ep.17 今日も来る、が当たり前になるのは少し怖い
夜のインターホンに、心が先に反応するようになったのはいつからだろう。
朝比奈湊は、その日もそんなことを考えていた。
放課後、家に戻ってからの流れは、もうだいぶ整っている。制服を脱いで、洗濯機を回して、夕飯の下ごしらえをして、冷蔵庫の中身を確認して、必要ならスーパーへ寄っておいた食材を小分けにする。課題は食後。風呂はそのあと。大体いつも同じだ。
変わったことがあるとすれば、その手順のどこかに、もう一人分の気配を織り込むようになったことくらいだ。
たとえば、カフェラテのスティックが残っているかを確認すること。
プリンや甘いヨーグルトを、なんとなく一つ多めに買っておくこと。
ソファのクッションを、無意識に一番抱えやすい位置へ戻してしまうこと。
どれも小さい。
小さいのに、それが積み重なると結構まずい。
「……普通に慣れてきてるな」
キッチンで味噌汁を温めながら、湊はひとりごちた。
慣れてはいけない気がしている。
別にルールがあるわけではない。黒瀬琉衣奈と「こうしよう」と決めたものなんて何もない。なのに、この夜の流れが当たり前になっていくのは、どこか危うい感じがした。
来るのが自然になるほど、来ない夜が気になる。
その状態は、たぶんあまり健全ではない。
そう思っているくせに、夜七時を回る頃には、湊の意識は何度か玄関のほうへ向いていた。
今日は来るだろうか。
昼の黒瀬は、特に何も言わなかった。教室でも廊下でも、相変わらず必要最低限の反応しかしなかったし、湊のほうも無理に話しかけなかった。
それでも、昼休みに一度だけ目が合った時、黒瀬は何か言いたげな顔をしていた。ほんの一瞬だったが、その一瞬のために今こうして落ち着かなくなっている自分がいる。
我ながらどうかしている。
八時過ぎ。
夕飯を食べ終えて、湊は流しを片づけた。今日は豚汁と、生姜焼きの残り、それに浅漬け。特別でも何でもない、普通の夜ごはんだ。
机に向かい、学校のワークを開く。英語の長文問題。三問目まで進めたところで、ピンポーン、と音が鳴った。
反射的に顔を上げる。
その反射が、もう駄目だ。
湊は数秒だけじっとしてから立ち上がった。すぐに飛びつくのは待っていたみたいで癪だから、というどうでもいい意地が働いたせいだが、結局足は早かった。
モニターを覗く。
黒瀬琉衣奈がいた。
今日は制服ではなく、ラフな私服だった。黒のショートパンツに、薄手の大きめパーカー。髪は下ろしたまま、メイクも薄い。学校で見る作り込んだギャル感はかなり弱く、部屋で過ごしていたところをそのまま出てきた感じに近い。
表情は――不機嫌ではない。
疲れているわけでも、拗ねているわけでもない。
ただ、普通だった。
それが最近ではいちばん珍しい気もする。
ドアを開けると、黒瀬は湊を見て、いつものように言った。
「……遅」
「毎回それ言うな」
「言うし」
「今日、二秒も待たせてないだろ」
「気分の問題」
「そのルール、ほんと便利だな」
「強いから」
「強くないって」
軽く言い合いながら、黒瀬は部屋へ上がる。
もうためらいがない。
玄関で一度止まって「入っていい?」みたいな空気を出していた頃が、少し前なのにだいぶ昔みたいだった。
ソファへ向かい、いつもの位置に座る。クッションを抱え、片足を軽く折り、ソファの背へもたれる。その一連の流れに迷いがない。
「なんか飲む?」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ考える素振りをしてから答えた。
「……カフェラテ」
「やっぱりそれか」
「朝比奈んち来ると、もうそれのイメージになってるし」
「勝手に人んちの定番みたいに言うなよ」
「だってそうじゃん」
そう言いながら、黒瀬は自然にリモコンへ手を伸ばした。
テレビはまだつけない。ただ、そこにリモコンがあることを知っていて、手の届く範囲に引き寄せる。その動きすらも、前よりずっと“慣れている”。
湊はキッチンへ立ち、お湯を沸かした。
背中越しに気配を感じる。黒瀬は今日はやけに静かだが、沈んでいるわけではなさそうだ。ただ、無理に何か話題を出そうとしないだけで、空気は落ち着いている。
それが妙に自然で、逆に少し怖かった。
最初の頃は、夜の時間はもっと“特別”だった。
ベランダのハプニング。服の貸し借り。寝落ち。雨。私物の忘れ物。そういう小さな事件が、いちいちこの関係を前へ進めていた。
でも最近は違う。
何も起きなくても来る。
特に理由がなくてもソファにいる。
言わなくてもカフェラテを作る。
事件ではなく、習慣になり始めている。
それはたぶん、かなり大きな変化だ。
「はい」
マグカップを差し出すと、黒瀬は「ん」と受け取った。
「ありがと」
最近は礼の打率も少し上がってきている気がする。気分次第ではあるが。
「今日は普通だな」
思わずそう言ってしまった。
黒瀬が眉を上げる。
「は?」
「いや、疲れてるとか拗ねてるとか、そういうのじゃなくて」
「なにそれ。あたし普段どんな感じだと思われてんの」
「最近の夜は、だいたいどっちかだろ」
「うざ」
言いながらも、本気で怒っているわけではない。
むしろ、少しだけ笑いそうになっている。
「で、今日は何」
湊が椅子へ座りながら聞く。
「何って」
「何か理由あるのかと思って」
「……なんで」
「最近、来る時けっこう理由つけるだろ。眠れないとか、家がうるさいとか、雨とか」
言いながら、自分で少しおかしくなる。
これではまるで、彼女が来ることを前提に理由の傾向まで分析しているみたいだ。
実際、ほぼそうなのだが。
黒瀬はカフェラテを一口飲み、それから肩をすくめた。
「今日は別に」
「別に?」
「うん」
「何もないのに来た?」
「何もないと来ちゃだめなわけ?」
その返しに、湊は少し言葉を失う。
たしかに、その通りだ。
来る理由が毎回明確でなければいけないわけじゃない。まして今さら、何かを言い訳にしないと来られない関係でもないのかもしれない。
「……いや、だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
「いいけど」
「なんか不満?」
「不満っていうか……」
うまく言葉にできない。
嬉しいのだ。たぶん。
でも、少し怖くもある。
何もないのに来る。
それが自然になる。
その自然さに慣れていく。
それって、かなりまずいんじゃないかと思う。
「何」
黒瀬がじっとこちらを見る。
学校での鋭い目ではない。夜の、少しだけ温度の低い、でも刺すためではない視線だ。
「……今日も来るんだなって思って」
結局、かなりそのままのことを言った。
黒瀬は数秒だけ黙る。
それから、意外なくらい素直に言った。
「来るし」
あっさりした一言。
でも、その一言の重さに、湊の胸が少しだけざわつく。
「言わなくても?」
「言わなくても」
「……そっか」
それだけ返して、湊はカフェラテを飲んだ。
あたたかい。甘い。最近この味が“夜に黒瀬がいる時の味”になってしまっているのが、なんだか悔しい。
しばらく、二人は何でもない話をした。
今日の英語の授業がだるかったこと。購買のパンがほとんど残っていなかったこと。白瀬栞がまた静かに鋭かったこと――そこは湊が口に出す前に、黒瀬が「今日はあのメガネ来なかったじゃん」と言い出して、少しだけ妙な空気になったが、それ以上は広がらなかった。
それも最近の夜っぽい。
小さな嫉妬や拗ねを完全に消すわけじゃない。けれど、毎回そこへ落ち切るわけでもない。
ただ、来て、飲んで、話して、いる。
そのこと自体に比重が移り始めていた。
「……なんかさ」
黒瀬がソファの背に頭を預けながら言う。
「前は、来る時もっと理由あった気する」
「ベランダ締め出しとか」
「それはもうレジェンド」
「本人が言うか」
「だってマジで最悪だったし」
少し笑う。
その笑い方が、完全に自然で、湊はほんの少しだけ見惚れそうになった。
「でも今は、なんとなく来るし」
黒瀬は続ける。
「なんとなく来て、なんとなく座って、なんとなくカフェラテ飲んでる」
「すごい曖昧だな」
「でもそうじゃん」
「……まあ」
否定できない。
「なんか、それ普通になってきたの、ちょっと変な感じ」
黒瀬はマグカップを両手で持ったまま、自分の膝のあたりを見ていた。
それはたぶん、湊がさっき感じていた“怖さ”に近いものだった。
習慣になることの心地よさと、そこで足元が崩れていく感じ。
きっと彼女も同じようなものを感じているのだろう。
「やめる?」
半分冗談で聞いてみる。
すると黒瀬は即答した。
「やめないし」
その速さに、湊は思わず笑う。
「速すぎだろ」
「だって、そこは別に迷ってないし」
「迷ってないんだ」
「……ない」
少しだけ視線を逸らす。照れているのがわかる。
でも否定はしない。
そのことが、今夜は妙に大きく感じられた。
「じゃあ、今日も来る、でいいんじゃないか」
湊がそう言うと、黒瀬は目を細める。
「なにそれ」
「いや、無理に理由つけなくてもいいなら、そういう日があっても」
「……朝比奈って、ほんとそういうこと普通に言うよね」
「だめか?」
「だめじゃないけど」
そこで、黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
「慣れすぎるのも、なんかやだ」
「そこはやなんだ」
「だって、当たり前みたいになると変じゃん」
「もうだいぶ当たり前寄りだけどな」
「……それを言うなって」
クッションを抱き直しながら、小さくむくれる。
その仕草すら、前より板についてきているのがなんとも言えない。
湊はカフェラテを飲みながら、ぼんやり思った。
今日も来る。
その前提が、自分の中で確実に根を下ろし始めている。
それは少し怖い。
怖いのに、嬉しい。
嬉しいのに、口に出すと全部崩れそうで、まだそこまでは言えない。
夜十時を回る頃には、もう完全に空気が馴染んでいた。
黒瀬はソファで足を少し崩して座り、湊は向かいの椅子で文庫本を開いている。たまに一言二言会話があって、それがなくても平気でいられる。
最初の頃なら考えられない。
事件がなくても成立する夜になったのだ。
それが一番大きい。
帰り際、黒瀬は玄関で靴を履きながら、少しだけ後ろを振り返った。
「……じゃあ、また」
今までは、そう言う時と、言わない時があった。
でも今夜のその“また”は、昨日までよりずっと軽くて、自然だった。
言わなくても来る。
でも、言ってもいい。
そんなくらいの距離感。
「うん」
湊も、自然に頷く。
「また」
それだけで足りる夜があることを、たぶん二人とも知ってしまった。
ドアが閉まったあと、湊はしばらく玄関に立ったままだった。
今日も来る、が当たり前になるのは少し怖い。
でも、それ以上に。
その当たり前を、もう自分は待ってしまっているのだと、今夜ははっきり自覚してしまった。




