ep.21 湊の部屋に、ギャルのハンドクリームが置き去りにされる
物が残ると、気配まで残る。
朝比奈湊は、その朝、机の端に置かれた小さなチューブを見て、そんなことを思った。
白地に淡いピンクのロゴ。
細身で、持ち歩き用らしいサイズ。
キャップの角が少しだけ擦れていて、使い慣れているのがわかる。
ハンドクリームだった。
しかも、見覚えがある。
昨日の夜、黒瀬琉衣奈がソファに座りながら、一度だけポーチをごそごそやっていた。たぶんその時に出したのだろう。乾燥するから、と何気なく指先に塗って、ふわりと甘い匂いがしたのを覚えている。
そのまま机の端に置きっぱなしになり、本人は気づかず帰った。
「……またか」
小さくつぶやく。
ヘアピン。
ヘアゴム。
今度はハンドクリーム。
どれも大したものではない。失くしたところで生活が止まるわけでもないし、黒瀬本人も「また落としてた?」くらいで済ませそうな物ばかりだ。
でも、だからこそ妙に生々しい。
その人の生活の“端っこ”みたいなものが、この部屋に残っていく。
ヘアピンは髪を留めるもの。ヘアゴムは髪を結ぶもの。ハンドクリームは、乾燥した手に塗るもの。
どれも外向きの顔ではなく、少し気を抜いた時間に使うものばかりだ。
つまり、それがこの部屋に置き忘れられているということは、黒瀬がここでそれなりに気を抜いているということになる。
……そう考えると、ハンドクリームひとつなのに、やけに破壊力がある。
湊はチューブを手に取った。
軽い。
ふたの部分がほんの少しだけあたたかかった気がしたのは、たぶん気のせいだ。
そして、ふっと甘い匂いがした。
強すぎない。けれどわかる。昨夜、黒瀬がソファで指先に塗っていた時と同じ香りだ。
「……やめろよ、ほんと」
何をやめろなのか、自分でもよくわからない。
匂いが残ることか。
私物が増えることか。
それをいちいち意識してしまう自分のほうか。
いずれにせよ、朝からあまり心臓に良くない。
机の上に戻そうとして、やめた。
こういうものは、そのまま置いておくと逆に変に意識してしまう。視界に入るたび、昨夜の光景まで思い出してしまうからだ。
かといって、なくしたらまずい。
結局、湊はハンドクリームを筆箱のポケットへしまった。
前にもこうしてヘアピンを入れて、学校では返せず、夜に返すことになった。
たぶん今回も同じだろう。
学校では返せない。
あの教室の中で、黒瀬に「これ」と差し出す未来がどうしても想像できない。
それは単に気まずいからではない。昼の彼女と夜の彼女の間に、まだはっきり線があるからだ。その線を、こういう小さな私物で越えるのが、妙に難しい。
教室へ入ると、栞が先に気づいた。
「朝比奈くん、おはようございます」
「おはよう」
「今日は少し眠そうですね」
「そんなに?」
「少しだけ」
白瀬栞は今日も静かだ。
真面目そうなメガネっ娘の見た目も、穏やかな声も、控えめな立ち方も変わらない。けれどその目は相変わらずよく見ている。
「昨日、本読みました?」
「少しだけ」
「どうでしたか」
「静かなのに、なんか残る」
「それ、前も同じこと言ってました」
「じゃあたぶん、ほんとにそうなんだろ」
「そういうことですね」
小さく笑う。
会話の合間、湊は無意識に筆箱へ触れていたらしい。
栞がそれを見て、すぐに気づく。
「また何か預かってる顔してます」
「え」
「違います?」
朝からいきなり鋭い。
湊は一瞬だけ言葉に詰まる。
「なんでそうなる」
「前にも似た顔してましたから」
ヘアピンの時のことだろうか。
あの時も、栞には何かしら見抜かれていた気がする。
「……白瀬さん、ほんとにこわい」
「今日は何割ですか」
「八割くらい」
「じゃあだいぶ高評価ですね」
「そう受け取るのか」
栞は楽しそうではない。ただ、静かに当然のことを言っている顔だ。
それがまた強い。
「もし返しづらいものなら、夜のほうが自然ですよ」
さらっとそんなことを言う。
湊は少しだけ眉をひそめた。
「なんで夜前提なんだよ」
「前にもそうだったので」
淡々と返されて、何も言えなくなる。
この子は本当に、見えているものだけを静かに積み上げていく。
教室の中で、湊が最近変わったこと。黒瀬がそこに少し反応していること。湊が何かを隠している時の仕草。そういうものを、派手に暴かないまま、ちゃんと持っている。
怖い。
でも、ありがたい。
今はその両方だ。
席に着いてしばらくすると、黒瀬が入ってきた。
学校用の顔。
昼の黒瀬琉衣奈。
けれど最近は、その“昼の顔”を見ても、まず先に昨夜の姿が浮かんでしまう。ソファの上で指先にハンドクリームを塗っていた、あの少しだけ気の抜けた横顔だ。
黒瀬は席に向かう途中、一瞬だけ湊を見た。
それだけで終わる。
でも、その一瞬の視線のあとに、なんとなく“また夜で”みたいな空気が残るから困る。
午前中は特に何も起きなかった。
授業を受けて、ノートを取り、時々ぼんやりして、栞に「今たぶん聞いてませんでしたね」と小さく言われる。そのたびに苦笑してごまかす。
昼休みには、前の席に栞が座ってきた。
「今日、購買混んでました?」
「いつも通り」
「パン残ってました?」
「焼きそばパンはもうなかった」
「やっぱり人気なんですね」
そんな何気ない話をしていると、窓際から少しだけ強い視線が飛んできた気がした。
見なくてもわかる。
でも見ないままにもできなくて、湊は少しだけそちらへ視線を向けた。
黒瀬が友達と話しながら、ほんの一瞬だけこっちを見ていた。
すぐ逸らされる。
でも、今のはたぶん見ていた。
「……黒瀬さん、今日は少し機嫌が忙しいですね」
栞がぽつりと言った。
「忙しい?」
「見てる時と、見てないふりをしてる時の差が大きいです」
「それを言葉にするのか」
「見えてしまうので」
静かに言って、栞はお弁当箱を閉じた。
「朝比奈くん」
「ん?」
「最近、前より帰るの急がなくなりました?」
「え?」
「少し前までは、放課後になると急いでいた日が多かったので」
それも見ていたのか。
湊は苦笑する。
「……そのへんも全部見えてるんだな」
「全部ではないです」
栞は首を横に振った。
「でも、変化は見えます」
その変化を、湊は自分でも少し自覚していた。
黒瀬が“今日も来るかもしれない”とわかってくると、前ほど焦って帰らなくなったのだ。来るか来ないかを気にしつつも、もう少し自然に夜を待てるようになってきた。
それは慣れであり、たぶん依存に近い何かでもある。
夕方、家に帰ると、やはり筆箱の中のハンドクリームが気になった。
夜に返すことになるだろう。
そう思うだけで、なぜか少しだけ落ち着かなくなる。
ハンドクリームなんて、別に特別でも何でもない。けれど、その甘い匂いと、昨夜の黒瀬の指先の動きが、勝手に記憶と結びついてしまっている。
夕飯を軽く済ませ、部屋を片づける。
冷蔵庫の中には、今日もプリンがある。
……本当に何をやっているんだろうな、と湊は思った。
でももう、それを完全にやめる理由もない。
九時過ぎ。
予想通り、インターホンが鳴った。
モニターには黒瀬。
今日は少しだけ眠そうだが、不機嫌ではない。ラフな部屋着っぽい私服に、薄いメイク。教室では絶対に見ないほうの彼女だ。
ドアを開ける。
「……遅」
「今日は早い」
「気分の問題」
「そのへんもうテンプレだな」
「うるさい」
軽くやり取りしながら、黒瀬は部屋へ上がる。
そしてソファへ座るより先に、湊の机の上をちらりと見た。
「……あれ」
ない、とでも思ったのかもしれない。
湊は少しだけ笑いながら、筆箱からハンドクリームを取り出した。
「これ」
黒瀬が目を丸くする。
「あ」
「昨日、置いてった」
「……また?」
「また」
「うわ、まじか」
黒瀬は少しだけ気まずそうに髪をかき上げた。
「最近、落としすぎじゃない?」
「朝比奈んちが落ち着くから悪い」
「俺のせいなのか」
「半分は」
「またその理屈」
言いながらも、黒瀬はチューブを受け取った。
その瞬間、ふわ、とまた同じ甘い香りがした。
やばい、と思う。
でも、やばいと思うほど意識している顔はしたくない。
「……ちゃんと持ってたんだ」
黒瀬がぽつりと言う。
「なくしたら面倒だろ」
「面倒だけど」
「じゃあいいじゃん」
「……うん」
その“うん”が妙に素直だった。
黒瀬はチューブを指先でいじりながら、少しだけ机のほうを見る。
「なんか、最近ほんと、あたしのものここに残ってるね」
「そうだな」
「ヘアゴムも、前はピンもあったし」
「うん」
「……変な感じ」
昨日と同じ言葉だった。
でも今日は、少し意味が深い。
「嫌?」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ眉を上げた。
「嫌だったら来てないし」
「それもそうか」
「てか、ちゃんと保管しすぎ」
「だったら落とすなよ」
「朝比奈んちで気抜いてるから、しょうがないし」
そう言って、黒瀬はいつものようにソファへ座る。
そしてハンドクリームのキャップを開け、少しだけ手の甲に出した。
昨夜と同じ甘い匂いが、今夜ははっきり部屋に広がった。
「……それ、結構匂い残るな」
ぽろっと言うと、黒瀬が手を止める。
「やっぱ気づいてたんだ」
「いや、まあ」
「嫌?」
「嫌ではない」
そう答えた瞬間、黒瀬の指がほんの少し止まった。
「……そう」
それだけ。
でも、その一言が妙にやわらかかった。
手に塗り込む仕草は丁寧だった。指先、手の甲、手首の少し下まで。学校では見ない細かな所作だ。
見すぎるなと思っても、視線が勝手に引っ張られる。
「……なに」
やはりすぐに見つかる。
「いや、ちゃんと塗るんだなって」
「ハンドクリームなんだから当たり前じゃん」
「そりゃそうだけど」
「朝比奈って、たまに変なとこ見るよね」
「夜の黒瀬が変に無防備なんだよ」
言ったあとで、少しだけ空気が止まる。
黒瀬は数秒、こちらを見ていた。
それから、少しだけ目を細める。
「……それ、あんたにだけだし」
またその言葉。
でも今夜は、ハンドクリームの甘い匂いが混じっているぶん、いつも以上に破壊力があった。
湊は軽く息を吐いて、キッチンへ逃げるように向かった。
「カフェラテでいい?」
「うん」
最近、黒瀬の“うん”が増えている気がする。前ならもっと「別に」「それでいいし」「なんでも」といった言い方でぼかしていた。
少しずつ、夜の部屋では素直になる。
その変化が嬉しいのに、そのぶん学校での距離が際立つから厄介だった。
カフェラテを戻すと、黒瀬はソファに深く座り、手の甲を少しだけ嗅ぐみたいにしていた。
「……何してんの」
「匂い残るかなって」
「自分で塗ったのに?」
「だって、朝比奈気づいてたし」
「まあ、甘いしな」
「この匂い、そんな強い?」
「強すぎはしないけど、近いとわかる」
そう言うと、黒瀬は少しだけ黙った。
「……じゃあ、ここ来たらたぶん、毎回わかるんだ」
「たぶん」
「ふーん」
その“ふーん”は、拗ねてはいなかった。
むしろ、少しだけ満足そうに聞こえた。
そのことに気づいて、湊はまた少しだけ心臓のあたりが落ち着かなくなる。
ハンドクリームひとつで、ここまで空気が変わるのか。
いや、ハンドクリームだからこそかもしれない。
小さな私物。
そこに残る香り。
この部屋に置き忘れられて、それを自分がちゃんと保管していたこと。
どれも、かなり生活の近いところの話だ。
「……次、またなんか落としてたら」
黒瀬がぽつりと言う。
「ちゃんと取っといて」
「最近そればっかだな」
「だって、なくすとだるいし」
「なら落とすなよ」
「そこは、朝比奈んちで気抜いてるからしょうがない」
またそれだ。
でも、その“気抜いてる”の重みは前より少しずつ増していた。
この部屋はもう、黒瀬にとって単に“来る場所”ではない。少しずつ、素の部分を置いていく場所になりつつある。
そのことに、湊ももう気づいている。
気づいているからこそ、小さなハンドクリームひとつでも、かなり効いた。




