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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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ep.14 眠れない夜に来る理由を、ギャルはまだ言わない

 その夜のインターホンは、いつもより遅かった。


 朝比奈湊がそれに気づいたのは、時計の針が十一時を少し回ったあたりだった。普段ならもう風呂も済ませて、机の上の課題を一段落させて、あとは適当に動画でも流して寝る準備に入っている時間だ。


 けれどその日は、なぜかまだ起きていた。


 別に誰かを待っていたわけじゃない。


 ……と、自分では思いたかった。


 英語の長文問題を解きながら、たまにスマホで時間を確認していたのは、ただ集中が切れやすい日だったからだ。カフェラテ用のスティックが残っているかを夕方のうちに確認したのも、単に切らしていると困ると思っただけだ。


 そういうことにしておかないと、いろいろ辻褄が合わなくなる。


 部屋は静かだった。


 エアコンの風は弱め。机の横には読みかけの文庫本。シンクの中には洗い終えた食器が伏せてある。蛍光灯の白い光が部屋の中を均一に照らしていて、窓の外の夜はすっかり深く沈んでいた。


 問題集に目を落としながらも、湊は何度か無意識にインターホンのモニターのある玄関方向を見ていた。


 来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 最近の黒瀬琉衣奈は、その曖昧さごと部屋へ持ち込んでくる。


 ピンポーン。


 音が鳴った瞬間、湊は自分でも笑えるくらい早く顔を上げた。


「……来た」


 小さく呟いてから、はっとする。


 まるで待っていたみたいな言い方だ。


 いや、まあ、少しは待っていたのかもしれない。


 観念半分で立ち上がり、玄関へ向かう。モニターを覗くと、やはりそこに黒瀬がいた。


 ただし、いつもと少し違った。


 服装はラフな私服だ。薄いグレーのパーカーにショートパンツ。茶髪は下ろしたままで、メイクはかなり薄い。そこまではいつもと同じだ。


 でも表情が違う。


 強がっているくせに、どこか輪郭が曖昧で、張りつめているのに力が入っていない。疲れているというより、眠れていない顔だとすぐわかった。


 ドアを開ける。


 黒瀬は湊の顔を見るなり、いつものように言った。


「……遅」


 だが声は少しだけかすれていた。


「今日は三秒くらいだっただろ」


「気分の問題」


「毎回便利だな、そのルール」


「強いし」


「だから強くないって」


 言い返しながらも、湊は黒瀬の目元を見ていた。


 たぶん本人もそれに気づいたのだろう。少しだけ眉を寄せる。


「なに」


「いや……なんか今日、遅いなって」


「それだけ?」


「……あと、眠そう」


 その一言で、黒瀬のまぶたがわずかに揺れた。


「別に眠くないし」


「眠そうな顔してる」


「朝比奈、最近そういうの見るようになったよね」


「見えるんだからしょうがないだろ」


「うざ」


 小さく言いながら、黒瀬は部屋へ上がった。


 靴を脱ぐ動きすら、今日はいつもより静かだ。ソファまで歩く足取りも少し重い。いつもならクッションを取って、適当に文句を言って、カフェラテを要求して、という流れになるのに、今夜はとりあえず座り込むみたいに沈んだ。


 背もたれに寄りかかり、軽く目を閉じる。


「なんか飲む?」


 湊が聞くと、黒瀬は少しだけ間を置いてから答えた。


「……今日は、なんでもいい」


 その返しは珍しかった。


 カフェラテ一択のはずの黒瀬が、“なんでもいい”と言う時は、だいたい本当に余裕がない。


「じゃあ、あったかいの入れる」


「ん」


 キッチンへ向かいながら、湊は振り返る。


 黒瀬はソファに深く埋もれたまま、まだ目を閉じていた。眠いなら家で寝ればいいのに、と普通なら思う。だがこの一ヶ月で、それが簡単な話ではないとなんとなくわかるようになってしまった。


 お湯を沸かして、いつものカフェラテを作る。


 マグカップを手に戻ると、黒瀬は目を開けていた。ただ、視線はどこかぼんやりしている。


「はい」


「……ありがと」


 素直だ。


 やっぱり今日は、いつも以上に余裕がないらしい。


 一口飲んで、少しだけ肩の力が抜ける。


 それを確認してから、湊は正面の椅子へ座った。


 会話がない。


 でも、気まずくはない。


 テレビはつけていない。スマホの音も切ってある。部屋の中にはエアコンの音と、カップを置く小さな音だけがある。


 何も起きない。


 何も起きないこと自体が、今夜は妙に濃かった。


 黒瀬はマグカップを両手で包み、時々小さく息を吐くだけだ。


 普段なら湊のほうから軽口の一つでも投げるところだが、今日はそれをしないほうがいい気がした。


 しばらくして、黒瀬がぽつりと口を開く。


「……静か」


「うん」


「今日、なんか、ずっといろんな音してたから」


「家?」


 聞くと、黒瀬は一瞬だけ目を伏せた。


「……まあ」


 それ以上は言わない。


 でも、その“まあ”に全部入っているような気もした。


 家の中で人の話し声がするのか。テレビの音なのか。言い合いなのか。あるいは何も言葉にしない重い空気なのか。


 どれなのかはわからない。


 でも、そのどれでもおかしくはない顔をしていた。


「寝てないのか?」


 なるべく軽く聞く。


 黒瀬はマグカップの縁を見つめたまま、小さく肩をすくめた。


「……寝てないっていうか」


「うん」


「寝ようとしても、なんか無理な日あるじゃん」


「俺はあんまりないけど」


「いいな、それ」


「でも今日はあるのか」


「……ある」


 短い肯定。


 その一言は、今夜の黒瀬にしてはかなり素直だった。


 湊は少しだけ視線を落とす。


 眠れない夜に、どうして自分の部屋へ来るのか。


 それを聞きたくないわけじゃない。むしろかなり知りたい。


 でも、今それを聞けば、たぶん彼女は閉じる。


 問いただされる感じがした瞬間、黒瀬はまたツンを貼り直してしまうだろう。


 だから、今は聞かない。


 聞かない代わりに、湊はただそこにいることを選ぶ。


「今日、テレビつけないの?」


 黒瀬が言う。


「見たい?」


「別に……なくてもいい」


「じゃあつけない」


「うん」


 また静かになる。


 その沈黙の中で、黒瀬は少しずつ部屋の空気に馴染んでいった。


 最初に来た時は、こうして黙っているだけの時間なんてなかった気がする。何か言わなければ気まずくなると思っていたし、たぶん向こうもそうだった。


 でも今は違う。


 沈黙が沈黙のままでいられる。


 それは、かなり大きな変化なのかもしれない。


 黒瀬はソファの上で少しだけ体勢を変え、クッションを抱え直した。そのまま膝を寄せるようにして座る。学校の彼女なら絶対に見せない、無防備な姿勢だ。


「……朝比奈」


「ん?」


「なんで今日、何も聞かないの」


 予想外の質問だった。


「何を」


「いろいろ」


「いろいろって雑だな」


「家のこととか、なんで来たのとか、そういうの」


 黒瀬は真正面を見ない。カップの中身が減っていくのを眺めながら、独り言みたいに言う。


 湊は少し考えた。


「聞いてほしいなら聞くけど」


「……」


「でも、聞かれたくないなら、今はいいかなって」


 できるだけ飾らずに言う。


 黒瀬は少しだけ目を見開いた。


「なにそれ」


「なにって」


「優しすぎじゃない?」


「前も言ったな、それ」


「だってそうだし」


 そこで黒瀬は、今夜初めてほんの少しだけ笑った。


 笑ったというより、口元が緩んだ程度だ。


 それでも、さっきまでの張りつめた感じがわずかにほどけるのがわかった。


「……聞かれたくないわけじゃない」


 小さな声。


「でも、ちゃんと言葉にすると、なんか変になるし」


「じゃあ無理しなくていいだろ」


「それもなんかむかつく」


「なんで」


「朝比奈が正論っぽいこと言うと、たまにちょっと腹立つ」


「理不尽だな」


「理不尽でいいし」


 言いながらも、黒瀬の声はずいぶん柔らかくなっていた。


 湊は机の上の文庫本を手に取った。


「読む?」


「ん?」


「うるさくないように、黙って読む」


「なにそれ」


「なんか音あったほうが落ち着く時もあるだろ」


 黒瀬は少し考えてから、クッションに頬を乗せるようにしながら頷いた。


「……それなら、いい」


 だから湊は、文庫本を静かに開いた。


 文字を目で追いながらも、半分くらいは正直、内容が入っていない。視界の端では黒瀬がソファに沈んでいて、カフェラテを少しずつ飲んでいる。その気配を感じているだけで、こっちの神経もどこか薄く張ってしまう。


 でも悪くない。


 何も喋らないまま、同じ部屋にいて、片方が本を読み、片方が静かにしている。


 それだけの時間が、今はすごく自然だった。


 十分くらい経った頃だろうか。


 ページをめくる音の合間に、黒瀬の声がした。


「……前、言ったじゃん」


「ん?」


「ここ、静かでいいって」


「うん」


「前より、今のほうがそれ強い」


 本から目を上げる。


 黒瀬は相変わらず真正面を見ていない。クッションの端を指でいじりながら、ぽつりぽつりと言葉を落とす。


「最近、夜になると、家にいるのちょっとしんどい日あるし」


「……そっか」


「でもここ来ると、なんか、頭の中うるさいのがちょっと減る」


 その言い方は、説明しきれていない感じが逆に本音っぽかった。


 自分でもきっと、うまく整理できていないのだろう。


 眠れない。

 落ち着かない。

 家にいるのがしんどい。

 でも理由はまだ全部言葉にならない。


 だから今は、その断片だけを置いていく。


 それを拾うかどうかは、相手に任せる。


 湊は本を閉じた。


「じゃあ、ここ来ればいい」


 また同じようなことを言っている気がして、自分でも少し笑いそうになる。


「リセットしたい時とか、静かにしたい時とか」


 黒瀬はしばらく何も言わなかった。


 それから、ほんの少しだけ肩の力を抜く。


「……だからそういうの、優しいって言ってんじゃん」


「何回目だよ」


「知らない」


 そこでようやく、ちゃんとした小さな笑いが出た。


 ほんの一瞬だったけれど、その笑いが見られただけで、今夜はそれでいい気がした。


 時計を見ると、もうかなり遅い時間だった。


 それでも、黒瀬はすぐには立ち上がらない。


 湊も急かさない。


 今夜のこの空気は、たぶん“来た理由”を言葉にしなくても成立している。


 だからこそ、理由はまだ言わないままでいいのだろう。


 帰る前、玄関で靴を履きながら、黒瀬は小さく言った。


「……今日、ありがと」


「カフェラテ?」


「それも」


「それも、便利だな」


「うるさい」


 でも、そこにはもういつもの刺はない。


「朝比奈」


「ん?」


「今日みたいなの、またあるかも」


「眠れない夜?」


 聞くと、黒瀬は一瞬だけこちらを見た。


 すぐに目を逸らす。


「……知らないし」


「あるんだろ」


「あるかもしれないし」


「じゃあ来ればいい」


「簡単に言うなって」


「簡単じゃないけど、来ること自体は簡単だろ。隣なんだし」


「……そうだけど」


 そこで黒瀬は、少しだけ口元をやわらげた。


「そのへん、ほんとずるい」


「何が」


「朝比奈のそういうとこ」


 それだけ言って、彼女は廊下へ出る。


 ドアが閉まる前、茶髪がふわりと揺れた。


 部屋に残った静けさは、さっきまでのものと少し違っていた。


 誰かと共有したあとの静けさだ。


 眠れない夜に来る理由を、ギャルはまだ言わない。


 でも、言わなくても伝わることがある。


 そしてそれを受け取れるようになってしまった自分は、もう最初の頃みたいに「ただのクラスメイト」ではいられないのだろうと、湊はぼんやり思った。

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