ep.19 白瀬栞は、朝比奈湊の変化に先に気づく
自分の変化というものは、だいたい自分より先に他人が気づく。
朝比奈湊は、その日の朝、そんなことをなんとなく思っていた。
昨夜、黒瀬琉衣奈は当たり前みたいに冷蔵庫を開けた。
プリンを見つけて、勝手に食べることまで決めた。
そして最後には、「次から勝手に開けるね」と、妙に当然みたいな顔で言って帰っていった。
あの場では軽口の延長みたいに返したが、あとになってじわじわ効いてくる。
それってかなり生活圏の内側じゃないか。
冷蔵庫を勝手に開ける距離って、普通のクラスメイトのそれではないだろう。
そう思う一方で、完全に嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ嬉しかった。
……その時点で、もうかなり重症だと思う。
そんな夜を引きずったまま学校へ来ると、教室の空気がいつもより少し明るく感じた。というより、自分の内側だけが妙に落ち着いていないせいで、周囲がやけにくっきり見えるのかもしれない。
朝の教室。
窓際には黒瀬琉衣奈がいる。今日も学校用にきっちり整えられたギャルの顔だ。茶髪、巻き髪、少し強めの目元、日焼けした肌。昨夜、冷蔵庫の前でプリンを物色していた同じ人間には見えない。
だが、湊の視線に気づいたのか、黒瀬はほんの一瞬だけ目を上げた。
そして、すぐ逸らした。
それだけ。
それだけなのに、“何もない他人”の視線ではなかったとわかってしまう。
自分でも面倒なところまで来ているな、と湊は思った。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声がして、湊は振り向く。
白瀬栞が今日もきちんとした姿で立っていた。メガネの奥の目は穏やかで、黒髪は乱れなく、制服の着こなしも隙がない。地味で真面目な優等生、という印象は変わらないのに、近くで話していると少しずつ違うものが見えてくる。
「おはよう」
「今日は少し早かったですね」
「そうだっけ」
「ええ。五分くらい」
「そんなに正確に見てるのか」
「たまたまです」
そう言って栞は控えめに笑う。
たまたま、と言うわりに、この子の“たまたま”はだいたい精度が高い。
「昨日の本、少し進みましたか」
「ああ、ちょっとだけ」
「どうでした?」
「静かなのに、なんか残る感じ」
「よかったです。朝比奈くん、ああいうの向いてると思ったので」
「向いてるって、読み物に向き不向きあるのか」
「ありますよ。ページをめくる速さとか、余韻の残し方とか」
その言い方が妙に文学的で、湊は少しだけ笑った。
「白瀬さんって、たまに言い回しきれいだよな」
「そうですか?」
「うん。なんか、そのまま本に書いてありそう」
「それは褒めすぎです」
栞はそう言いながらも、少しだけ嬉しそうだった。
こういうささやかな会話の積み重ねで、最近の学校生活の居心地は前より良くなっている気がする。少なくとも、栞と話している時は余計な力を使わなくて済む。
ただ――その“余計な力を使わなくて済む”状態を、たぶん最近は誰かが見ている。
あるいは、見られていることを自分が意識し始めている。
どちらなのかはよくわからない。
一限の前、栞は自然な流れで前の席へ座った。
「今日の小テスト、古典ですよね」
「うわ、忘れてた」
「その反応、昨日も見ました」
「デジャヴか」
「たぶん、朝比奈くんが毎日何か忘れてるだけです」
「それは否定できない」
ノートを開き、範囲の確認をする。栞は教えるのがうまい。要点だけ抜き出して、相手が焦らない速度で話す。だから気づけば、教室の中でもこうして隣みたいな距離で話している時間が増えていた。
そして、そのこと自体が“変化”なのだと、今日の湊はいつも以上に意識していた。
「……朝比奈くん」
栞がふと声を落とす。
「最近、帰るの早くないですか」
どきりとした。
「え?」
「前はもう少し教室に残っていた気がします」
「そうだっけ」
「そうです。最近は放課後になると少し急いでる日があります」
そこまで見ているのか。
いや、この子なら見ていても不思議ではない。
派手に探るわけじゃない。ただ静かに、変化だけを拾っていく。
「部活もしてないのに、最近ちょっとだけ急いでる人の動きなんです」
言葉が具体的すぎて、湊は返答に困った。
「……よく見てるな」
「見るの、嫌でした?」
「嫌っていうか、怖い」
「それは少し残念です」
そう言いながらも、栞は押しつけない。
ただ事実を置く。
最近、朝比奈湊は少し変わった。
そのことを自分は見ている。
たぶん、そういう意味だ。
「何か待ってるみたいな時、ありますよね」
さらに続く。
今度こそ、湊は本気で言葉を失った。
何か待ってる。
それはたぶん図星だった。
夜になると、無意識にインターホンの音を待っている。そういう自分が、学校でふとした瞬間にも出てしまっているのだろうか。
「……そんな顔してる?」
「時々」
栞はあっさり頷く。
「放課後とか、昼休みの終わりとか、たまに」
それは、自分で思っていた以上に重症らしい。
湊は苦笑した。
「自分じゃあんまりわからないな」
「たぶん、自分のことって見えにくいので」
栞はそこで一度だけ窓際のほうへ目を向けた。
その視線の先には、当然ながら黒瀬がいる。
友達と話しながらも、何かの拍子にこちらへ視線が寄ることがある。その小さな揺れを、栞はたぶん拾っている。
「……白瀬さん」
「はい」
「何か言いたそう」
そう言うと、栞は少しだけ目を細めた。
「言いたいというより、確認したいだけです」
「何を」
「朝比奈くんが最近、誰かのことで少し生活のリズムを変えてるのかなって」
ほぼ言い当てられていた。
誰かのことで、生活のリズムを変えている。
その表現がやけに正確で、湊は逆に笑いそうになる。
「白瀬さん、ほんと鋭いな」
「否定しないんですね」
「全部は」
「全部は、ということは少しは当たってますか」
柔らかいのに逃げ場がない。
この子は普段地味で静かだから忘れそうになるが、こういう時の会話運びはかなり強い。
「……まあ、少しは」
結局、それくらいしか言えなかった。
栞はそれ以上追及しなかった。
だが、その代わりみたいに小さく言った。
「朝比奈くん、最近少し楽しそうでもあります」
その一言に、湊は不意を突かれた。
「楽しそう?」
「はい。困ってる時もあるんですけど、前より少しだけ表情が動きます」
それはまったく考えていなかった角度だ。
面倒だとか、落ち着かないとか、そういう認識ばかりが先にあった。でも、その全部込みで、自分は今の変化をどこかで楽しんでもいるのかもしれない。
「……それ、あんまり認めたくないな」
「どうしてですか」
「なんか負けた感じする」
「誰にですか」
それには答えられなかった。
黒瀬に、なのか。
夜のインターホンに、なのか。
それとも、こんな関係に慣れていく自分自身に、なのか。
昼休み。
購買へ行こうとしたところで、湊は机の横に置いていたスマホを見た。特に通知が来ているわけではない。ただ、確認しただけだ。
その動きを、栞は見ていたらしい。
「やっぱり」
「何が」
「最近、スマホを見る回数も少し増えてます」
「……こわいなほんと」
「褒め言葉ですか?」
「今日は違う」
「残念です」
栞はそう言って、小さく笑った。
それから少しだけ声を落とす。
「でも、その人、たぶん朝比奈くんのことも見てますよ」
湊は足を止めた。
「……誰が」
聞かなくても、答えは半分わかっている。
栞はまっすぐに名前を出さず、視線だけで窓際を示した。
「最近、黒瀬さん、朝比奈くんにだけ少し反応の質が違います」
その言い方は、まるで研究結果の報告みたいに静かだった。
「冷たい時もありますけど、ちゃんと反応してるんです」
「……そうかも」
「他の男子には、もっと雑に流すことのほうが多いので」
それもまた、事実だった。
黒瀬は湊に冷たい。
でも、無関心ではない。
それはもう何度も感じてきたことだ。
ただ、その“冷たいけど無関心ではない”という違和感に、栞のような第三者が気づき始めているのだと思うと、秘密の輪郭が少しずつ薄くなっていく気がした。
「白瀬さんって、そういうの全部見えるのか」
「全部ではないです」
栞はすぐに首を振る。
「でも、見えてしまうものはあります」
「たとえば?」
「誰かが誰かを目で追う時とか」
静かな言い方だった。
けれど、その一言はかなり強かった。
誰かが誰かを目で追う時。
それはたぶん、今の湊にも当てはまるし、黒瀬にも当てはまる。
「……もし、迷惑なら」
栞が続ける。
「私はもう少し鈍いふりもできます」
昨日も聞いたその言葉。
けれど今日は少し意味が深くなって聞こえた。
見えている。
でも見逃してくれる。
その親切さが、ありがたいのに重い。
「いや」
湊は少しだけ考えてから言った。
「……見えてるのに見えてないふりされるのも、ちょっと緊張する」
正直な感想だった。
栞はきょとんとしたあと、ふっと笑う。
「それはたしかにそうですね」
「だろ」
「では、少しだけ見えてるままでいます」
「その調整できるのすごいな」
「努力します」
そんなふうに話していると、昼休み終了のチャイムが鳴った。
教室が少しずつ席へ戻っていく。
湊も椅子へ座り直しながら、窓際をちらりと見た。
黒瀬は友達と話していたが、ちょうどその時、視線だけがこちらへ向いた。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬を拾ってしまった自分の視線も、きっとまた誰かに見られている。
放課後。
帰り支度をしていると、栞が席の横へ来た。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日も急いで帰りますか」
「……どうだろ」
「少しだけ、そういう顔してます」
言われて、思わず笑った。
「ほんとよくわかるな」
「最近は特に」
栞はそう言って、少しだけ視線を和らげる。
「大丈夫ですよ。誰かを待ってる顔って、そんなに悪いものじゃないです」
その言葉は、思いがけずやさしかった。
誰かを待ってる顔。
たしかに最近、自分はそういう顔をしているのかもしれない。
夜のインターホンを。
冷蔵庫を勝手に開けるギャルを。
そして、その関係がまた少しだけ近づく瞬間を。
栞はもう、かなりのところまで気づいている。
でも、問い詰めない。
ただ隣にいて、静かに見ている。
その強さに、湊は少しだけ救われていた。




