ep.15 白瀬栞は、黒瀬琉衣奈の違和感に気づき始める
翌朝の教室は、いつも通りの顔をしていた。
朝比奈湊は最近、その“いつも通り”がいちばん信用できないと思っている。
机の並びも、黒板の汚れ方も、窓際に溜まる朝の光も、何ひとつ変わっていないように見える。けれどその中で、人の視線や間の取り方や、たった一言の温度だけが少しずつ変わっていく。
しかも、その変化はたいてい本人たちより周りのほうが早く気づく。
――たぶん、今日からはそういう段階に入る。
そんな予感があった。
昨夜の黒瀬琉衣奈は、かなり静かだった。
静かで、少しだけ本音を落としていった。
眠れない夜があること。家にいると頭の中がうるさくなること。ここへ来ると、それが少し減ること。
理由の全部は言わない。
でも、言わないまま置いていく言葉が増えてきた。
それはたぶん、二人の距離が変わってきたからだ。
そして、距離が変わると、周囲はそこに違和感を見つけ始める。
教室に入ると、黒瀬はもう来ていた。
窓際の席で、友達とスマホを見ている。茶髪は綺麗に巻かれ、目元はいつも通り強い。日焼けした肌も、短めのスカートも、きっちり作った“学校の黒瀬琉衣奈”だ。
夜の顔は、どこにもない。
でも、夜のことを知っている今の湊には、それが“ない”こと自体が前より少しだけ不自然に見えてしまう。
湊が席に着いた瞬間、黒瀬がほんの一度だけこちらを見た。
すぐ逸らした。
ただそれだけだ。
でも、その一瞬に“昨夜の続き”があるとわかってしまうくらいには、もう慣れている。
「朝比奈くん、おはようございます」
静かな声がして、湊は顔を上げた。
白瀬栞が、教科書を胸の前に抱えたまま立っている。今日も変わらない、地味で真面目なメガネっ娘の見た目。けれど近くで見ると、やはり普通に顔立ちが整っている。
「おはよう」
「昨日、借りた本どうでしたか」
「まだ最初のほうだけだけど、思ったより読みやすい」
「よかったです。あれ、静かな話ですけど、あとからじわじわ来るので」
「白瀬さん、ほんとああいうの好きだな」
「好きです。騒がしくないもののほうが落ち着くので」
その返しが、なぜだか少しだけ昨夜の黒瀬と重なった。
静かなほうが落ち着く。
同じ言葉でも、二人だと意味の温度が違う。
栞はすっと前の席に腰かけた。もうその動作が自然すぎて、湊もいちいち驚かなくなっている。
「今日の英語、当てられるかもしれませんよ」
「朝から嫌なこと言うな」
「でも朝比奈くん、最近わりとちゃんとやってますよね」
「最近っていうか、ちょっとだけ」
「そのちょっとが前より増えてます」
そこで栞は、何気ない口調のまま続けた。
「最近、何か変わりました?」
どきりとした。
顔には出さないようにしたつもりだったが、自信はない。
「なんで」
「前より、ぼんやりしてる時と、逆に変に集中してる時の差が大きいので」
「観察こわいな」
「褒め言葉ですか?」
「半分は」
「では半分だけ受け取ります」
栞は小さく笑う。
その笑い方は柔らかいのに、観察は鋭い。だからこそ、油断ならないとも思う。
しかも今日は、その視線の向きが少しだけ違った。
栞は会話の途中で、一度だけ窓際へ目をやった。
本当に一瞬だけだ。けれど、その視線の流れが不自然ではなかった。
黒瀬と、こちら。
その間にある空気のズレを、見ている。
たぶんそういうことだ。
「……何」
湊が小声で聞くと、栞は首をかしげた。
「え?」
「なんか今、見てた顔だった」
「そうですか?」
「そういうところあるよな、白瀬さん」
「人を見るのは嫌いじゃないです」
否定しない。
そこがまた少し怖い。
一限と二限の間の休み時間、栞はプリントを配るついでみたいな自然さで、また湊の近くへ来た。
「これ、先生が配ってた補足です」
「ありがと」
「朝比奈くん、昨日ちゃんと寝ました?」
さらっと聞かれる。
「え、なんで」
「少し眠そうなので」
「……まあ、ちょっと」
「珍しいですね」
栞はそこで、ほんの少しだけ間を空けた。
「黒瀬さんも、今日は少し眠そうです」
その一言に、湊の指先が止まる。
やっぱり見ている。
ただの観察として言っているのか、それとももっと別の意味を感じ取っているのか、そこはまだ読めない。
「……そうかもな」
曖昧に返すと、栞はそれ以上は踏み込まなかった。
でも、目の奥には小さな引っかかりが残っているように見えた。
昼休み。
湊は購買でパンと紙パックのコーヒーを買って戻ってきた。今日は少しだけ眠気が残っている。昨夜、黒瀬が帰ったあとも、しばらくぼんやりしてしまって、寝つくのが少し遅かったからだ。
席へ戻ると、栞が先に「ここ、いいですか」と前の席へ座った。
「最近そこ率高いな」
「落ち着くので」
「俺の前の席が?」
「朝比奈くんの前の席が、です」
言い方が絶妙だ。
そのやわらかさに、思わず笑う。
「それ、男子に勘違いされるやつだぞ」
「朝比奈くんは勘違いしますか?」
まっすぐ聞かれて、言葉に詰まる。
「……しない」
「なら大丈夫です」
「今のは逆に傷つくな」
「ふふ」
栞が笑った。
そのタイミングで、黒瀬の席のほうから椅子を引く音がした。
反射的にそちらを見る。
黒瀬が立ち上がっていた。友達と話しながらも、どこか微妙に落ち着かない。視線はこっちを見ないのに、こっちの会話が耳に入っていることだけはわかる。
「……最近、黒瀬さん、朝比奈くんにだけ少し違いますね」
栞が、ふいにそう言った。
パンの袋を開ける手が止まる。
「え?」
「いえ」
栞はすぐにいつもの顔へ戻った。
「たとえば、他の男子にはあんなに反応しないのに、朝比奈くんが話しかけるとちゃんと反応しますし」
「ちゃんと反応って」
「冷たくても、反応はします」
その分析が妙に冷静で、湊は頭を抱えたくなった。
たしかにそうだ。
黒瀬は誰にでも強気だが、湊に対しては“無視”で済ませない。冷たくても、ツンでも、何かしら返す。返してしまう。
それが、たぶん栞には違和感として映っている。
「……白瀬さん、そういうの見なくていいから」
「見えますよ、近いと」
「近い?」
「席も、距離も」
静かな声だった。
責めているわけでも、からかっているわけでもない。ただ、見えたものをそのまま置いていくような言い方。
湊は困ってコーヒーへ視線を落とした。
「何もないって言ったら?」
「そうかもしれません」
「……かもしれない、なんだ」
「でも、何かある人たちの間の空気にも少し似てます」
その言葉はかなり鋭かった。
しかも、栞はそれを武器として使わない。ただ淡々とした観察として言う。
だから逃げ場がない。
そこへ、さらに厄介なことが起きた。
窓際からこちらを見た黒瀬と、湊の目が合ったのだ。
ほんの一瞬。
けれど十分だった。
そしてたぶん、栞もその視線の交差を見た。
栞は何も言わない。ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
何かの輪郭を、ようやく掴みかけた人の顔だった。
午後の授業中、湊は妙に落ち着かなかった。
黒瀬に気づかれたこと。栞にもたぶん何かが見え始めていること。昼の教室で、夜の気配が完全には消しきれなくなってきていること。
全部まとめて、少しずつ“秘密”の輪郭を薄くしている気がした。
放課後、昇降口へ向かう途中で栞に呼び止められた。
「朝比奈くん」
「ん?」
「今日、何かありました?」
「何かって?」
「黒瀬さん」
名前を出された瞬間、心臓が少しだけ跳ねる。
栞は穏やかな顔を崩さないまま続けた。
「朝からずっと、朝比奈くんを見る時だけ少し違うので」
そこまで言うのか、と思った。
でも栞は責めない。追い詰めもしない。ただ確認したいだけの声だ。
「……気のせいかも」
苦しい言い訳だと自分でも思う。
栞は少しだけ微笑んだ。
「そうかもしれません」
否定しない。
けれど、その“そうかもしれません”は、たぶんもう半分くらいは答えを持っている人の顔だった。
「ただ」
「ただ?」
「もし朝比奈くんが困っているなら、私、もう少し鈍いふりもできます」
その一言に、湊は息を止めた。
やさしい。
そして、怖いくらい聡い。
見えているのに、見えていないふりができる。そう言ってくる。
栞はたぶん、ただの地味で真面目なメガネっ娘ではない。かなり強い人だ。
「……助かる」
それしか言えなかった。
栞はほんの少しだけ笑って、頷く。
「では、そうします」
静かにそう言って、先に階段を下りていく。
その背中を見送りながら、湊は思った。
白瀬栞は、もう気づき始めている。
黒瀬琉衣奈の違和感に。
そしてたぶん、自分の違和感にも。
それは面倒なことの始まりかもしれない。
でも同時に、この物語が一段階、前に進み始めた合図のようにも思えた。




