ep.13 部屋に置かれたヘアゴムひとつで、関係は少し変わる
朝比奈湊は、朝の自分の部屋が少しずつ変わってきていることに気づいていた。
大きく何かが増えたわけじゃない。
家具の配置が変わったわけでもなければ、生活のリズムそのものが崩れたわけでもない。朝起きて、顔を洗って、トーストを焼いて、学校へ行く。その流れは以前と変わらない。
でも、部屋の中の空気が少しだけ違う。
一人で完結していたはずの空間に、もう一人分の気配がうっすら残るようになってきた。
ソファのクッションの置き方。ローテーブルの端に置いたままのマグカップの記憶。時々ふと残る甘い香り。テレビのリモコンの位置が、前より少しだけ真ん中寄りになっていたりすること。
そしてその朝、湊はそれをもっと明確な形で見つけた。
「……あ」
洗濯物を取り込んだあと、ソファの隙間に何か黒いものが落ちているのを見つけて、手を伸ばした。
細い黒のヘアゴムだった。
見覚えがある。というより、見覚えがありすぎる。
黒瀬琉衣奈の髪を結ぶ時によく使っているやつだ。学校では下ろしていることが多いが、体育の時や、たまに休み時間に暑そうに髪をまとめる時に使っている、あのシンプルな黒いヘアゴム。
昨日まで、このソファに黒瀬がいた。
クッションを抱えて、少しだけ拗ねたままカフェラテを飲んでいた。
その時にでも落ちたのだろう。
ただのヘアゴムだ。
ただの、よくある黒いヘアゴム。
なのに、指でつまみ上げた瞬間、妙に意識してしまう。
「……やめろよ、そういうの」
誰に言うでもなく呟く。
別に特別なものじゃない。忘れ物だ。それだけだ。
それなのに、こうして自分の部屋に彼女の私物が残っているというだけで、何かが少し変わってしまった気がする。
これは、一時的な避難所に来ただけの他人の痕跡ではない。
何度も来て、ソファに座って、くつろいで、気を抜いた結果として残ったものだ。
そこに妙な生々しさがあった。
湊はヘアゴムを机の上に置き、トーストを焼いた。
けれど焼けるまでの数分間、何度も視線がそちらへ向く。黒い輪っか一つで、こんなに落ち着かなくなるなんて我ながらどうかしている。
朝食を済ませても、結局そのままにはしておけなかった。
なくしそうな気がしたから、というのは半分言い訳で、半分本当だ。
湊はヘアゴムを筆箱の小物ポケットへ入れた。
前にも似たことがあった。ヘアピンを返そうとして、学校ではうまく渡せなくて、結局夜に返すことになった。
あの時より、たぶん今のほうが少しだけややこしい。
ややこしい理由は、自分の中にある。
黒瀬の部屋着姿だとか、拗ねた顔だとか、寝落ちした時の寝言だとか、そういうものをいくつも知ってしまった今、ただの落とし物として処理しきれないからだ。
学校で返せるだろうか。
返したいのは事実だ。返すべきだとも思う。
でも、あの教室の空気の中で、黒瀬にヘアゴムを差し出す自分を想像すると、妙に難しい。
隣の席に近づいて「これ」と言うだけで済む話のはずなのに。
それができないのは、今の二人に昼と夜の線引きがあるからだ。
学校では遠くて、夜だけ近い。
その線の上で、黒いヘアゴムひとつが、思っていた以上に扱いづらかった。
教室に入ると、黒瀬はまだ来ていなかった。
少しだけほっとした自分に気づいて、湊は苦笑する。何をほっとしているのか。来ていても来ていなくても、やることは同じはずなのに。
「朝比奈くん、おはようございます」
先に声をかけてきたのは白瀬栞だった。
「おはよう」
「今日は少し早いですね」
「まあ、なんとなく」
「なんとなく、ですか」
栞はそう言って微笑む。今日も変わらず、落ち着いていて、地味で、近くにいると妙に安心する。
最近、湊の中で栞の存在はかなり“学校側”に寄っていた。
夜のことを知らない、昼の空気の中で自然に話せる相手。
だからこそ、逆に少しだけ救われる時がある。
「何か忘れ物でもしました?」
栞がふいにそう聞いた。
「え?」
「さっきから何度か筆箱を触っていたので」
思わず手を止める。
そんなところまで見ているのか、と驚いた。
「……いや、まあ」
「ありましたね」
「なんで断定」
「顔で」
「最近それ多すぎない?」
「便利なので」
さらっと言う。
栞のこういうところは意外と強い。
「もし、渡しづらいものなら、放課後まで持っていたほうがいいかもしれませんよ」
その言葉に、湊は一瞬だけ息を止めた。
「……何も言ってないのに」
「言ってないですけど、なんとなくです」
またその“なんとなく”だ。
でも今回は少しだけ、見透かされた感じがあった。
「白瀬さんって、たまに怖いな」
「褒め言葉ですか?」
「半分は」
「では半分だけ受け取っておきます」
そう言ったところで、教室のドアが開いた。
黒瀬琉衣奈が入ってくる。
茶髪、巻き髪、作られた強気な顔。今日も学校の黒瀬だ。隣の女子と軽く会話しながら、自分の席へ向かう。
その途中で一瞬だけ、湊と目が合った。
すぐ逸らされる。
けれど完全に無視とも違う。
最近はその“完全に無視ではない”の温度を拾えるようになってしまったせいで、余計に面倒だった。
朝のホームルームまでの間、ヘアゴムのことが頭から離れない。
返すなら今か。いや、朝はやめたほうがいいか。休み時間? でも周囲がいる。昼休み? いや、それも目立つ。
筆箱の中にあると意識してしまうから、余計に落ち着かない。
一限の途中でさえ、ふとした拍子に思い出してしまうくらいには気になっていた。
休み時間。
黒瀬は友達と廊下へ出ていた。今なら机の上にそっと置いておく、という手もあるかと思ったが、それはそれで不自然すぎる。誰が置いたかわからなかったら余計に変な話になる。
結局何もできないまま時間だけが過ぎる。
情けないな、と自分でも思う。
たったヘアゴム一つ返せないなんて。
でも、たかがヘアゴムなのに、そう思えないのもまた事実だった。
昼休みになって、湊は購買で買ったパンを自席に持ち帰った。
今日は少し蒸し暑い。教室の窓は開いているが、風は弱い。
前の席が空いていたため、栞が今日も自然に座る。
「朝比奈くん、今日は焼きそばパンじゃないんですね」
「たまには変える」
「珍しい」
「そんなに固定されてた?」
「かなり」
そう言って笑う。
そのやり取りの最中、筆箱の中のヘアゴムが妙に気になった。
栞は気づいたのか、さりげなく声を落とす。
「まだ渡せてないんですね」
「……やっぱりわかる?」
「朝からずっとそわそわしているので」
「そんなにか」
「かなり」
今日二回目だな、それ、と思う。
「どうしても学校で渡したいんですか?」
栞が聞く。
「いや……」
考えてから答える。
「渡したいっていうか、持ってるのが落ち着かないだけ」
「大事なものですか?」
「たぶん、本人にとってはそうでもないと思う」
「でも朝比奈くんにとっては、少し大事に見える」
その言い方に、湊は言葉を失った。
図星すぎたからだ。
大事という言葉は少し違う気もする。でも、ただの落とし物以上に意識しているのは確かだった。
栞はそこを追及しない。ただ静かにパンの袋をたたみながら言った。
「そういうものって、夜に返すほうが自然な時もありますよ」
夜に返す。
その言い方をされた瞬間、湊の胸の奥が少しだけざわついた。
もちろん栞は何も知らないはずだ。けれど、知らないままに妙に核心へ近いことを言う。
「……白瀬さん、本当に怖い」
「また言いましたね」
「撤回しない」
「残念です」
そう言って栞は小さく笑った。
その時、窓際から「るいな、今日どっか寄る?」という声が聞こえた。
黒瀬の友達だ。
「今日はいい」
黒瀬が答える。
その返答が妙に速かった。
何気ない一言のはずなのに、湊は勝手にそこへ意味を見てしまう。
今日はいい。
つまり、夜はたぶん来る。
そう思ったところで、自分がもうだいぶ終わっている気がした。
放課後、帰宅してすぐ、湊は机の上にヘアゴムを出した。
やっぱり夜に返すことになるだろうと、もう半分確信している。
そう思うと、朝からの無駄なそわそわが少しだけ馬鹿らしくなる。結局、学校では返せないのだ。今の自分たちはそういう関係だし、それでたぶんいい。
夕方のうちに簡単な夜食を作り、カフェラテのストックも確認しておく。
そこまでやってから、「何やってんだろうな、俺」と天井を仰いだ。
準備が良すぎる。
でも、来た時に何もないのも嫌だった。
インターホンが鳴ったのは九時過ぎだった。
モニターにはやはり黒瀬が映っている。
今日は少しだけ疲れて見えたが、不機嫌ではない。どちらかといえば、普通だ。
それが逆に、昨夜より距離が近い気すらした。
ドアを開ける。
「……遅」
「またそれか」
「今日は二秒くらい待った」
「ほぼ誤差だろ」
「気分の話だし」
いつものやり取りをしながら、黒瀬は部屋へ入る。
ソファへ向かうその背中を見て、湊は少しだけ緊張した。
返すなら今か、もう少しあとか。
「なんか飲む?」
「カフェラテ」
「はいはい」
湊はお湯を沸かしながら、机の上に置いたままにしていたヘアゴムをちらりと見る。
黒瀬もそれに気づいたらしい。
「なにそれ」
「え?」
「机の上」
「ああ……」
ごまかす意味もない。
湊はヘアゴムをつまみ上げて、黒瀬のほうへ差し出した。
「昨日、ソファに落ちてた」
黒瀬はそれを見て、一瞬だけ目を丸くした。
「……あ」
「やっぱり黒瀬のだろ」
「うん」
受け取る指先が、ほんの少しだけためらう。
それから、黒瀬はヘアゴムを自分の掌に乗せたまま、小さく言った。
「……ありがと」
「今日はちゃんと言うな」
「なんでいちいち確認すんの」
「最近レアだから」
「うざ」
でも、声に棘はない。
むしろ少しだけ、嬉しそうに聞こえた。
黒瀬はヘアゴムを見つめながら、ぽつりと言う。
「なくしたと思ってた」
「大事なやつ?」
「そこまでじゃないけど」
「じゃあよかった」
「……でも、朝比奈んちに落ちてたの、なんか変な感じ」
その言い方が妙に引っかかった。
「変な感じ?」
「うん」
黒瀬はソファに座り、ヘアゴムを指に引っかけてくるくる回した。
「なんか、あたしの物がそこにあるの、ちょっと変」
変、と言いながら、嫌そうではない。
むしろ本人がその“変”の正体をまだうまく掴めていないみたいな言い方だった。
湊はお湯を注ぎながら、少しだけ笑う。
「俺も朝見つけた時、同じこと思った」
「朝まで置いてたの?」
「筆箱に入れてた」
「なんで」
「なくしそうだったから」
「……ふーん」
黒瀬が少しだけ目を細める。
「ちゃんと保管してたんだ」
「落としたらまずいだろ」
「まあ、それはそう」
そこで、黒瀬はヘアゴムを髪に当ててみるように持ち上げた。
家で来ているラフな格好のまま、茶髪を片手でまとめようとする仕草。その何気なさが、やけに目を引く。
「結ぶの?」
「ちょっと暑いし」
「……ああ」
慌てて視線を逸らす。
黒瀬はいつものように髪をまとめた。ポニーテールに近い、少し高めの位置。学校ではあまり見ない髪型だ。
「……なに」
すぐに気づかれる。
「いや、珍しいなって」
「こっちのが楽だし」
「似合ってる」
また思ったまま口に出ていた。
最近、夜の黒瀬相手だと余計な一言が増える気がする。気がするというか、確実に増えている。
黒瀬は少しだけ固まり、それから露骨に目を逸らした。
「……朝比奈って、たまにそういうの急に言うよね」
「だめだった?」
「だめじゃないけど」
「じゃあいいだろ」
「……調子狂う」
小さくそう言って、クッションを抱き直す。
ヘアゴムを結び直した黒瀬は、さっきまでより少しだけ幼く見えた。髪型一つで印象が変わるものなんだなと、今さらみたいに思う。
カフェラテを渡すと、黒瀬は「ん」と受け取った。
その時、いつもより距離が近かった。
ほんの少し指先が触れそうになって、どちらからともなくほんの少しだけ動きを止める。
それもまた、たかが一瞬だ。
でも今は、その一瞬が妙に長かった。
「……なんか、最近」
黒瀬がカフェラテを見ながら言う。
「ここ来るの、普通になってきた」
「お互いな」
「それ、なんかやだ」
「なんで」
「普通にされるのもムカつくし」
「めんどくさいな」
「朝比奈が言うな」
そう言いながらも、黒瀬の口元は少しだけ緩んでいる。
ヘアゴムを返しただけだ。
ただの忘れ物を渡しただけ。
なのに、そのことで部屋の空気がほんの少し変わった気がした。
黒瀬の私物がこの部屋に落ちていた。
湊はそれを朝まで持っていて、なくさないようにしまっていた。
そして今夜、彼女はそれを返してもらって髪を結んでいる。
その流れが、ただのクラスメイトより一歩だけ近い。
「……朝比奈」
「ん?」
「またなんか落としてたら、ちゃんと取っといて」
黒瀬はさらっと言った。
「それ、また来る前提?」
「……来るし」
「即答だな」
「うるさい」
けれど、その“来るし”の一言が、今夜は妙に胸に残った。
ヘアゴムひとつ。
ほんの小さな忘れ物。
でも、それをきっかけに、ここが少しだけ“自分の居場所”に近づいたと、黒瀬のほうも思っているのかもしれない。
そう考えると、何でもないはずの黒い輪っかが、やけに特別なものに思えてしまった。




