表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/164

ep.21 湊の部屋に、ギャルのハンドクリームが置き去りにされる

 物が残ると、気配まで残る。


 朝比奈湊は、その朝、机の端に置かれた小さなチューブを見て、そんなことを思った。


 白地に淡いピンクのロゴ。

 細身で、持ち歩き用らしいサイズ。

 キャップの角が少しだけ擦れていて、使い慣れているのがわかる。


 ハンドクリームだった。


 しかも、見覚えがある。


 昨日の夜、黒瀬琉衣奈がソファに座りながら、一度だけポーチをごそごそやっていた。たぶんその時に出したのだろう。乾燥するから、と何気なく指先に塗って、ふわりと甘い匂いがしたのを覚えている。


 そのまま机の端に置きっぱなしになり、本人は気づかず帰った。


「……またか」


 小さくつぶやく。


 ヘアピン。

 ヘアゴム。

 今度はハンドクリーム。


 どれも大したものではない。失くしたところで生活が止まるわけでもないし、黒瀬本人も「また落としてた?」くらいで済ませそうな物ばかりだ。


 でも、だからこそ妙に生々しい。


 その人の生活の“端っこ”みたいなものが、この部屋に残っていく。


 ヘアピンは髪を留めるもの。ヘアゴムは髪を結ぶもの。ハンドクリームは、乾燥した手に塗るもの。


 どれも外向きの顔ではなく、少し気を抜いた時間に使うものばかりだ。


 つまり、それがこの部屋に置き忘れられているということは、黒瀬がここでそれなりに気を抜いているということになる。


 ……そう考えると、ハンドクリームひとつなのに、やけに破壊力がある。


 湊はチューブを手に取った。


 軽い。

 ふたの部分がほんの少しだけあたたかかった気がしたのは、たぶん気のせいだ。


 そして、ふっと甘い匂いがした。


 強すぎない。けれどわかる。昨夜、黒瀬がソファで指先に塗っていた時と同じ香りだ。


「……やめろよ、ほんと」


 何をやめろなのか、自分でもよくわからない。


 匂いが残ることか。

 私物が増えることか。

 それをいちいち意識してしまう自分のほうか。


 いずれにせよ、朝からあまり心臓に良くない。


 机の上に戻そうとして、やめた。


 こういうものは、そのまま置いておくと逆に変に意識してしまう。視界に入るたび、昨夜の光景まで思い出してしまうからだ。


 かといって、なくしたらまずい。


 結局、湊はハンドクリームを筆箱のポケットへしまった。


 前にもこうしてヘアピンを入れて、学校では返せず、夜に返すことになった。


 たぶん今回も同じだろう。


 学校では返せない。


 あの教室の中で、黒瀬に「これ」と差し出す未来がどうしても想像できない。


 それは単に気まずいからではない。昼の彼女と夜の彼女の間に、まだはっきり線があるからだ。その線を、こういう小さな私物で越えるのが、妙に難しい。


 教室へ入ると、栞が先に気づいた。


「朝比奈くん、おはようございます」


「おはよう」


「今日は少し眠そうですね」


「そんなに?」


「少しだけ」


 白瀬栞は今日も静かだ。


 真面目そうなメガネっ娘の見た目も、穏やかな声も、控えめな立ち方も変わらない。けれどその目は相変わらずよく見ている。


「昨日、本読みました?」


「少しだけ」


「どうでしたか」


「静かなのに、なんか残る」


「それ、前も同じこと言ってました」


「じゃあたぶん、ほんとにそうなんだろ」


「そういうことですね」


 小さく笑う。


 会話の合間、湊は無意識に筆箱へ触れていたらしい。


 栞がそれを見て、すぐに気づく。


「また何か預かってる顔してます」


「え」


「違います?」


 朝からいきなり鋭い。


 湊は一瞬だけ言葉に詰まる。


「なんでそうなる」


「前にも似た顔してましたから」


 ヘアピンの時のことだろうか。


 あの時も、栞には何かしら見抜かれていた気がする。


「……白瀬さん、ほんとにこわい」


「今日は何割ですか」


「八割くらい」


「じゃあだいぶ高評価ですね」


「そう受け取るのか」


 栞は楽しそうではない。ただ、静かに当然のことを言っている顔だ。


 それがまた強い。


「もし返しづらいものなら、夜のほうが自然ですよ」


 さらっとそんなことを言う。


 湊は少しだけ眉をひそめた。


「なんで夜前提なんだよ」


「前にもそうだったので」


 淡々と返されて、何も言えなくなる。


 この子は本当に、見えているものだけを静かに積み上げていく。


 教室の中で、湊が最近変わったこと。黒瀬がそこに少し反応していること。湊が何かを隠している時の仕草。そういうものを、派手に暴かないまま、ちゃんと持っている。


 怖い。

 でも、ありがたい。

 今はその両方だ。


 席に着いてしばらくすると、黒瀬が入ってきた。


 学校用の顔。

 昼の黒瀬琉衣奈。


 けれど最近は、その“昼の顔”を見ても、まず先に昨夜の姿が浮かんでしまう。ソファの上で指先にハンドクリームを塗っていた、あの少しだけ気の抜けた横顔だ。


 黒瀬は席に向かう途中、一瞬だけ湊を見た。


 それだけで終わる。


 でも、その一瞬の視線のあとに、なんとなく“また夜で”みたいな空気が残るから困る。


 午前中は特に何も起きなかった。


 授業を受けて、ノートを取り、時々ぼんやりして、栞に「今たぶん聞いてませんでしたね」と小さく言われる。そのたびに苦笑してごまかす。


 昼休みには、前の席に栞が座ってきた。


「今日、購買混んでました?」


「いつも通り」


「パン残ってました?」


「焼きそばパンはもうなかった」


「やっぱり人気なんですね」


 そんな何気ない話をしていると、窓際から少しだけ強い視線が飛んできた気がした。


 見なくてもわかる。


 でも見ないままにもできなくて、湊は少しだけそちらへ視線を向けた。


 黒瀬が友達と話しながら、ほんの一瞬だけこっちを見ていた。


 すぐ逸らされる。

 でも、今のはたぶん見ていた。


「……黒瀬さん、今日は少し機嫌が忙しいですね」


 栞がぽつりと言った。


「忙しい?」


「見てる時と、見てないふりをしてる時の差が大きいです」


「それを言葉にするのか」


「見えてしまうので」


 静かに言って、栞はお弁当箱を閉じた。


「朝比奈くん」


「ん?」


「最近、前より帰るの急がなくなりました?」


「え?」


「少し前までは、放課後になると急いでいた日が多かったので」


 それも見ていたのか。


 湊は苦笑する。


「……そのへんも全部見えてるんだな」


「全部ではないです」


 栞は首を横に振った。


「でも、変化は見えます」


 その変化を、湊は自分でも少し自覚していた。


 黒瀬が“今日も来るかもしれない”とわかってくると、前ほど焦って帰らなくなったのだ。来るか来ないかを気にしつつも、もう少し自然に夜を待てるようになってきた。


 それは慣れであり、たぶん依存に近い何かでもある。


 夕方、家に帰ると、やはり筆箱の中のハンドクリームが気になった。


 夜に返すことになるだろう。

 そう思うだけで、なぜか少しだけ落ち着かなくなる。


 ハンドクリームなんて、別に特別でも何でもない。けれど、その甘い匂いと、昨夜の黒瀬の指先の動きが、勝手に記憶と結びついてしまっている。


 夕飯を軽く済ませ、部屋を片づける。


 冷蔵庫の中には、今日もプリンがある。


 ……本当に何をやっているんだろうな、と湊は思った。


 でももう、それを完全にやめる理由もない。


 九時過ぎ。


 予想通り、インターホンが鳴った。


 モニターには黒瀬。


 今日は少しだけ眠そうだが、不機嫌ではない。ラフな部屋着っぽい私服に、薄いメイク。教室では絶対に見ないほうの彼女だ。


 ドアを開ける。


「……遅」


「今日は早い」


「気分の問題」


「そのへんもうテンプレだな」


「うるさい」


 軽くやり取りしながら、黒瀬は部屋へ上がる。


 そしてソファへ座るより先に、湊の机の上をちらりと見た。


「……あれ」


 ない、とでも思ったのかもしれない。


 湊は少しだけ笑いながら、筆箱からハンドクリームを取り出した。


「これ」


 黒瀬が目を丸くする。


「あ」


「昨日、置いてった」


「……また?」


「また」


「うわ、まじか」


 黒瀬は少しだけ気まずそうに髪をかき上げた。


「最近、落としすぎじゃない?」


「朝比奈んちが落ち着くから悪い」


「俺のせいなのか」


「半分は」


「またその理屈」


 言いながらも、黒瀬はチューブを受け取った。


 その瞬間、ふわ、とまた同じ甘い香りがした。


 やばい、と思う。


 でも、やばいと思うほど意識している顔はしたくない。


「……ちゃんと持ってたんだ」


 黒瀬がぽつりと言う。


「なくしたら面倒だろ」


「面倒だけど」


「じゃあいいじゃん」


「……うん」


 その“うん”が妙に素直だった。


 黒瀬はチューブを指先でいじりながら、少しだけ机のほうを見る。


「なんか、最近ほんと、あたしのものここに残ってるね」


「そうだな」


「ヘアゴムも、前はピンもあったし」


「うん」


「……変な感じ」


 昨日と同じ言葉だった。


 でも今日は、少し意味が深い。


「嫌?」


 湊が聞くと、黒瀬は少しだけ眉を上げた。


「嫌だったら来てないし」


「それもそうか」


「てか、ちゃんと保管しすぎ」


「だったら落とすなよ」


「朝比奈んちで気抜いてるから、しょうがないし」


 そう言って、黒瀬はいつものようにソファへ座る。


 そしてハンドクリームのキャップを開け、少しだけ手の甲に出した。


 昨夜と同じ甘い匂いが、今夜ははっきり部屋に広がった。


「……それ、結構匂い残るな」


 ぽろっと言うと、黒瀬が手を止める。


「やっぱ気づいてたんだ」


「いや、まあ」


「嫌?」


「嫌ではない」


 そう答えた瞬間、黒瀬の指がほんの少し止まった。


「……そう」


 それだけ。


 でも、その一言が妙にやわらかかった。


 手に塗り込む仕草は丁寧だった。指先、手の甲、手首の少し下まで。学校では見ない細かな所作だ。


 見すぎるなと思っても、視線が勝手に引っ張られる。


「……なに」


 やはりすぐに見つかる。


「いや、ちゃんと塗るんだなって」


「ハンドクリームなんだから当たり前じゃん」


「そりゃそうだけど」


「朝比奈って、たまに変なとこ見るよね」


「夜の黒瀬が変に無防備なんだよ」


 言ったあとで、少しだけ空気が止まる。


 黒瀬は数秒、こちらを見ていた。


 それから、少しだけ目を細める。


「……それ、あんたにだけだし」


 またその言葉。


 でも今夜は、ハンドクリームの甘い匂いが混じっているぶん、いつも以上に破壊力があった。


 湊は軽く息を吐いて、キッチンへ逃げるように向かった。


「カフェラテでいい?」


「うん」


 最近、黒瀬の“うん”が増えている気がする。前ならもっと「別に」「それでいいし」「なんでも」といった言い方でぼかしていた。


 少しずつ、夜の部屋では素直になる。


 その変化が嬉しいのに、そのぶん学校での距離が際立つから厄介だった。


 カフェラテを戻すと、黒瀬はソファに深く座り、手の甲を少しだけ嗅ぐみたいにしていた。


「……何してんの」


「匂い残るかなって」


「自分で塗ったのに?」


「だって、朝比奈気づいてたし」


「まあ、甘いしな」


「この匂い、そんな強い?」


「強すぎはしないけど、近いとわかる」


 そう言うと、黒瀬は少しだけ黙った。


「……じゃあ、ここ来たらたぶん、毎回わかるんだ」


「たぶん」


「ふーん」


 その“ふーん”は、拗ねてはいなかった。


 むしろ、少しだけ満足そうに聞こえた。


 そのことに気づいて、湊はまた少しだけ心臓のあたりが落ち着かなくなる。


 ハンドクリームひとつで、ここまで空気が変わるのか。


 いや、ハンドクリームだからこそかもしれない。


 小さな私物。

 そこに残る香り。

 この部屋に置き忘れられて、それを自分がちゃんと保管していたこと。


 どれも、かなり生活の近いところの話だ。


「……次、またなんか落としてたら」


 黒瀬がぽつりと言う。


「ちゃんと取っといて」


「最近そればっかだな」


「だって、なくすとだるいし」


「なら落とすなよ」


「そこは、朝比奈んちで気抜いてるからしょうがない」


 またそれだ。


 でも、その“気抜いてる”の重みは前より少しずつ増していた。


 この部屋はもう、黒瀬にとって単に“来る場所”ではない。少しずつ、素の部分を置いていく場所になりつつある。


 そのことに、湊ももう気づいている。


 気づいているからこそ、小さなハンドクリームひとつでも、かなり効いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ