ep.16 また来る、を言わなくても来る夜が始まる
白瀬栞に「もう少し鈍いふりもできます」と言われた日の夜、朝比奈湊は自分の部屋がいつもより少しだけ広く感じた。
広いはずがない。
間取りは昨日までと同じだし、置いてある家具も増えていない。ローテーブル、ソファ、机、本棚、キッチン。どこを見ても、いつもの自分の部屋そのものだ。
なのに、少しだけ空気が薄い。
たぶん理由は単純だった。
今日はまだ、黒瀬琉衣奈が来ていないからだ。
最近の夜には、いつの間にか彼女の気配が混じるようになっていた。インターホンの音、靴を脱ぐ気配、カフェラテの甘い匂い、ソファに沈む体重の音、クッションを抱え直す微かな衣擦れ。そういうものが、部屋の夜を少しずつ上書きしていた。
だから、何もない今夜が、少しだけ空白に見える。
それが嫌だとまでは思わない。
でも、落ち着かない。
「……末期だな」
独り言が漏れる。
何が末期かは考えないようにした。
机の上には学校から持ち帰ったワークが広がっている。英語の小テスト対策、現代文のレポートメモ、数学の宿題。どれもやらなければいけないものばかりだ。
だが、ページをめくっても頭に入らない。
今日の昼休みのことが、ずっと薄く引っかかっているからだ。
白瀬栞は、たぶんもう気づいている。
黒瀬の違和感に。
そして、湊の違和感にも。
それなのに、見えていないふりをしてくれると言った。追及もしない。面白がりもしない。ただ、必要なら鈍いふりもできると静かに言ってくれた。
ありがたい。
ありがたいのに、そのやさしさが逆に少し怖かった。
見えている人間に見逃されるというのは、見えていない人間よりもずっと重い。
そんなことを考えてしまう時点で、今日はかなり思考が後ろ向きなのだろう。
時間だけが少しずつ過ぎていく。
八時半を過ぎても、インターホンは鳴らなかった。
九時を回っても、まだだ。
今までなら、そろそろ来てもおかしくない時間だった。もちろん、毎晩来る約束があるわけではないし、連絡先もまだ知らないのだから、今日来ないこと自体は何も不自然ではない。
不自然ではないのに、こんなにも落ち着かないのはどうしてだろう。
カフェラテのスティックが引き出しに入っていることまで、なぜか今夜は気になった。使う相手がいなければ、ただの甘い飲み物の素でしかないのに。
九時半。
十時。
湊は一度、スマホを手に取った。
当然、連絡先はない。開く意味もないのに、何か通知でも来ていないかと確認してしまう自分がいる。
来るかも、とも言わなかった。
今日は行く、とも言わなかった。
そういう夜だってある。
そう思うのに、胸のあたりだけ妙にそわそわする。
十時二十分。
湊は観念して、先に風呂へ入ることにした。
どうせ今日は来ないのかもしれない。そう思ってしまったほうが楽だ。タオルと着替えを持って浴室へ入り、ぬるめのシャワーを浴びる。
頭を洗いながら、ふと昨日までのことを思い出す。
眠れない夜に来た黒瀬。
クッションに頬を押しつけたまま、「ここ来ると、なんか頭の中うるさいのがちょっと減る」と言った声。
それをただ受け取ることしかできなかった自分。
あの時は、また来ればいい、と軽く言えた。
言えたはずなのに、今はその“また”が来るかどうかでこんなに落ち着かない。
「……だめだろ、ほんと」
シャワーの下で小さく呟いた。
何がだめかは、もうだいたいわかっている。
風呂を上がった頃には十時四十分を過ぎていた。
髪を拭きながらリビングへ戻り、机の上のスマホを見ても、やはり何もない。
当然だ。連絡先を知らないのだから。
部屋着に着替え、ドライヤーを手に取ったところで、インターホンが鳴った。
ぴん、と背中が伸びる。
心臓の跳ね方が、自分でも笑えるくらい露骨だった。
ドライヤーを机に置き、少し早足で玄関へ向かう。モニターを覗いた瞬間、口の中で小さく息がこぼれた。
黒瀬だった。
ただ、いつもと少し違う顔をしていた。
不機嫌でも、拗ねても、だるそうでもない。
どこか迷っているような、でもここへ来ること自体はもう決めてきたような、そんな顔。
ドアを開ける。
黒瀬は今日もラフな私服だった。薄い色のトップスに、ショートパンツ、上から軽いカーディガン。髪は下ろしたまま。メイクはほとんどしていない。
それでも、最初の一言はやっぱり変わらなかった。
「……遅」
「来ないかと思ってた」
思ったより先に、そっちが口から出た。
黒瀬が目を丸くする。
「は?」
「あ」
しまった、と思う。
でももう遅い。
黒瀬は数秒だけ湊を見て、それから少しだけ唇の端を緩めた。
「……待ってたんだ」
「違う」
「今の間でバレるし」
「違わないとも言ってない」
「それ、ほぼ肯定じゃん」
言いながら、黒瀬は靴を脱いだ。
その動作には、前みたいな“入っていい?”のためらいがほとんどない。自然すぎて、玄関からリビングまでの流れがもうすっかり身体に馴染んでいるみたいだった。
湊はドアを閉める。
「今日は遅かったな」
「……ちょっとだけ、ちゃんと来たかったから」
ぽつり、と黒瀬が言った。
その一言は、思った以上に強かった。
来るかどうか迷っていた、ではない。
来ることは決まっていて、その上で“ちゃんと来たかった”。
つまり、今夜ここへ来ることには、黒瀬の中で少しだけ意味があったのだ。
「ちゃんとって?」
聞くと、黒瀬はすぐには答えなかった。
ソファの前まで歩いて、クッションを抱えたまま立ち止まる。それから、湊のほうを少しだけ振り返った。
「……なんか、今日、学校でいろいろあったし」
「いろいろ?」
「別に大事件とかじゃないし」
「うん」
「でも、あのメガネ……じゃなくて、白瀬」
名前を言い直したところが、妙におかしかった。
湊は笑いそうになるのをこらえる。
「栞がどうした」
「……朝比奈と話してる時、あたしのこと見てた」
それは、たぶん事実だ。
しかもかなり正確な事実でもある。
白瀬栞は、もう気づき始めている。違和感の形を。
「気づかれてると思う?」
湊が聞くと、黒瀬は少しだけ目を細めた。
「たぶん」
「俺もそう思う」
「朝比奈もか」
「うん」
そう答えたところで、黒瀬はクッションをぎゅっと抱え直した。
その仕草は少しだけ不安そうで、少しだけむくれて見える。昼の彼女なら絶対にしない動きだ。
「……で、それでちょっと、考えた」
「何を」
「ここ来るの、やめたほうがいいのかなとか」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、湊の胸にまっすぐ落ちた。
冗談じゃないとすぐにわかる。
来るの、やめたほうがいい。
きっと昼の教室で違和感が増えてきたことが、彼女なりに気になっていたのだろう。白瀬に見られたことも、たぶん小さく効いている。
夜だけの秘密を続けるなら、どこかで線を引かなきゃいけないのかもしれない。
それは理屈では正しい。
でも、その正しさが今はすごく嫌だった。
「……それで、遅かったのか」
湊がそう言うと、黒瀬は頷いた。
「うん。来ないほうがいいかなって、ちょっとだけ思ったし」
「ちょっとだけ?」
「……かなり」
「正直だな」
「今日だけ」
そこで、ほんの少しだけ目が合う。
学校の中じゃ作れない、夜だけの視線だった。
「でも」
黒瀬は続ける。
「考えてたら、なんか、ちゃんと来たいって思った」
「ちゃんと?」
「……帰る場所みたいにしたくはないし」
言葉を探しながら、少しずつ落としていく。
「でも、来ないって決めるのも違う気がして」
そこまで聞いて、湊はようやくわかった。
彼女は今日、“来る”ことを選び直してきたのだ。
今までは、なんとなく来ていた部分もあったかもしれない。家がうるさいとか、眠れないとか、だるいとか、いろんな理由に押されて、気づけばインターホンを鳴らしていた。
でも今夜は違う。
やめる選択肢も考えた上で、それでも来た。
それはたぶん、二人の夜にとってかなり大きな違いだった。
「……じゃあ、来てよかった」
気づけばそう言っていた。
黒瀬は少しだけ目を丸くし、それから力を抜くようにソファへ座った。
「そういうこと、さらっと言うのずるい」
「何が」
「朝比奈のそういうとこ」
でも、声はさっきまでよりやわらかい。
「なんか飲む?」
「カフェラテ」
「はいはい」
湊はキッチンへ向かった。
お湯を沸かして、二つのマグカップを出す。背中越しに感じる気配は、今夜いつもより静かで、それでいて不安定ではなかった。
何かを確かめ終えたあとの静けさだ。
カフェラテを持って戻ると、黒瀬はソファの上でクッションを抱えたまま、少しだけ遠くを見るような顔をしていた。
「はい」
「ありがと」
受け取る手つきも、声も、今日は最初から落ち着いている。
湊は向かいの椅子へ座る。
テレビはつけない。本も開かない。ただ、二人で同じ部屋にいる。
会話がなくても、今夜はそれが少しも変じゃなかった。
「……最近さ」
しばらくして、黒瀬が言う。
「“また来る”って、毎回言わなくなってたじゃん」
「そうだな」
「でも、今日みたいな日は、ちゃんと言ったほうがいいのかなって思った」
その言葉の意味を、湊はゆっくり受け取る。
今までは、“また来る”を言わなくても来られる関係になってきていた。
それは気楽で、自然で、たぶん心地よかった。
でも、そこに小さな迷いが生まれた夜には、改めて“来る”を選び直す必要がある。
今夜の黒瀬は、そのために遅くなったのだろう。
「じゃあ、改めて言っとく?」
湊が少しだけ笑って言うと、黒瀬はカップを持ったまま、小さく睨んだ。
「なにその言い方」
「いや、ちゃんと来たかったんだろ」
「……うん」
今回は否定しない。
それから黒瀬は、少しだけ声を落とした。
「また来る」
言葉は短い。
けれど今までのどの“また来る”よりも、重みがあった。
湊はそれを聞いて、自然に頷いた。
「待ってる」
今度は否定しなかった。
待っていたのは事実だったし、これからもたぶんそうなるのだろうと、もうわかっていたからだ。
黒瀬はその返事を聞いて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……それ、やっぱずるい」
「何回目だよ」
「知らないし」
でも、その“知らない”にはもう迷いがなかった。
その夜、二人は特に大きなことを話したわけではない。
カフェラテを飲んで、少しだけ学校の愚痴を言って、白瀬栞の話題はあえて深掘りしなかった。黙っている時間も長かった。けれど、その黙った時間ですら居心地が悪くない。
むしろ、今まででいちばん自然だったかもしれない。
来るかどうかを迷って、来ない選択肢まで考えた上で、それでも来た夜。
その意味はたぶん小さくない。
帰り際、玄関で黒瀬はいつものように靴を履いた。
ドアを開ける前に一度だけ振り返る。
「……今日、来てよかった」
「うん」
「朝比奈も、ちょっとだけは待ってていいし」
「ちょっとだけなのか」
「全部はだめ」
「なんで」
「知らない」
そう言って、黒瀬は少しだけ笑った。
学校ではたぶん絶対に見せない、やわらかい笑い方だった。
ドアが閉まり、静けさが戻る。
でも今夜の静けさは、前のような空白じゃない。
“また来る”を言わなくても来る夜が始まる。
その最初の輪郭を、今夜たしかに二人で確かめた気がした。




