ep.18 ギャルは冷蔵庫を開ける距離になる
朝比奈湊は、その夜、インターホンが鳴るより先に予感していた。
理由はない。
いや、細かく言えばいくつかある。
昼間の黒瀬琉衣奈が、教室でいつもより少しだけ視線を逸らすのが遅かったこと。帰り際、廊下ですれ違った時に、何か言いたそうな顔だけして結局何も言わなかったこと。あと、昨日の「また」が、妙に自然だったこと。
どれも決定打ではない。
でも最近は、そういう小さなものが夜のインターホンにつながっていく。
だから、たぶん今日も来るだろうと思っていた。
思っていたからこそ、夕方スーパーに寄った時、プリンを一つ多めに買ってしまったし、冷蔵庫の中にカフェラテ用の牛乳があるかもちゃんと確認した。
「……もうだいぶだめだな」
キッチンで味噌汁を温めながら、湊は小さくつぶやいた。
でも、その“だめ”にそこまで本気で抵抗する気もない。嫌ならこんなふうに準備なんてしないだろうし、インターホンの音に一喜一憂するようなこともない。
八時半を少し過ぎたころ。
やっぱり、インターホンが鳴った。
湊は少しだけ笑ってから立ち上がる。
モニターの向こうには、やはり黒瀬がいた。
今日はラフな私服に薄手のカーディガン。髪は下ろしていて、メイクはかなり薄い。学校で見る派手なギャルの顔とは違う、夜の部屋用の黒瀬だ。
ドアを開けると、いつものように第一声が飛んでくる。
「……遅」
「今日は早かっただろ」
「気分の問題」
「それ、ほんと無敵だな」
「強いから」
「だから強くないって」
軽く言い合いながら、黒瀬は部屋へ上がった。
もう「入っていい?」も「邪魔するし」もない。ただ自然に靴を脱いで、自然に上がって、自然にリビングまで歩いていく。
そこまではいつも通りだった。
でも、そのあとが少し違った。
黒瀬はソファへ直行するかと思いきや、その手前でふいに立ち止まり、きょろ、と部屋を見回した。
「……なに」
湊が聞くと、黒瀬はごく当然みたいな顔で言った。
「冷たいの飲みたい」
「冷たいの?」
「うん。なんか今日ちょっと暑いし」
「冷蔵庫に麦茶あるけど」
「じゃあそれ」
「……持ってくるけど」
そう言った瞬間だった。
「いいし」
黒瀬は湊の横を通り抜けて、そのままキッチンへ向かった。
「え」
声が漏れる。
黒瀬は振り返りもせず、冷蔵庫の前で立ち止まり、当たり前みたいに扉へ手をかけた。
「ちょ、待て」
「なに」
「いや、そこ普通に開けるのか?」
「開けるけど」
「人んちなんだけど」
「知ってるし」
言うなり、冷蔵庫が開く。
冷気がふわっと流れ出る音がして、湊は思わずその場で固まった。
別に、駄目というわけではない。
見られて困るものが入っているわけでもない。せいぜい作り置きの副菜と飲み物と、豆腐と、ヨーグルトと、特売で買った肉くらいだ。
でも問題はそこじゃない。
冷蔵庫を開けるという行為そのものが、かなり生活圏に踏み込んでいる。
家に来て、ソファに座って、カフェラテを飲むのとはまた違う。もっと日常の内側に入ってくる感じだ。
黒瀬はそんな湊の心境なんてたぶん気にせず、中を覗き込んだ。
「麦茶どれ」
「……右のポット」
「これ?」
「それ」
取り出して、グラスまで勝手に探そうとする。
「いや、グラスは出す」
「そこまでしなくていいし」
「する。落とされたら困る」
「ひど」
言いながらも、黒瀬はポットを持ったまま待った。
湊はため息をつきつつ、棚からグラスを取り出す。麦茶を注ぐその距離が妙に近くて、なんだか変な感じがした。
「はい」
「ん」
一口飲んだ黒瀬が、小さく息を吐く。
「……生き返る」
「大げさだな」
「今日はほんと暑かったし」
そう言ってから、また冷蔵庫の中を見る。
「なに」
「いや」
「また勝手に見てる」
「別に減るもんじゃないし」
「視線では減らないけど落ち着かないんだよ」
「なんで」
「なんでって……」
言葉に詰まる。
なんで、と聞かれると難しい。冷蔵庫なんて、家の中でもかなり生活感が出る場所だ。そこを当然のように開けられるのが、予想よりずっと破壊力があるだけで。
「……朝比奈って、そういうとこ細かいよね」
「黒瀬が雑なんだよ」
「雑でいいし」
そう言いながら、黒瀬は冷蔵庫の中を指さした。
「これ、プリンじゃん」
「あ」
見つかった。
湊は一瞬だけ目を逸らしたが、遅かった。
「また買ってる」
「たまたま」
「絶対うそ」
「いや、たまたまだって」
「前もそう言ってたし」
黒瀬は明らかに楽しそうな顔になっている。
「てか、これあたし来ると思って買ったでしょ」
「……自分で食べるかもしれないだろ」
「“かもしれない”って時点で怪しいし」
図星だった。
湊が黙ると、黒瀬はふっと鼻で笑った。
「やっぱり」
「うるさいな」
「じゃあ食べる」
「勝手に決めるな」
「だって買ってあるし」
「それはそうだけど」
冷蔵庫の中を知ったうえで、さらにプリンまで見つけてしまった黒瀬は、もう完全に機嫌が上向いていた。
ソファへ戻る足取りも軽い。
グラスと一緒にプリンをテーブルへ置くと、黒瀬はすぐにフタへ手をかけた。
「スプーン」
「今出す」
「気が利く」
「誰のためだと思ってんだ」
「知らないし」
でも声は笑っている。
湊はキッチンでスプーンを取りながら、自分でも少し可笑しくなった。
冷蔵庫を勝手に開けられて、プリンを見つけられて、しかもそのことでこんなに部屋の空気がやわらかくなるなんて、少し前なら想像もしなかった。
戻ってきてスプーンを渡すと、黒瀬は「ありがと」と言った。
最近、夜のありがとう率が上がっている気がする。
「何」
「いや、ちゃんと礼言うなって」
「今さらそこ?」
「今さらだな」
「前から気分で言ってたし」
「言ってない日も多い」
「数えんな」
そう言いながらも、黒瀬はプリンをひと口食べた。
途端に表情がゆるむ。
「……うま」
「毎回それだな」
「うまいもんはうまいし」
スプーンを口に運ぶたび、機嫌が少しずつ良くなっていくのが見ていてわかる。甘いものに弱いというより、夜のこの部屋で食べる甘いものが好きなのかもしれないと、最近は思うようになっていた。
「てかさ」
プリンを食べながら、黒瀬が言う。
「朝比奈んちの冷蔵庫、思ったよりちゃんとしてる」
「思ったよりってなんだよ」
「男の一人暮らしっぽいの、もっと適当かと思ってた」
「偏見だろ」
「でも、作り置きあるじゃん」
「あるけど」
「あと、ヨーグルト、豆腐、野菜ジュース……なんか生活感ある」
「生活してるからな」
「それはそう」
そこで少し笑う。
そのあと黒瀬は、冷蔵庫の中身を思い出すように指を折り始めた。
「あと、プリン二個」
「そこ強調するな」
「大事だし」
「何が」
「いろいろ」
言い方がずるい。
いろいろ、の中身をはっきり言わないところが、いかにも黒瀬らしい。
でも、その“いろいろ”の中に、たぶん自分が来ることを見越してくれていた、みたいな感覚が混じっているのはわかった。
「今度から勝手に開けるのやめろよ」
湊が一応言うと、黒瀬はすぐ返してきた。
「やだ」
「即答か」
「だって便利じゃん」
「人んちなんだけど」
「朝比奈んちだし」
「意味わかんない理屈だな」
「わかんなくていいし」
そこで湊は少しだけ考えてから、あえて聞いた。
「じゃあ、黒瀬の中ではもう、勝手に冷蔵庫開けていい距離なんだ」
言った瞬間、黒瀬の手が少し止まった。
プリンのスプーンを持ったまま、こちらを見上げる。
「……なにそれ」
「いや、そのままの意味」
「言い方がなんかやだ」
「やなら否定すればいいだろ」
「……」
黒瀬は少しだけ黙って、それからぷいと顔を逸らした。
「否定しないんだ」
「……だって、今さらだし」
小さい声だった。
「今さら?」
「もう普通に来てるし。ソファ座るし。カフェラテ飲むし。プリンあるし」
「最後のは俺のせいなのか」
「半分は」
「その理論好きだな」
黒瀬はクッションを抱え直し、プリンをもうひと口食べた。
「てか、朝比奈も普通じゃん」
「何が」
「冷蔵庫開けても、本気で怒んないし」
「怒るほどじゃないけど……びっくりはする」
「じゃあ慣れて」
「それを言うのか」
「うん」
当たり前みたいな顔だった。
慣れて、という言葉の軽さに、逆に湊のほうが少しだけ戸惑う。
慣れてしまっていいのか。
たぶん、もうかなり慣れている。
でもそこを言葉にされると、いよいよ後戻りできなくなる感じがした。
「……なんか、ほんと普通になってきたな」
湊がぽつりと言うと、黒瀬は少しだけ首をかしげた。
「何が」
「来るのもそうだけど、こういうの全部」
「いや、まだ普通ではないし」
「どこが」
「だって、普通のクラスメイトの家の冷蔵庫とか開けないし」
「自覚はあるんだ」
「あるし」
その返しに、湊は思わず笑った。
自覚はある。
なのに開ける。
その距離感のバグ具合が、いかにも今の二人っぽかった。
プリンを食べ終えた黒瀬は、空の容器をテーブルへ置いて、麦茶をもうひと口飲んだ。
そのあと、何気ない顔で言う。
「……次から、勝手に開けるね」
「宣言すんな」
「だってもう開けたし」
「理屈が雑すぎる」
「でも朝比奈、止めないじゃん」
「止めたけど」
「本気じゃなかった」
そこは図星だった。
確かに、完全に拒否したいわけではない。むしろ、そこまで慣れた動きを見せられて、少しだけ嬉しかった自分までいる。
それを認めるのは悔しいが、否定もできない。
「……好きにしろ」
半分投げやりに言うと、黒瀬は少しだけ笑った。
「うん、そうする」
その返しが妙に自然で、湊はもう何も言えなくなった。
ギャルが冷蔵庫を開ける距離になる。
たったそれだけのことなのに、今夜の部屋は少しだけ違って見えた。
彼女が来る場所から、彼女が少しずつ馴染んでいく場所へ。
そこにある変化を、湊はまだうまく名前にできなかった。




