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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.25 夜食を作る音を聞きながら、ギャルは“帰る場所”を考えている

その夜の黒瀬琉衣奈は、来た時から少しぼんやりしていた。


 不機嫌ではない。

 拗ねてもいない。

 疲れているようでいて、眠そうとも違う。


 何かを考えている時の顔だった。


 朝比奈湊は、インターホンが鳴ってドアを開けた瞬間にそれに気づいた。最近はもう、そういう細かい表情の違いがかなりわかるようになっている自分がいる。


 我ながら面倒だと思う。


 でも、気づいてしまうものは気づいてしまうのだから仕方ない。


「……遅」


 いつもの第一声も、今日はどこか上の空だった。


「今日はそんなに待たせてないだろ」


「気分の問題」


「そればっかだな」


「強いから」


「はいはい」


 軽く返しながらも、湊は黒瀬の顔をもう一度見る。


 やっぱり、何か考えている。


 でも、今すぐそれを聞くのは違う気もした。


 黒瀬は部屋へ上がり、ソファへ座る。クッションを抱えるでもなく、今日はただ背もたれに浅く寄りかかって、ぼんやりとテーブルの上を見ていた。


「なんか飲む?」


 湊が聞くと、少しだけ間があってから返ってくる。


「……あとでいい」


「珍しいな」


「今は別に」


 それだけ言って、また静かになる。


 湊はキッチンへ立った。


 今日は簡単な夜食を作るつもりだった。冷蔵庫には夕方のうちに仕込んでおいた鶏そぼろがある。ごはんの残りもあるし、卵もある。雑に二色丼にでもして、味噌汁を温めれば十分だろう。


 包丁を取り出し、小ねぎを刻む。

 鍋を火にかける。

 冷蔵庫の扉を開けて、保存容器を出す。

 味噌汁の鍋から、昨日より少しだけ薄い湯気が立つ。


 その一つ一つの音が、今夜は妙に部屋に響いた。


 カチ、とコンロの火がつく音。

 まな板に包丁が当たる音。

 鍋の底で汁気があたたまっていく音。

 炊飯器の保温を切る電子音。


 全部、いつもの生活音だ。


 でも最近は、その生活音を自分一人だけが聞いているわけではない。


 振り返ると、黒瀬はソファの上で静かにその音を聞いていた。


 テレビはついていない。スマホも触っていない。ただ、こちらを見ているわけでもなく、音だけを受け取っているみたいな顔で、そこにいる。


「今日、静かだな」


 湊が声をかけると、黒瀬は少しだけ瞬きをした。


「……うるさかった?」


「いや、逆」


「じゃあいいじゃん」


「よくはないだろ」


「別に喋ることないし」


 それはたぶん、本音の半分くらいだ。


 喋ることがないのではなく、言葉にするにはまだ少し早い何かがあるのだろう。そういう時の黒瀬は、無理に話さない。


 その代わり、ここにいる。


 それが最近の夜の形だった。


「夜食、食べる?」


「……食べる」


「即答だな」


「お腹空いたし」


 それでようやく、少しだけ黒瀬らしい声の調子が戻る。


 湊は少しだけ安心して、フライパンを火にかけた。そぼろを温め直し、卵を割って菜箸でかき混ぜる。ふわっと広がる甘い匂いに、ソファのほうから視線が寄るのがわかった。


「なに作ってるの」


「二色丼」


「地味」


「夜食に何求めてんだよ」


「見た目の派手さ」


「ギャルだな」


「知ってる」


 でも、その返しも今日は少しだけ弱い。


 湊は小さく笑いながら、ごはんを茶碗へよそった。そぼろと炒り卵をのせ、小ねぎを散らす。それだけの簡単な丼だ。


 味噌汁も器に注ぎ、ローテーブルへ運ぶ。


「はい」


「……うまそう」


 今日はそれが第一声だった。


 珍しい。


 いつもならまず「地味」とか「普通」とか言いそうなのに、今夜はそういう変な強がりが少ない。


「食べるなら食べろ」


「食べるし」


 箸を取って、ひと口。


 黒瀬はそこで少しだけ目を閉じた。


「……うま」


「今日のそれ、ちょっと本気だな」


「だってお腹空いてたし」


 そう言いながらも、たぶんそれだけじゃない。


 こうして部屋の中で、生活の音のあとに出てくる夜食を食べること自体が、もうかなり彼女にとって落ち着く流れになっているのだろう。


 湊も向かいに座り、自分の分を食べ始める。


 しばらくは食器の音と、箸が当たる小さな音だけが続いた。


 静かだ。

 でも、全然嫌じゃない。


 むしろ、今夜の黒瀬にはこの静けさが必要なのだろうとわかる。


「……今日、家どうだった」


 湊があえて軽く聞くと、黒瀬は味噌汁の椀を持ったまま少しだけ視線を落とした。


「別に、昨日ほどじゃない」


「そっか」


「でもなんか、帰っても落ち着かなかった」


 その言い方は、ひどく飾り気がなかった。


「だから来た?」


「うん」


 それも、すぐ返ってきた。


 最近の黒瀬は、夜の部屋では嘘をつくのが少しずつ下手になっている。


 いや、下手というより、つく必要が薄くなっているのかもしれない。


「……朝比奈んちってさ」


 黒瀬が丼を見ながら言う。


「ん?」


「こういう音、するじゃん」


「こういう音?」


「料理する音とか、冷蔵庫とか、皿置く音とか」


 湊は少しだけ首をかしげた。


「まあ、生活してるからな」


「それがいい」


 短い言い方だった。


 でも、妙にはっきりしていた。


「家でも音はするよ」


「するけど、違うし」


「何が」


「……わかんない」


 わからない、と言いながらも、たぶん本人の中にはかなり明確な差があるのだろう。


 家で聞こえる音は、自分を疲れさせる音。

 ここで聞こえる音は、自分を少し落ち着かせる音。


 そういうことかもしれない。


 食べ終わったあと、湊が食器を下げていると、黒瀬はソファで膝を抱えるみたいにして座っていた。いつもならクッションを抱くのに、今日はそれもしない。


 ただ、キッチンから聞こえる洗い物の音を、じっと聞いている。


 蛇口の音。

 スポンジが皿をこする音。

 食器を伏せる音。


 どれも地味だ。


 地味なのに、その音を背にしている黒瀬の横顔は、どこかやわらかかった。


 湊は手を拭きながら、ソファの前まで戻る。


「なんか考えてる?」


 聞くと、黒瀬は少しだけ目を上げた。


「……別に」


「それ、本当に別にの時と、考えてる時あるよな」


「今日は後者」


 そこは認めるのか。


 湊は少しだけ笑った。


「何考えてたんだよ」


 黒瀬はすぐには答えなかった。


 視線をソファの端に落とし、指先で自分のショートパンツの裾をいじる。そういう時の仕草は、学校の彼女とは本当に別人みたいだった。


「……ここ来るとさ」


「うん」


「なんか……帰ってきたみたいな感じする時ある」


 その一言は、予想していたよりずっと重かった。


 帰ってきたみたい。


 それはたぶん、気軽に口にしていい言葉じゃない。少なくとも高校生の男女の関係としては、かなり深い位置にある感覚だ。


 言ってから、黒瀬自身もそれに気づいたのだろう。


 顔をしかめて、すぐに付け足す。


「いや、別に、変な意味じゃないし」


「変な意味って?」


「知らない。なんか……その、落ち着くってだけ」


「うん」


「あと、夜食とかあるし」


「そこ大きいのか」


「少しは」


「少しなんだ」


「……かなり」


 最後は小さく言い直す。


 その誤魔化し方すら、今夜は少しだけ愛おしく思えてしまって、湊は自分がだいぶまずいところまで来ているのを再確認した。


「帰ってきたみたいって、かなり重いな」


 正直にそう言うと、黒瀬はクッションを手繰り寄せて顔半分を隠した。


「だから、今のなし」


「なしにはならないだろ」


「なって」


「無理」


「朝比奈って、そういうとこほんと融通きかない」


「大事なとこだろ、そこ」


 そう返すと、黒瀬は少しだけ黙った。


 顔を隠したまま、小さな声が漏れる。


「……だって、ほんとそう思ったし」


 それは、今夜の中でいちばん静かな本音だった。


 湊は何も返せなくなる。


 ここへ来ると、帰ってきたみたいな感じがする。

 料理の音や、食器の音や、冷蔵庫の音が、その感覚を少しずつ形にしていく。


 そんなふうに言われてしまったら、もうただの“夜に来るギャルの同級生”ではいられないだろう。


「……そっか」


 結局、それしか言えなかった。


 でも、それ以上の言葉もたぶん今は違う。


 軽く受け流すのも違うし、重く受け止めすぎるのも違う。


 今はただ、そうなんだと返すしかない。


 黒瀬は少しだけ顔を上げた。


「それだけ?」


「それだけって?」


「もっとなんか、ないの」


「何を言えばいいんだよ」


「知らないし」


 でも、そのやり取りで少しだけ空気がほぐれる。


 重くなりすぎたところを、自分で照れて崩したのだろう。そういうバランス感覚は、やっぱり彼女らしかった。


「じゃあ、これからも夜食作るか」


 湊が軽く言うと、黒瀬は少しだけ目を細めた。


「それ、ずるい」


「なんで」


「そういうので自然に戻そうとするし」


「重すぎるままだと困るだろ」


「……まあ」


 そこで、小さく笑った。


 ようやく、今夜初めてちゃんと笑った顔だった。


「でも、夜食あるのはうれしいし」


「かなり大きいんだな、そこ」


「大きいし」


 言い切るところは言い切る。


 そのあと、黒瀬は少しだけソファの上で崩れた姿勢になって、背もたれへ体重を預けた。


 さっきより明らかに力が抜けている。


 たぶん、言葉にして少し楽になったのだろう。


 帰る頃には、部屋の空気はいつもより静かで、でもいつもより深かった。


 玄関で靴を履いた黒瀬は、ドアを開ける前に一度だけ振り返った。


「……今日のこと、忘れて」


「帰ってきたみたいってやつ?」


「それ含む」


「無理だろ」


「じゃあ半分だけ」


「どこを半分にするんだよ」


「知らない」


 そう言いながらも、少しだけ照れた顔で笑う。


 その笑い方を見た瞬間、湊はたぶん、もうかなり手遅れだと思った。


 彼女にとってここが“帰ってきたみたいな場所”なら、自分にとっても、彼女が来る夜はもうそれに近いものになりつつあるのかもしれない。

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