ep.22 図書室のメガネっ娘は、私服だと少しだけ反則
休日の昼下がり、朝比奈湊は駅前の大型書店にいた。
目的は二つある。
一つは、学校のレポート用にもう少し参考になりそうな文庫を探すこと。
もう一つは、図書室で白瀬栞に勧められた本の続きが思ったより面白くて、つい同じ棚を見たくなったこと。
後者は少しだけ悔しい。
あまりにも白瀬栞の“おすすめ精度”が高かったからだ。
あの地味で真面目なメガネっ娘は、教室では目立たないくせに、人の好みを拾う時だけ妙に鋭い。静かな話が好きそう、なんて言われた時は、見抜かれたようで少し居心地が悪かった。
でも実際、かなり当たっていた。
そうなると、もう一冊くらい彼女の勘に乗ってみてもいいか、という気になる。
我ながら現金だと思う。
文庫コーナーをゆっくり見て回り、何冊か手に取っては戻し、背表紙を眺めていた時だった。
「……朝比奈くん?」
不意に名前を呼ばれて、湊は顔を上げた。
一瞬、誰かわからなかった。
そこにいたのは、見覚えのある顔立ちなのに、教室で見る印象とまるで違う女の子だったからだ。
黒髪は下ろされていて、いつもより少しやわらかく波打っている。メガネはかけていない。代わりに透明感のある目元がそのまま見えていた。白いブラウスに薄いカーディガン、膝丈のスカートという私服は地味ではあるのに、整いすぎた輪郭のせいでむしろ目を引く。
そして、その子は困ったように少し笑った。
「やっぱり気づかれませんでしたね」
「……白瀬さん?」
「はい」
そう言って、小さく会釈する。
白瀬栞だった。
いや、正確には“白瀬栞のはずなのに、教室の白瀬栞ではない誰か”みたいな感じだった。
「……え」
我ながら間抜けな声が出た。
栞はその反応に少しだけ目を細める。
「そんなに違いますか?」
「いや……違うっていうか」
言葉を探す。
違う。
かなり違う。
でも顔立ちは同じだ。
なのに、メガネがなくて髪型が少し違うだけで、ここまで印象が変わるのか。
「……わかんなかった」
正直にそう言うと、栞は苦笑した。
「やっぱり」
「ごめん」
「いえ、よくあります」
その“よくあります”が、妙にしっくりきた。
教室の中では、栞は意識して“目立たない自分”を選んでいるのかもしれない。前髪、メガネ、控えめな表情、静かな立ち方。そういうもの全部で、本人の持つ派手さを薄めているのだろう。
でも今日は違う。
私服で、コンタクトか、あるいは伊達メガネを外しているだけなのか、とにかく顔の印象がそのまま出ている。
それがかなり反則だった。
「朝比奈くんこそ、珍しいですね」
栞が言う。
「休日にこういうところ来るんですね」
「それは白瀬さんもだろ」
「私は本当に来ますよ。ここ」
「いや、似合うけど」
口に出したあと、少しだけ早かったかなと思う。
だが栞は変に照れたりはしなかった。ただ、ほんの少しだけ頬をゆるめた。
「ありがとうございます」
「いや、なんか……」
湊は視線を少しだけ逸らした。
「学校と違いすぎて、ちょっとびっくりした」
「メガネがないからですか?」
「それもあるし、髪も」
「今日はたまたまです」
「その“たまたま”、信用ならないな」
「どういう意味ですか」
少しだけ楽しそうに聞かれる。
栞はこういう時、押しつけがましくないのに逃がしてくれない。
「いや、普段かなり隠してるだろ」
そう言うと、栞は目を丸くした。
「隠してる、ですか」
「意図的じゃないなら、逆にすごいと思う」
「……少しは、意図的かもしれません」
やっぱりか。
湊は心の中で納得する。
目立ちたくない。静かなほうが楽。そう言っていたことがあった。だったら、教室でのあの“地味で真面目なメガネっ娘”は、本人が選んだ形なのだろう。
「面倒なんです」
栞は本棚の背表紙を指先でなぞりながら言う。
「少し目立つだけで、勝手に見られ方が変わるので」
「それは、まあ……わかる気がする」
「朝比奈くんは、あまりそういうの好きじゃなさそうですし」
「うん。得意じゃない」
「私もです」
その会話は静かで、でも前より少しだけ親密だった。
学校の教室じゃないからかもしれない。周囲に同級生がいないからかもしれない。あるいは、栞の私服と“本来の顔”がそうさせるのか。
とにかく、今の白瀬栞は少し近い。
そしてその近さは、教室で前の席に座ってくる時のそれより、少しだけ危ない種類のものだった。
「何探してたんですか?」
栞が聞く。
「レポートの参考になりそうなの」
「では、こっちも見ますか」
そう言って、自然な動作で隣の棚へ誘導される。
歩く距離が近い。
肩が触れるほどではない。
でも、並んで歩く休日の書店は、教室の前後の席よりずっと距離感が曖昧だった。
「これとかどうですか」
栞が一冊を差し出す。
「あと、こっちも朝比奈くん向きです」
「なんでそんなにわかるんだよ」
「最近、少しだけわかってきました」
それは、思っていた以上に重い言葉だった。
少しだけわかってきました。
静かな言い方なのに、きちんと近い。
湊は表紙を受け取りながら、なんとなく訊いてみた。
「白瀬さんって、休日はいつもこんな感じなの?」
「こんな感じ、って」
「メガネなくて、髪おろしてて……その」
「学校っぽくないですか?」
「かなり」
そう答えると、栞は小さく笑った。
「じゃあ、今日は少しだけレアです」
「……それ、だいぶ強いな」
「何がですか」
「レアな白瀬さん」
また思ったよりそのままの言葉が出た。
だが栞は困ったように微笑んだだけで、嫌がる様子はない。
「朝比奈くん、休日だと少し素直ですね」
「白瀬さんに言われたくない」
「私はいつも通りです」
「そうか?」
「少なくとも、学校よりは少し話しやすいです」
その返しに、湊は少しだけ息を詰めた。
話しやすい。
それはたぶん、相手が誰でも言うことじゃない。
栞はそこまで深く考えずに言っているのか、それとも静かに距離を詰めているのか。最近は、その判断がつきにくくなってきていた。
書店を一周して、結局二冊買うことになった。
レジを出たところで、栞が言う。
「せっかくなので、少しだけ駅前を歩きますか?」
断る理由が見つからなかった。
駅前の通りは休日らしく人が多い。カフェの前には列ができていて、雑貨屋からは若い女子たちの笑い声が聞こえる。
そんな中を栞と並んで歩く。
学校では気づかなかったが、私服の栞はかなり目を引く。派手ではないのに、むしろ静かな綺麗さが逆に浮く感じだ。通りすがりに視線を向ける人がいるのも、不思議ではなかった。
「やっぱり、目立ってる気がする」
湊がぽつりと言うと、栞は少しだけ苦笑した。
「だから学校ではあの感じなんです」
「徹底してるな」
「楽なので」
その“楽”は、たぶん本音なのだろう。
けれど今は、そんな栞が自分の隣を歩いている。しかも休日の私服で。教室の前の席に座っている時より、ずっと現実味が薄い。
別れ際、栞は手提げ袋を持ち直しながら言った。
「今日は秘密にしてくださいね」
「え?」
「この格好で会ったこと」
「なんで」
「教室で変に見られるの、あまり好きじゃないので」
「……わかった」
その頼み方が少しだけ特別に聞こえた。
秘密にしてください。
その言い方が。
湊は軽く頷き、栞は安心したように微笑む。
「ありがとうございます」
そう言って、彼女は駅の反対側へ歩いていった。
その背中を見送りながら、湊は少しだけぼんやりしていた。
白瀬栞は、思っていた以上に反則だった。
静かで、やわらかくて、地味で真面目な顔をしながら、その実かなり整っていて、しかも距離の詰め方がうまい。
これは、黒瀬が警戒するのも少しわかる気がする。
――その夜。
案の定、黒瀬は来た。
インターホンの音に、湊はもう驚かない。ただ少しだけ苦笑して、玄関へ向かう。
ドアを開けると、黒瀬は一目でわかるくらい機嫌が悪かった。
「……何」
思わずそう言うと、黒瀬はじとっとした目を向けてくる。
「別に」
「その顔で別にって言われても」
「見てないけど、見えたし」
来た。
この言い方の時はほぼ確定だ。
「何が」
「……駅前」
「ああ」
そこで察する。
今日は休日だった。駅前の書店へ行った。栞と会って、一緒に少し歩いた。
そしてたぶん、そのどこかを黒瀬に見られた。
「白瀬さんと会った」
「名前で呼ぶんだ」
「いや、そこ?」
「そこも」
ソファに座るなり、黒瀬はクッションを抱えた。
明らかに不機嫌だ。
「……楽しそうだったじゃん」
ぽつりと落ちる。
それはかなりわかりやすい一言だった。
「本屋で偶然会っただけだよ」
「ふーん」
「ほんとに」
「私服だったし」
「……見てたんじゃん」
「見てないし。たまたま見えただけ」
もうその“たまたま”に誰も騙されないと思う。
湊はキッチンに立ちながら、内心で少しだけ頭を抱えた。
やっぱり、私服の栞はかなりインパクトがあった。
黒瀬から見ればなおさらだろう。教室では地味で真面目なメガネっ娘が、休日にメガネもなく、髪を下ろして、普通にかなり綺麗だったのだから。
「……で?」
湊がカフェラテを作りながら聞く。
「で、って」
「何がそんなに気に入らないんだよ」
「気に入らないとかじゃないし」
「でも、機嫌悪いだろ」
「悪くないし」
「今日のはかなりわかりやすい」
黒瀬はクッションに顔を少し埋めた。
その姿勢の時点で、もうだいぶ拗ねている。
「……だって」
「うん」
「思ってたより、反則だったし」
「何が」
「あのメガネ」
やっぱりそこはメガネ呼びなのか。
「私服だと普通に綺麗じゃん」
「まあ……うん」
「しかも朝比奈、普通に隣歩いてたし」
「歩いてたけど」
「楽しそうだった」
「それは……」
否定しにくい。
栞と歩く時間は、たしかに穏やかで話しやすかった。変に気を張らなくていい。そういう意味では、楽しそうに見えていたのかもしれない。
「……別に、嫌とかじゃないし」
黒瀬が小さく言う。
「でもなんか、むかついた」
今日の黒瀬はかなり正直だった。
むかついた。
その一言に、嫉妬とか危機感とか、いろんなものがそのまま混ざっている。
湊はカップを持って戻りながら、小さく息をついた。
「はい」
「ん」
受け取り方も、どこかむくれている。
「そんなに反則だった?」
「……うん」
「黒瀬も十分反則だと思うけど」
「何が」
「夜の格好とか、昼との差とか」
それを言うと、黒瀬は一瞬だけ言葉を失った。
「……それは、朝比奈にだけだし」
やはり最後はそこへ戻る。
でも、私服の栞を見たあとだからか、その一言の重みは前よりずっと強かった。
朝比奈にだけ。
その限定感が、今夜はやけに胸に残った。
「ならいいだろ」
湊がそう言うと、黒瀬は少しだけ視線を上げた。
「何が」
「白瀬さんは、たしかに綺麗だったよ」
「……うん」
「でも、黒瀬は俺にだけそうなんだろ」
言い切ったあと、少しだけ部屋が静かになった。
黒瀬は完全に黙る。
それから、ほんの少しだけ耳を赤くして、クッションに顔を押しつけるみたいにした。
「……そういうこと、普通に言うのやめて」
「なんで」
「調子狂うし」
その声は、さっきまでの不機嫌よりずっとやわらかかった。
私服の栞は少しだけ反則だった。
でも、それを見たあとで夜にこうして拗ねている黒瀬のほうも、十分すぎるくらい反則だと、湊は思った。




