ep.26 栞と帰る放課後、ギャルは教室の窓から見ている
“帰ってきたみたいな感じがする”。
昨夜、黒瀬琉衣奈がそう言った言葉は、思っていた以上に尾を引いた。
朝比奈湊は登校中も、教室へ入ってからも、その一言を何度か思い出していた。
帰ってきたみたい。
その表現は重い。重いのに、黒瀬は言ってしまってからすぐ照れて、「今のなし」とか「半分だけ忘れて」とか、いつもの調子で誤魔化していた。
でも、誤魔化せば消えるような言葉じゃない。
あれを聞いてしまった以上、今までみたいに“なんとなく夜に来る同級生”として処理するのは、もうだいぶ無理がある。
だから困る。
教室の窓際で、今日も学校用の顔をしている黒瀬を見るたび、その“重い一言を言った本人”との落差が脳に悪かった。
そして今日は、もう一つ別の理由でも落ち着かなかった。
放課後、白瀬栞と少し寄り道することになっていたからだ。
きっかけは単純だった。
昼休みに、栞が小さく言ったのだ。
「駅前の本屋、今日、新刊棚が入れ替わるらしいんです」
「へえ」
「この前の続き、もし時間があれば一緒に見ませんか」
言い方はいつも通り静かだった。
押しつけでもなく、強引でもない。ただ、自然に“どうですか”と差し出してくる。
断る理由はなかった。
「いいよ」
そう答えた時、栞は少しだけ目をやわらげた。
「ありがとうございます」
その笑い方が、教室で見るいつものそれより少しだけ近かった気がした。
そしてたぶん、そのやり取りをどこかで見ていた人間がいる。
――窓際のギャルだ。
放課後。
教室に残る生徒は少しずつ減っていく。部活へ向かうやつ、友達同士でだらだら話し続けるやつ、先生に捕まっているやつ。いつもの夕方だ。
湊が帰り支度を整えていると、栞が席の横へ来た。
「朝比奈くん、行きますか」
「うん」
その一言だけ。
それだけなのに、なぜか少しだけ周囲の空気が気になった。
気にしすぎだ、と自分に言い聞かせる。
実際、これはただの本屋への寄り道だ。何もおかしなことはない。クラスメイト同士でたまたま帰り道が重なることくらい、別に珍しくもない。
なのに、教室を出る直前、反射的に窓際を見てしまった。
黒瀬がいた。
友達と話しているふりをしながら、確実にこちらを見ていた。
目が合ったのは一瞬だ。
でも、その一瞬で十分だった。
黒瀬の顔には、何も書いていないようでいて、かなりいろいろ書いてあった。
面白くない。
見ている。
でも声はかけない。
そんな感じだ。
湊は軽く息をつき、何も言わずに教室を出た。
廊下を栞と並んで歩く。
栞は今日も学校の栞だった。黒髪、メガネ、真面目そうな制服。けれど、その見慣れた姿ですら、休日の私服を見てしまったあとだと少しだけ印象が違う。
あの時、本屋で最初わからなかったくらいだ。今こうして制服を着ていても、たぶん本来の輪郭のきれいさは隠しきれていないのだろう。
「今日は人、多いかもしれませんね」
階段を下りながら栞が言う。
「新刊の日なんだっけ」
「そうです。雑誌コーナーも入れ替わるので」
「詳しいな」
「書店、好きなので」
その答え方がいかにも栞らしい。
駅前までの道を並んで歩く。教室では前後の席や机を挟んだ距離で話すことが多いから、こうして隣にいると少しだけ新鮮だった。
それでも、不思議と落ち着かないわけではない。
栞の近さは、いつもどこか穏やかだ。押しつけないし、急に深く踏み込んでこない。だから一緒にいて呼吸が乱れにくい。
――そういうところが、黒瀬からすると厄介なのかもしれない。
そんなことを考えた自分に、湊は内心で苦笑する。
もう何を見ても黒瀬の反応を想像してしまうあたり、だいぶどうかしていた。
本屋に着くと、栞は迷いなく文庫コーナーへ向かった。
「この前の続き、もう読みました?」
「半分くらい」
「では、たぶんこっちも好きです」
そう言って棚から一冊抜き出す。
自然だ。
距離感も会話も、前と同じ。
けれど今は、教室の外で並んでいるせいか、少しだけ親密さの見え方が違う。
「朝比奈くん」
「ん?」
「こうしてると、学校より話しやすいですね」
やっぱりそうか。
湊は少しだけ笑う。
「俺もそう思ってた」
「よかった」
栞はほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。
それがまた、静かに強い。
書店を一通り回り、結局二人とも一冊ずつ買うことになった。レジを出たあと、栞が「少しだけ駅前を歩きますか」と言ったので、そのまま少し遠回りする。
夕方の駅前は、買い物帰りの人と学生でほどよく混んでいた。
栞は歩幅を合わせるのがうまい。早すぎず遅すぎず、隣にいて変に気を遣わせない速度で歩く。
「朝比奈くんって、休日は何してること多いですか」
「家のことやってるか、本読んでるか、動画見てるか」
「想像通りです」
「ひどいな」
「褒めてます」
「どこが」
「無理に誰かに合わせてないところです」
その言葉に、少しだけ返答が詰まる。
栞は、たまにこういうふうに、まっすぐなことを静かに言う。
だから余計に効くのだ。
「白瀬さんは?」
「本屋か図書館か、家で読書か、たまにカフェです」
「ほんとに想像通りだな」
「それはお互いさまです」
二人で少し笑う。
その瞬間、ふいに嫌な予感がした。
何かを見られている気がしたのだ。
もちろん、駅前の人通りの中で誰がどこから見ているかなんてわからない。気のせいだと言われればそれまでだ。
でも、教室を出る時に見た窓際の視線が、どうしても頭に残っている。
……まさか。
そう思ってしまった時点で、かなり末期だ。
けれど、その“まさか”は、夜になるとだいたい当たる。
九時過ぎ。
自室でカフェラテ用のカップを二つ出してから、「何やってんだろうな、俺」と天井を見上げたところで、インターホンが鳴った。
タイミングが良すぎる。
もはや笑うしかない。
ドアを開ける。
黒瀬琉衣奈は、かなりわかりやすく不機嫌だった。
私服はいつも通りラフだ。髪も下ろしていて、メイクも薄い。学校の時よりずっとやわらかい顔立ちのはずなのに、今日ばかりはそこにしっかり不機嫌が乗っている。
「……何」
湊が先に聞くと、黒瀬はじとっと睨んできた。
「別に」
「いや、その顔で別には無理あるだろ」
「見てないけど、見えたし」
「やっぱり見てたのか」
「見てない。たまたま見えた」
その“たまたま”はもう誰も信じない。
黒瀬は部屋に上がるなり、いつもより少し乱暴にソファへ座った。クッションを抱き寄せる動作もどこか棘がある。
「カフェラテでいい?」
「……それ」
湊はキッチンへ向かいながら、もう半分くらいは状況を理解していた。
これは完全に、さっきの放課後の件だ。
栞と歩いていたところを見られていた。
しかも、ただ見ただけではなく、そこそこちゃんと見ていた顔だ。
「で?」
お湯を沸かしながら聞く。
「で、ってなに」
「何がそんなに面白くないわけ」
「面白くないとかじゃないし」
「じゃあ不機嫌なだけか」
「……朝比奈って、最近ちょっとそういうとこ強気だよね」
「誰のせいだと思ってんだよ」
そう返すと、黒瀬は少しだけ黙った。
図星っぽい。
湊はカフェラテを持って戻り、ローテーブルへ置く。
「はい」
「ん」
受け取る時の手つきまで今日はむくれている。
「……今日、楽しそうだったじゃん」
ぽつりと落ちる。
やっぱりそれだ。
「本屋行っただけだよ」
「そのあとも歩いてたし」
「少しだけな」
「少しでも」
言い方がほとんど拗ねた子どもみたいで、湊は思わずため息をつきそうになる。
でも、それを笑ってしまうと今夜は余計にこじれそうだった。
「白瀬さんに誘われた」
「……名前で呼ぶんだ」
「そこ引っかかるの前もやっただろ」
「だってそうじゃん」
黒瀬はカフェラテをひと口飲み、クッションへ頬を少し押しつけた。
完全に不機嫌の姿勢だ。
「何がそんなに気になるんだよ」
「気になるとかじゃないし」
「じゃあ何」
「……なんか、ああいうのずるい」
その返事は、前より少しだけ素直だった。
「ずるい?」
「だって、あのメガネ、学校でも静かに近いのに、外だとさらに普通に近いし」
「外だとって」
「並んで歩いてたじゃん」
「歩いてたけど」
「楽しそうだった」
またそれだ。
でも、その言い方には確かに嫉妬が混ざっている。本人が認めるかどうかは別として、少なくとも“面白くない”以上のものはある。
「……で、何が悪いんだよ」
わざと少し強めに返してみる。
黒瀬はその瞬間、少しだけ目を見開いた。
「何も悪くないし」
「じゃあいいだろ」
「よくないし」
やっぱりそこは即答だ。
その一言が出る時点で、もうかなりわかりやすい。
「何がよくないんだよ」
「……あんたが」
黒瀬はそこで少しだけ言葉に詰まる。
「ああいう感じで、普通に他の子と歩いてるの」
それは、かなり本音に近かった。
教室で前の席に座るとか、図書室で話すとか、そういうのよりも、放課後に並んで歩いている光景のほうが、彼女にとっては刺さったのだろう。
学校の外は、昼の顔の延長でありながら、少しだけ夜に近い。
だから余計に、栞の近さがいやだったのかもしれない。
「……見てたな、ほんとに」
湊がぼそっと言うと、黒瀬はそっぽを向いた。
「見てないし。たまたま見えただけ」
「まだ言うのか」
「言うし」
その意地の張り方も、だいぶかわいく見えてしまうから困る。
湊は少しだけ息をついてから、正直に言った。
「でも、黒瀬のほうがずるいと思うけど」
「は?」
「昼はツンなのに、夜はああだろ」
「ああって何」
「……いろいろ」
「雑」
「そっちもだろ」
黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
けれど、その顔にはさっきまでよりほんの少しだけ余裕が戻っている。
「今日さ」
湊が続ける。
「白瀬さん、たしかに話しやすかったよ」
「……」
「でも、それと黒瀬が嫌って話は別だろ」
そこまで言うと、黒瀬は完全に黙った。
クッションを抱きしめる腕に少しだけ力が入る。
「……そういうの、さらっと言うなって」
小さな声だった。
「だって事実だし」
「事実でも」
「よくない?」
「……よくない」
でも、その“よくない”は、さっきまでの拗ねた強さとは違った。
照れと、安心と、まだ少し残る嫉妬が混ざっている。
「楽しそうだったのは、まあそうかも」
湊が少しだけ視線を落として言う。
「でも、帰る場所みたいに思ってるのは栞じゃないだろ」
その一言で、空気が止まった。
黒瀬は完全に黙る。
昨夜、自分が言った言葉を思い出したのだろう。
帰ってきたみたいな感じがする。
そう言ったのは、他でもない黒瀬自身だ。
数秒の沈黙のあと、黒瀬はクッションに顔を少し埋めたまま、ぽつりと漏らした。
「……それ、今出すの反則」
「お互い様だろ」
「お互いじゃないし」
でも声は、もうかなりやわらかかった。
今夜の不機嫌は、たぶんこれでほとんど溶けたのだろう。
栞と帰る放課後。
その光景を、ギャルは教室の窓から見ている。
そして夜になると、それをちゃんと拗ねて持ち込んでくる。
面倒だ。
でも、そうやってわかりやすく不機嫌になるところまで含めて、もうかなり好きになってしまっている気がした。




