫を開けるし、プリンを見つけるし、ソファで膝の距離を詰めてくるし、時々こちらの心臓に悪いことをさらっと言う。
しかも、学校ではツンだ。
だから余計に夜の落差が効く。
このまま“なんとなく”の積み重ねで距離が壊れていくのは、たぶんよくない。
よくないはずだ。
……そのはずなのに、完全に止める気もないあたりが一番終わっている。
とりあえず、せめてルールくらいは決めるべきではないか。
それが今夜の湊の結論だった。
夕飯を済ませ、机に向かいながらも頭の中ではそのことばかり考えていた。
夜に来るのは禁止、は無理だろう。
それはもう現実的じゃない。
でも、たとえば。
学校では持ち込まない。
泊まりは禁止。
私物を増やさない。
ベッドには座らない。
変に距離を詰めない。
そのくらいなら、ルールとして機能するかもしれない。
「……たぶん」
自分で言っていて、すでに自信がない。
特に最後の二つ。
私物を増やさない、はすでに怪しい。ヘアゴム、ヘアピン、ハンドクリーム。じわじわ増えている。
ベッドに座らない、に至っては、まだ辛うじて守られているだけで、守られ続ける保証はどこにもない。
それでも、何も決めないよりはいい。
少なくとも形だけでもルールがあれば、少しは冷静になれるかもしれない。
そんな希望的観測を抱いたまま、九時少し前。
インターホンが鳴った。
タイミングが良すぎて、少し笑ってしまいそうになる。
モニターには黒瀬。
今日は薄手のトップスにショートパンツ、上から軽くカーディガンを羽織っている。髪は下ろしたままで、メイクもごく薄い。完全に夜の顔だ。
ドアを開ける。
「……遅」
「今日もそれか」
「言うし」
「気分の問題だろ」
「わかってんじゃん」
最近はもう、このやり取りすら挨拶みたいなものになってきている。
それがまずいのだ、と湊は内心で思う。
黒瀬は靴を脱ぎ、迷いなく部屋へ上がった。
そして案の定、いつものようにソファへ向かう。
「待て」
湊が少し強めに言うと、黒瀬は振り返った。
「なに」
「今日、話ある」
「は?」
「ちょっとちゃんと座れ」
「そこ座ろうとしてたし」
「そうじゃなくて」
湊は自分で言いながら、何だこの空気と思った。
まるで何かの話し合いでも始めるみたいだ。実際そうなのだが、相手は黒瀬琉衣奈だ。きっとまともに乗ってくるはずがない。
それでも今夜は引けなかった。
「ルール決めよう」
言い切る。
黒瀬は三秒黙って、それから露骨に嫌そうな顔をした。
「……なにそれ、だる」
「だるくても決める」
「なんで」
「なんか最近、いろいろ普通になりすぎてるから」
「普通でいいじゃん」
「よくない」
「どこが」
ソファに座りながら、黒瀬はじとっと睨んでくる。
その時点で、話し合いの成功率はかなり低い気がした。
「まず一個目」
湊はあえて机の前に立ったまま言う。
「学校では夜のこと持ち込まない」
「それ、今もそうじゃん」
「まあそうだけど、確認」
「じゃあいいし」
「二個目、泊まりは禁止」
黒瀬の眉がぴくりと動く。
「泊まったことないし」
「ないけど、今後も」
「今後もって何」
「何が起こるかわかんないだろ」
「起こさないし」
「そう言い切れるか?」
「……朝比奈、それ自分のこと疑ってる?」
「そこはまあ少し」
「最低」
そう言いながらも、黒瀬の声に本気の怒気はない。むしろ少しだけ面白がっている気配さえある。
「三個目」
「まだあるの?」
「ある」
「めんど」
「私物を増やさない」
そこで黒瀬は、完全に呆れた顔になった。
「今さら?」
「今さらだけど」
「もう増えてるし」
「だからこれ以上」
「無理でしょ」
即答だった。
「なんでだよ」
「だって普通に落とすし」
「落とすな」
「気抜いてるからしょうがないし」
その理屈を堂々と使うな、と言いたかったが、もう何度も聞いているので新鮮味がない。
「じゃあ四個目」
「まだあるんだ」
「ベッドに座らない」
その瞬間、黒瀬は一度だけきょとんとした。
それから、すごくゆっくりと口元を上げる。
「……朝比奈、それかなり意識してるんだ」
「してない」
「うそ。今のはしてる顔」
「してないって」
「てか、まだ座ったことないのに先回りして禁止って、めっちゃ自意識過剰じゃん」
「自意識じゃなくて予防だよ」
「何を予防すんの」
「いろいろ」
「雑」
でも、湊の顔が少し赤いのは自分でもわかった。
ベッドはまだ安全圏のはずだった。
ソファは危うい。
冷蔵庫はもう侵食済み。
だからせめてベッドくらいは守りたい――そういう考えが透けて見えるのだろう。
「最後」
湊は少し早口になっていた。
「変に距離詰めない」
言った瞬間、黒瀬は完全に笑った。
「それは無理」
「なんで!?」
「だって昨日のソファのやつ気にしてるじゃん」
「気にするだろ普通!」
「普通かな」
「普通だよ」
「ふーん」
明らかに楽しそうだ。
ここまで来て、湊は少しだけ悟り始めていた。
この話し合い、もうかなり負けている。
黒瀬はカーディガンを脱いでソファの横に置き、クッションを抱え直した。
「で、ルール終わり?」
「終わりだけど」
「じゃあカフェラテ」
「話聞いてた?」
「聞いてたし」
「なら少しは真面目に」
「真面目に答えたじゃん」
「ほぼ全部拒否だったろ」
「だって無理だし」
「どこが」
「学校で持ち込まないは今も守ってる。泊まりはしない。そこまではまあいい」
「そこまでは?」
「でも私物は増えるし」
「増やすな」
「だから落とすって言ってるじゃん」
「わざとじゃないだろうな」
「たぶん半分はわざとじゃない」
「半分あるのかよ」
そこはあるのか、と本気で頭を抱えたくなった。
「あと、ベッドに座るなっていうのも意味わかんないし」
「意味はわかるだろ」
「わかるけど、そこだけ妙にリアル」
「何が」
「朝比奈が守りたいラインなんだなって」
「……うるさい」
「図星じゃん」
図星だった。
黒瀬は完全に見抜いている顔で、カフェラテを待つように机を指先でとんとん叩く。
湊は観念してキッチンへ向かった。
「結局入れるのか」
「飲みたいし」
「めんどくさいな」
「それ、あんたが言う?」
「言う」
湯を沸かしながら、背中越しに気配を探る。
黒瀬はもう話し合いモードではなかった。
いつもの夜の部屋の顔だ。
つまり、さっきのルールはほぼその場で機能不全に陥っている。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬は当然みたいに受け取った。
「ありがと」
「……なあ」
「何」
「ルール守る気ある?」
「半分は」
「また半分かよ」
「朝比奈が半分好きだから」
さらっと言ってから、黒瀬はあ、とでも言いたげに一瞬だけ目を逸らした。
自分で言って、少し言いすぎたと思ったらしい。
だが湊の脳内では別の意味で処理が止まった。
「……何今の」
「知らない」
「知らないじゃ済まないだろ」
「だって流れで」
「どういう流れだよ」
「変な流れ」
クッションに顔を半分埋めてごまかそうとする。
それでも耳が少し赤い。
今の一言で、湊の用意していたルール表なんて、もう紙くずみたいなものだった。
「ほら、やっぱ危ないだろ」
なんとか言い返すと、黒瀬は顔を上げる。
「何が」
「今みたいなの」
「今のは事故」
「事故で済ませるな」
「でも朝比奈だって動揺してるし」
「そりゃするだろ」
「ならお互い様じゃん」
そう言いながら、黒瀬はクッションをずらした。
そして、当然みたいに言う。
「てか、そこ座って」
ソファの隣をぽん、と叩く。
さっきまで“変に距離詰めない”とルールを口にしていたのに、もうこれだ。
「いや、今まさにその話しただろ」
「でも椅子だと遠いし」
「遠くていいんだよ」
「よくないし」
「なんで」
「画面見づらい」
「それ昨日と同じ言い訳だろ」
「使えるから使ってるだけ」
清々しいくらい開き直っている。
湊は少しだけ天井を仰いだ。
「……やっぱルールいらなかったな」
「やっとわかった?」
「わかりたくなかった」
「でもわかったじゃん」
最悪だ。
でも、その最悪が妙に心地いいのも事実だった。
結局湊はまたソファの端に座った。
もちろん、できるだけ端だ。
だが、その時点でもうルールは一つ破られている。
「ほら」
黒瀬が言う。
「結局座るし」
「うるさい」
「朝比奈、ほんとそういうとこ甘い」
「黒瀬が押し切るんだろ」
「それはそう」
悪びれない。
動画を流し始めると、黒瀬は案の定、少しずつ距離を詰めてきた。
昨日と同じだ。
膝の距離。肩の近さ。髪の気配。
さっき決めようとした“変に距離詰めない”なんて、開始十分で完全に崩壊している。
「……だから無理だって言ったじゃん」
黒瀬が画面を見たまま言う。
「何が」
「ルール」
「まだ一時間も経ってないぞ」
「うん。だから無理なんだって」
「誇るな」
「誇ってないし」
でも少し笑っている。
そうしているうちに、もう一つのルールも壊れた。
動画の途中、黒瀬が姿勢を変えた拍子に「ちょっと」と言って立ち上がる。
そしてソファの前にあったクッションを持ったまま、何の躊躇もなくベッドの端へ腰を下ろした。
「……おい」
湊が本気で固まる。
「なに」
「今、何した?」
「座った」
「どこに」
「ベッド」
「ルール四個目!!」
思わず声が大きくなる。
黒瀬は少しだけきょとんとして、それから吹き出した。
「うわ、マジでそこ気にしてたんだ」
「気にするだろ普通!」
「ソファだとこっち向きづらかったし」
「そういう問題じゃない!」
「でももう座ったし」
その言い方がさっきの冷蔵庫と同じすぎて、湊は本気で頭を抱えたくなる。
しかも黒瀬は、ベッドの端にちょこんと座っているだけなのに、やたら部屋の空気を変える。そこはまだ“聖域”みたいなものだったのに、あっさり侵入された感じがして、無駄に心臓に悪い。
「……下りろ」
「やだ」
「即答かよ」
「だってもう座ったし」
「その理屈ほんとやめろ」
でも、強く引きはがせない。
結局、湊はソファに残ったまま、黒瀬がベッドの端から動画を見るという、意味のわからない配置でしばらく過ごすことになった。
ルールは全部ではないにせよ、かなりの速度で崩壊していた。
学校に持ち込まない。
泊まらない。
それだけが、かろうじて残っている。
私物は増える。
距離は詰まる。
ベッドにだって座る。
こうなると、最初の話し合いは何だったんだという気分になる。
「……なあ」
湊が小声で言う。
「ん?」
「ほんとに一個も守る気ないだろ」
黒瀬はクッションを抱えたまま、少しだけ笑った。
「守れるやつは守るし」
「何を」
「泊まらないとか」
「そこは守るのか」
「それは大事だし」
言い方が妙に真面目で、そこだけは少しだけ救われた。
「でも、他は無理」
「なんで」
「だって、そういう感じじゃないし」
「どういう感じだよ」
「……朝比奈と、今さらそういうの線引いても変ってこと」
それはたぶん、今夜いちばんの本音だった。
線を引こうとしても、もうこの関係はその線を素直に守るところまで戻れない。
冷蔵庫を開けて、私物を置いて、夜食を食べて、膝の距離を詰めて、眠れない夜には来る。
そういう積み重ねのあとで、急に“ここから先はだめ”と定規みたいに線を引くのは、たしかに不自然なのかもしれない。
不自然だとわかるからこそ、余計に怖い。
でも、その怖さも含めて、今の二人なのだろう。
「……負けた気分だ」
湊がぼそっと言うと、黒瀬は少しだけ目を細めた。
「何に」
「いろいろ」
「じゃあ半分だけ勝たせてあげる」
「何その上から」
「だって朝比奈、そういうとこ負け顔だし」
そう言って笑う黒瀬は、結局ベッドの端から動かなかった。
そして湊も、それを最後まで本気で止められなかった。
夜のルールを作ろうとして、結局ひとつも守れない。
少なくとも、今夜の時点ではそういう結論だった。




