ep.24 白瀬栞は、黒瀬琉衣奈の“朝比奈くんにだけ違う声”を聞く
翌朝、朝比奈湊はいつも以上に学校へ行きたくなかった。
理由ははっきりしている。
昨夜、黒瀬琉衣奈は同じソファに座った。
しかも“たまたま”を装って、何度も膝の距離を詰めてきた。
そのたびに湊が固まるのを見て、面白がるみたいに笑っていた。
思い出しただけで心臓に悪い。
しかも最後には、「でも、またソファ座るじゃん」と言い切って帰っていった。あの自信に満ちた言い方を思い出すたびに、否定しきれない自分が情けなくなる。
「……だる」
家を出る前、小さく漏らした声は、たぶんかなり本音だった。
でも学校に行かないわけにはいかない。
制服に袖を通し、鞄を肩にかけ、いつも通りの道を歩く。空は晴れていて、昨日までの湿気も少し引いている。こんなに平和な朝なのに、自分の頭の中だけがまるで平和じゃない。
教室へ入ると、黒瀬はもう来ていた。
窓際の席で、友達二人とスマホを見ながら何か笑っている。茶髪はきれいに巻かれ、目元も学校仕様に作られている。ショートパンツも膝の距離も、夜の気配は一ミリもない。
これだから困る。
夜のことを引きずっている自分だけが馬鹿みたいに思えてくる。
それでも、目が合うかもしれないと思ってしまう時点で、もうだいぶ深い。
湊が自席に着くと、黒瀬は一度だけこちらを見た。
すぐ逸らした。
でも、その一瞬の視線のあとにわずかな含みがあると感じてしまうのは、昨夜の自分が完全に悪い。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声で現実に引き戻される。
白瀬栞が今日も変わらず立っていた。
メガネ、黒髪、きっちりした制服。私服姿の印象がまだ少し残っているせいで、教室で見る彼女が逆に不思議に見える。
「おはよう」
「眠そうですね」
「そんなにわかる?」
「今日はかなり」
栞は少しだけ首をかしげる。
「昨日、夜更かしですか?」
「まあ……そんな感じ」
正直に答えると、栞はそれ以上追及しなかった。
ただ、机の端へプリントを置きながら、さらりと言う。
「最近、朝比奈くん、夜のほうが忙しそうですね」
「……それ、冗談になってないんだけど」
「冗談のつもりはないです」
怖い。
やっぱりこの子はかなり見えている。
「英語の提出、今日でしたよね」
話題が切り替わる。助かったような、そうでもないような気持ちになりながら、湊は鞄の中を確認した。
「あ、やば。危なかった」
「やっぱり忘れかけてましたね」
「最近そういうの多いな」
「増えました」
即答だった。
「前よりぼんやりする回数が多いです」
「やめてくれ、具体的すぎて刺さる」
「ふふ」
小さく笑う。
その時だった。
窓際のほうから、少しだけ強い視線を感じた。
見なくてもわかる。
でも見ないわけにもいかなくて、湊はちらりとそちらを向いた。
黒瀬がこちらを見ている。
いや、“こちら”ではなく、もっと限定的だ。
湊と、栞の間を見ている。
目が合った瞬間、黒瀬は「何」とも言わずにスマホへ視線を戻した。
けれど、さっきのは明らかに見ていた。
そして、見ていたことをたぶん栞も知っている。
一限が始まる前、栞は前の席に軽く腰かけた。
最近これがもう、かなり自然になっている。
「古典、少しだけ確認します?」
「助かる」
栞がノートを開く。湊はその横から覗き込み、助詞の用法だの敬語の指す先だのを一緒に確認した。
静かなやり取りだ。
近い。
でも近すぎない。
だからこそ、第三者から見ると逆にじわじわ効くのかもしれない。
「……朝比奈くん」
ふいに栞が小さく言った。
「ん?」
「黒瀬さん、今、こっち見てました」
あまりにそのまま言うから、湊は一瞬止まった。
「見てたな」
「はい」
「やっぱりわかる?」
「見ようとして見てる感じだったので」
言い方が冷静すぎる。
「白瀬さん、そういうのほんと拾うよな」
「たまたまです」
「その“たまたま”は信用できない」
「では、少し意識して見てました」
あっさり認められて、逆に困る。
チャイムが鳴り、一限が始まる。教師の声が教室に広がっても、湊の意識の半分くらいは別のところに残っていた。
栞が見ている。
黒瀬も見ている。
自分はその両方を気にしている。
面倒くさい。
そして、その面倒くささを、たぶん周囲はもう少しずつ感じ始めている。
二限の休み時間。
湊が後ろのロッカーで教科書を入れ替えていると、黒瀬が近くを通った。友達はいない。一人だ。
すれ違いざま、ほんの小さな声が落ちる。
「……それ、今日もやんの」
「え?」
「前の席、座るやつ」
すぐに歩き去ろうとする背中に、湊は思わず言い返した。
「白瀬さんが来るかは俺が決めることじゃないだろ」
「ふーん」
黒瀬は立ち止まりもせず、ただそれだけ返した。
その“ふーん”の声色が、他の誰かに向けるものより明らかに低くて、柔らかかった。
――今の、かなり違ったな。
そう思った瞬間、すぐ近くで別の気配が動いた。
振り向くと、そこに栞がいた。
教科書を抱えたまま、少しだけ目を見開いている。
たぶん、今のやり取りを聞いたのだ。
しかも内容よりも、声の温度を。
「……何?」
湊が聞くと、栞はすぐにいつもの顔へ戻った。
「いえ」
そう言ってから、小さく続ける。
「今の黒瀬さん、少し違いましたね」
やっぱり、そこだ。
「何が」
「声です」
栞ははっきり言う。
「他の男子に話す時より、少しだけ柔らかかったです」
そこまで聞いているのか、と湊は軽く頭を抱えたくなった。
「気のせいじゃなくて?」
「たぶん違います」
「たぶん、なんだ」
「断言すると、今度は朝比奈くんが逃げそうなので」
その言い方に、湊は思わず苦笑する。
よくわかっている。
たしかに、そうやって真正面から言われると、つい否定したくなる。
でも今のは、たぶん栞の言う通りだった。
黒瀬の“ふーん”は、他の誰かに向けるトゲの強いそれとは違った。低く、少しだけ感情が近い。夜の部屋で聞く声に、ほんの少しだけ近かった。
「……最近、黒瀬さん」
栞が静かに言う。
「朝比奈くんにだけ、返し方が違う時ありますよね」
逃げ場のない言葉だった。
否定できない。
いや、否定しようと思えばできるのかもしれない。でも、自分自身がもうかなりその違いに気づいているから、苦しい。
「そういうふうに見える?」
「はい」
栞は頷いた。
「冷たい時もあるんですけど、無関心じゃないんです」
その言い方がやけに正確で、湊は少しだけ目を伏せた。
冷たいけど、無関心じゃない。
それが今の昼の黒瀬をいちばんうまく表している気がする。
「……困るな」
ぽつりと漏れる。
栞はすぐには何も言わなかった。
数秒してから、小さく言う。
「困ってる顔、してます」
「してる?」
「かなり」
「やめてくれ、今日はずっと刺さる」
「すみません」
そう言いながらも、栞の声はやわらかい。
責めていない。
ただ、見えていることを静かに伝えているだけ。
昼休みになると、いつものように栞が前の席へ来た。
だが今日は、湊のほうが少しだけ落ち着かなかった。さっきのやり取りを思い出してしまうからだ。
「朝比奈くん」
「ん?」
「私、少し安心しました」
「何が」
「自分の気のせいじゃなかったので」
そこまで言ってから、栞は小さく笑った。
「でも、たぶん朝比奈くんのほうがもっと大変ですね」
「まあ……」
「黒瀬さん、学校の中だと余計にわかりにくいですし」
「わかりにくいな」
「でも、ゼロではないです」
それは、少し救いになる言葉でもあった。
昼の教室の中で何もないように見える時間が長いぶん、ゼロではないと誰かに言ってもらえるだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
「白瀬さん、ほんとすごいな」
「何がですか」
「見えてるもの全部拾ってる感じ」
「全部ではないです」
栞は首を横に振る。
「ただ、たぶん朝比奈くんよりは少し外から見えてるだけです」
その通りだろう。
自分は渦中にいる。だから余計にわからなくなる。
栞は少し外側にいる。だから見える。
そして、その外側の視点が今、かなり信頼できることもわかってしまっている。
放課後、教室の空気が少しずつ薄くなる頃。
黒瀬が先に帰り支度を終えた。友達と一緒に教室の出口へ向かう。途中、一瞬だけ振り返った。
湊と、目が合う。
その瞬間だけ、昼の顔の輪郭が少し崩れた気がした。
何も言わない。
でも、何かだけは残していく視線。
そして、そのやり取りを、今たぶん栞も見ている。
秘密の輪郭は、少しずつ教室の空気へ滲み始めていた。




