ep.161 白瀬の見せない一行も、まだ名前がない
翌朝、黒瀬琉衣奈は、教室に入ってすぐ白瀬栞のノートを見た。
正確には、見ようとしたわけではない。
ただ、白瀬の机の上にいつものノートが置かれていて、その端に昨日の消した跡がまだ残っていることを知っていたから、自然と視線が向いてしまった。
白瀬にも、まだ見せない一行がある。
湊の見せない二行とは別の、白瀬の一行。
昨日、白瀬は「消しません」と言った。
だから黒瀬は待つと決めた。
決めたのに、やっぱり気になる。
見せないものは、見せないとわかっていても気になる。
それは変わらない。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
白瀬は今日も、黒瀬が選んだヘアピンをつけていた。
黒瀬はそれを見て、少しだけ落ち着く。
白瀬も、いつものように少し微笑んだ。
「今日も確認ありがとうございます」
「確認って言うな」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
でも、黒瀬の視線はまた白瀬のノートへ行きかける。
白瀬はそれに気づいた。
「見せない一行のことですか」
「……白瀬も顔読むようになってない?」
「黒瀬さんが見ていたので」
「見てない」
「少しだけ」
「便利にするな」
黒瀬は顔を赤くして視線を逸らした。
それから、小さく聞く。
「消してない?」
白瀬は、前より少し自然に頷いた。
「消していません」
「ならいい」
「はい」
白瀬はそれだけ言って、ノートに手を置いた。
黒瀬は、その動作を見て少し安心した。
まだ見せない。
でも、そこにある。
それだけで、ちゃんと待つ形になる。
そこへ莉子がやってきた。
「おはよー。あ、今日も消してない確認?」
「莉子、耳」
「育ってます」
「育てるな」
莉子は普通ノートを机に置いた。
今日はツッコミ帳ではない。
黒瀬はそれを見て、また少しだけ安心する。
「るいな、今ツッコミ帳じゃなくて安心した」
「してない」
「してる」
「してない」
「顔」
「むかつく」
莉子は笑いながら、白瀬を見る。
「白瀬さんの見せない一行も、まだ名前なし?」
黒瀬がすぐに止める。
「莉子」
「いや、昨日の続き。名前つけないって話」
白瀬は少し考えるように、自分のノートへ視線を落とした。
「はい。まだ名前はありません」
「そっか」
「何の一行なのか、自分でもまだ決めきれていません」
その言葉に、黒瀬は少しだけ息を止めた。
湊も昨日、似たようなことを言っていた。
ただの記録なのか、気持ちなのか、約束なのか、怖さなのか、安心なのか。
まだ決めきれていない。
白瀬の一行にも、まだ名前がない。
「白瀬さんでも、決まらないことあるんだね」
莉子が言った。
白瀬は少しだけ笑う。
「あります」
「ちょっと意外」
「私も、全部きれいに決められるわけではありません」
黒瀬はその言葉を聞いて、白瀬のノートの消した跡を思い出した。
迷った線。
書き直した跡。
白瀬は整っている。
でも、迷わないわけではない。
そのことを知ってから、白瀬が少し近くなった気がする。
湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「朝比奈くん、おはよ。今日も名前なし案件です」
「案件にするな」
黒瀬が突っ込む。
湊は少しだけ状況を見て、白瀬のノートに視線を向けた。
「白瀬さんの一行?」
「はい」
白瀬は静かに頷いた。
湊は鞄を置いてから、いつものように黒瀬へ言った。
「俺の二行は、消してない。増えてない。名前もつけてない」
「報告が増えてる」
「必要かと」
「必要だけど」
黒瀬は顔を赤くして、目を逸らした。
すると湊は、白瀬にも同じように向き直った。
「白瀬さんの一行も、消してない?」
白瀬の表情が、ほんの少し揺れた。
黒瀬も莉子も、一瞬黙る。
その言葉は、黒瀬が湊にずっと言ってきたものだった。
消してない?
なかったことにしてない?
まだそこにある?
湊が、その言葉を白瀬にも向けた。
白瀬はノートに手を置いたまま、静かに答える。
「消していません」
「なら、いいと思う」
「はい」
白瀬は少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
莉子が普通ノートを開く。
「これは書いていい?」
白瀬は少し迷って、頷いた。
「はい。存在だけなら」
「了解」
莉子は丁寧に書いた。
――白瀬さんの見せない一行も、まだ名前がない。でも消してない。
黒瀬はそれを見て、小さく頷いた。
「それは、いい」
「るいな承認」
「承認って言うな」
「でも嬉しい」
「受け取るな」
「受け取る」
白瀬は、その一行を見て静かに微笑んだ。
昼休み。
四人はいつものように机を寄せた。
莉子は「ただいま机」と言いかけて、黒瀬に睨まれる前に自分で口を押さえた。
「言ってない」
「言いかけた」
「でも止めた」
「それはえらい」
「るいなが褒めた」
「言うな」
机が寄る。
名前のない場所。
でも、四人にはもうわかる場所。
白瀬のノートは、今日は少しだけ黒瀬の近くに置かれていた。
中身は見えない。
見せない一行は、まだ見せないまま。
けれど、その存在が机の上にある。
「見せないものが増えた話、昨日したじゃん」
莉子がパンを開けながら言った。
「うん」
湊が返す。
「白瀬さんの一行も、朝比奈くんの二行も、名前なしで保留中」
「保留中って言うな」
黒瀬が言う。
「でも保留じゃん」
「そうだけど」
「るいなの一行も、まだ莉子には見せてないんでしょ?」
黒瀬は固まった。
莉子が目を細める。
「あるんでしょ?」
「……ある」
「おお」
「でも、今は見せない」
「うん。無理に見ない」
莉子が普通に言ったので、黒瀬は少し拍子抜けした。
「莉子が聞かない」
「私も成長してるから」
「自分で言うな」
莉子は笑ったが、ちゃんと深追いしなかった。
そのかわり、白瀬が静かに言った。
「見せない一行があると、見せられる一行も少し大事に選ぶようになる気がします」
「白瀬」
黒瀬が見る。
「はい」
「今日も強い」
「すみません」
「謝るの早い」
湊が少し考えてから頷く。
「わかる。見せない二行があるから、見せてもいい一行を雑に書けないところがある」
「朝比奈も?」
「うん」
「……そっか」
黒瀬は焼きそばパンの袋を折った。
湊の見せてもいい一行。
最近いくつも増えた。
でも、あれは見せない二行と切り離されたものではない。
まだ見せられないものがあるから、見せられるものが慎重に選ばれている。
白瀬も、同じなのかもしれない。
白瀬は自分のノートを開き、見せない一行とは別の余白に新しく書いた。
そして、少しだけ黒瀬たちへ向ける。
――消していない、と言えるだけで、少し安心することがある。
黒瀬は、その一行を読んで黙った。
莉子も静かになる。
湊も、じっとその文字を見る。
「白瀬」
黒瀬が小さく言う。
「はい」
「それ、見せてもいい一行?」
「はい」
「消さないで」
「消しません」
黒瀬は頷いた。
その一行は、白瀬自身の言葉だった。
見せない一行を持っている白瀬が、今見せてもいいと選んだ一行。
だから、重い。
けれど、やさしい。
莉子が普通ノートに書く。
――消してない、と言えるだけで安心することがある。四人共通語になりつつある。
黒瀬が横から見て、すぐに言った。
「共通語にするな」
「だってなってきてるじゃん」
「なってない」
「なってる。朝比奈くんも白瀬さんに言ったし、るいなも言うし、私も聞いたし」
「……そうだけど」
「ほら」
「むかつく」
莉子は笑った。
湊は保留ノートを開いた。
黒瀬の視線が自然に向く。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書いて、四人の真ん中に置いた。
――消してない確認が、少しずつ四人の言葉になっている。
黒瀬は、それを読んで顔を赤くした。
「朝比奈まで共通語にする」
「そう見えたから」
「見えすぎ」
「黒瀬もよく言うだろ」
「言うけど」
「最初に言ったの、黒瀬だし」
黒瀬は固まった。
確かにそうだ。
消さないで。
消してない?
それは、黒瀬が湊に向けて言い始めた言葉だった。
それが白瀬に届き、莉子にも届き、四人の言葉になりつつある。
黒瀬は、少しだけ落ち着かない。
「……あたしのせいみたいに言うな」
「せいじゃなくて」
湊は少し考える。
「黒瀬の言葉が残ったんだと思う」
黒瀬はまた固まった。
莉子が口を押さえる。
白瀬が静かに見守る。
「朝比奈」
「うん」
「そういうの、昼に言うな」
「ごめん」
「謝るの早い」
黒瀬は顔を赤くしたまま、湊の一行をもう一度見た。
消してない確認が、四人の言葉になっている。
それは恥ずかしい。
でも、少し嬉しい。
放課後。
黒瀬は自分の余白ノートを開いた。
今日の一行を書く。
――消してないって聞くの、あたしだけの言葉じゃなくなってきた。変な感じ。
書いてから、少し迷う。
見せるかどうか。
これは、少し恥ずかしい。
でも、見せてもいい気がした。
黒瀬はまず白瀬に見せた。
白瀬は読んで、目元を柔らかくする。
「黒瀬さんの言葉が、私にも届きました」
「白瀬、普通に言うな」
「本当なので」
「出た」
次に莉子が読む。
「変な感じ、って書くのがるいな」
「何それ」
「照れてるけど認めてる感じ」
「分析するな」
湊も読んだ。
「いい一行だと思う」
「普通に言うな」
「でも、本当に」
「二回目禁止」
黒瀬はノートを閉じた。
しかし、その一行は消さなかった。
夜。
黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを飲みながら今日の話をした。
「白瀬の一行、まだ名前ない」
「うん」
「でも、消してないって言った」
「うん」
「朝比奈も聞いた」
「うん」
「莉子も普通ノートに書いた」
「うん」
「消してない確認、四人の言葉になってきた」
湊は静かに頷く。
「そうだな」
「普通に認めるな」
「でも、そうだと思う」
「ずるい」
黒瀬はカップを見つめた。
「白瀬の見せない一行、気になる」
「うん」
「でも、待つ」
「うん」
「湊の二行も」
「うん」
「名前なしで待つ」
「ありがとう」
「普通に礼言うな」
「言いたかった」
「ずるい」
黒瀬は少しだけ笑った。
それから、湊の保留ノートを見た。
「消してない?」
「消してない。増えてない。名前もつけてない」
「紙には?」
「今日の見せてもいい一行だけ」
「ならいい」
白瀬の見せない一行も、まだ名前がない。
湊の見せない二行も、まだ名前がない。
でも、それらは消えていない。
そして、消してないと確かめる言葉が、少しずつ四人の中に広がっていた。
黒瀬が最初に言った言葉が、いつの間にか誰かを安心させる言葉になっている。
それは、少し変な感じがして。
少し、悪くなかった。




