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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.160 見せない二行に、仮の名前をつけない

 翌日の昼休み、藤堂莉子は妙にそわそわしていた。


 購買で買ってきたパンを机に置き、普通ノートを開き、ペンを持ち、いったん閉じる。


 それからツッコミ帳を取り出しかけて、また鞄に戻す。


 黒瀬琉衣奈は、その一連の動きを見て眉を寄せた。


「莉子」


「何?」


「今日、危ない」


「まだ何もしてないよ」


「何もしてないのに危ない」


「ひどい」


 莉子はそう言いながらも、妙に否定しきれない顔をしている。


 白瀬栞は静かに弁当箱を広げ、朝比奈湊はパンの袋を開けている。


 いつもの昼の机。


 名前はまだない。


 ただ、四人はもう自然に机を寄せていた。


 昨日もそうだった。

 その前もそうだった。


 名前がなくても、何度も戻れば場所になる。


 白瀬がそう書いた。


 黒瀬はその一行を思い出し、少しだけ机を見た。


 もう、ここは「そこ」になっている。


 言わなくても、たぶん四人にはわかる。


 だから名前はいらない。


 そのはずだった。


 しかし莉子は、たぶん名前をつけたがっている。


 黒瀬は警戒した。


「今日は何に名前つける気?」


「え、何でわかったの」


「やっぱり」


「顔?」


「莉子の動き」


「動きで読まれた」


 莉子は少し悔しそうにしながら、普通ノートを指で叩いた。


「いや、昨日の話の続きだよ。名前がないまま大事になるもの、多いって話」


「うん」


「で、名前をつけない方がいいものもあるって話」


「うん」


「でもさ」


「嫌な予感」


「仮の名前くらいなら、逆に扱いやすくなる時もない?」


 黒瀬の手が止まった。


 仮の名前。


 その言葉は、少しだけ不穏だった。


 莉子は悪気なく続ける。


「たとえば、朝比奈くんの見せない二行」


「莉子」


 黒瀬の声が低くなった。


 莉子は両手を上げる。


「待って待って。まだ何も言ってない」


「言おうとしてる」


「仮称だよ、仮称」


「いらない」


「でも呼びにくいじゃん。毎回“見せない二行”って」


「それでいい」


「じゃあ、もっと具体的に――」


「莉子」


 今度は湊が静かに止めた。


 莉子はそこで少しだけ黙った。


 湊の声は強くなかった。


 怒ってもいない。


 でも、いつもの莉子なら茶化して進めるところで、ちゃんと止まるくらいの重さがあった。


「……ごめん」


 莉子はペンを机に置いた。


「ちょっと軽くしすぎた」


 黒瀬は少しだけ驚いた。


 莉子がすぐに謝ったことにではない。


 自分で「軽くしすぎた」と気づいたことにだ。


 白瀬が静かに言った。


「名前をつけると、読む前に意味が決まってしまうかもしれません」


 その一言で、机の空気がさらに静かになった。


 莉子は白瀬を見る。


 黒瀬も見る。


 湊は保留ノートの無地の表紙に目を落とした。


 読む前に意味が決まる。


 黒瀬は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 湊の見せない二行に、もし莉子が仮の名前をつけたら。


 たとえば、冗談めかした名前。


 「黒瀬爆撃二行」とか。

 「未公開ラブ寄りメモ」とか。

 「保留ノート最重要案件」とか。


 莉子が言いそうな名前が、頭の中に勝手に並ぶ。


 どれも、莉子らしい。

 けれど、どれも違う。


 まだ読んでいないのに、勝手にそういうものとして扱ってしまうことになる。


 嬉しいものなのか。

 怖いものなのか。

 ただの記録なのか。

 約束なのか。

 気持ちなのか。


 湊自身も、まだ名前をつけられないと言っていた。


 それなのに、外から仮の名前をつけるのは、たぶん違う。


「……つけない」


 黒瀬は小さく言った。


 三人が黒瀬を見る。


「見せない二行に、名前はつけない」


 言ってから、黒瀬は少しだけ顔が熱くなった。


 でも、言い直さなかった。


 莉子は真面目な顔で頷いた。


「うん。つけない」


「ほんと?」


「ほんと。今のは、私が悪かった」


「そこまでじゃ」


「いや、悪かった。名前つけると逃がせる時あるから」


 莉子は自分の普通ノートを見た。


「重いやつに名前つけて、ネタにして、ちょっと軽くして逃げるやつ」


 黒瀬は何も言えなかった。


 それは、莉子自身が自分で気づいたことだった。


 白瀬も静かに聞いている。


 湊も、莉子を見ている。


「それが悪い時ばっかじゃないけど」


 莉子は続けた。


「でも今日は、やっちゃだめなやつだった」


「莉子」


 黒瀬は呼んだ。


「何?」


「ちゃんとしてる」


「今日だけ?」


「……半分」


「そこは半分なんだ」


 莉子は少し笑った。


 その笑い方は、いつもの明るさに戻りかけていたけれど、まだ少しだけ照れていた。


 白瀬が言う。


「藤堂さんがそう気づけたことも、大事だと思います」


「白瀬さん」


「はい」


「そういうの、普通に言うと刺さる」


「すみません」


「謝らなくていいけど」


 莉子は普通ノートを開いた。


 少し考えてから、一行書く。


 ――名前をつけて逃がすこともある。でも今日はつけない方がよさそう。


 書いてから、黒瀬に見せる。


「これ、書いていい?」


「もう書いてるじゃん」


「事後確認」


「白瀬の真似するな」


「便利だから」


「便利にするな」


 黒瀬はその一行を読んだ。


 名前をつけて逃がすこともある。


 莉子らしい言葉だと思った。


 でも、その下にちゃんと「今日はつけない」とある。


 黒瀬は小さく頷いた。


「……消さなくていい」


「ありがと」


「普通に礼言うな」


「受け取りたいので」


「白瀬の影響が強い」


「かなり」


 白瀬が少し笑った。


 湊は保留ノートを開いた。


 黒瀬の視線が自然に向く。


「書くの?」


「うん」


「見せるやつ?」


「見せるやつ」


 湊はゆっくりペンを動かした。


 そして、ノートを四人の真ん中へ置く。


 ――見せない二行には、まだ仮の名前もつけない。


 黒瀬は、その一行を読んで、胸の奥が少し落ち着くのを感じた。


 まだ仮の名前もつけない。


 それは、湊自身の確認でもあり、黒瀬への約束のようでもあった。


 莉子も読んで、深く頷く。


「うん。つけない」


 白瀬も静かに言った。


「その方がいいと思います」


 黒瀬は湊の字を見つめた。


「消さないで」


「消さない」


「見せない二行も?」


「消してない。増えてない」


「名前も?」


「つけてない」


「ならいい」


 黒瀬は小さく頷いた。


 昼休みの机は、それから少しずついつもの空気に戻った。


 莉子はパンを食べながら、少しだけ大げさにため息をつく。


「いやー、危なかった。私、今日ちょっと爆弾踏みかけた」


「自覚あるんだ」


 黒瀬が言う。


「ある。ネーミング癖、封印します」


「本当?」


「今日は」


「短い」


「長期保証はできません」


「だめじゃん」


 湊が苦笑する。


 白瀬が真面目に言った。


「でも、名前をつけることで助かる時もあると思います」


「白瀬さん?」


「はい。怖いものに仮の名前をつけて、少し距離を取ることもありますから」


 莉子は顔を上げた。


「じゃあ、全部だめじゃない?」


「はい。けれど、今日の二行にはまだ早いのだと思います」


 黒瀬は白瀬を見る。


 白瀬はやはり静かに強い。


 全否定しない。


 莉子の逃げ方を悪いものにしない。


 でも、今日は違うと言う。


「白瀬」


「はい」


「その言い方、ずるい」


「ずるいでしょうか」


「ずるい。逃げ道あるのに、ちゃんと止める」


「そうできているなら、よかったです」


「普通に受け取るな」


 莉子が普通ノートに書く。


 ――全部だめじゃない。でも今日は違う、という止め方がある。


「莉子、それいい」


 黒瀬が言う。


 莉子は目を丸くする。


「るいなが普通に褒めた」


「言うな」


「受け取る」


「受け取るな」


「受け取る」


 四人は少し笑った。


 午後の授業が終わり、放課後になっても、黒瀬は昼のことを考えていた。


 見せない二行に名前をつけない。


 それは、思ったより大事なことだった。


 名前がないから不安になる。


 けれど、名前をつけないから残せる距離がある。


 昨日、湊が書いた言葉がまた戻ってくる。


 黒瀬は余白ノートを開いた。


 今日の欄に一行書く。


 ――名前なしで待つって、思ったより難しい。でも、今日はそれがいい。


 書いてから、少し見つめる。


 これは見せてもいい。


 いや、見せたいのかもしれない。


 黒瀬は湊の席へ行った。


「朝比奈」


「何?」


「見せるやつ」


 湊は少しだけ目を丸くした。


 黒瀬はノートを向ける。


 湊はゆっくり読んだ。


 ――名前なしで待つって、思ったより難しい。でも、今日はそれがいい。


 湊はすぐには言わなかった。


 それから、静かに頷く。


「ありがとう」


「普通に礼言うな」


「でも、言いたかった」


「ずるい」


 湊は保留ノートを開く。


「返していい?」


「見せるやつ?」


「見せるやつ」


 湊は書いた。


 ――名前なしで待ってもらっているから、急いで違う名前に逃げなくて済む。


 黒瀬は読んで、固まった。


「……朝比奈」


「うん」


「今日、それが一番ずるい」


「そうか」


「そう」


 黒瀬はノートを見つめる。


 違う名前に逃げなくて済む。


 その言葉で、昼の莉子の話とも繋がった。


 名前をつけて逃がすこともある。


 でも、今は逃がさない。


 急がない。


 名前なしで待つ。


「消さないで」


「消さない」


「見せない二行も?」


「消してない。増えてない」


「名前も?」


「つけてない」


「ならいい」


 白瀬がそのやり取りを少し離れて見ていた。


 莉子も普通ノートを閉じている。


 今日は、二人とも茶化さなかった。


 夜。


 黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを両手で包んでいた。


 テーブルには、名前のない保留ノート。


 今日の一行が開かれている。


 ――見せない二行には、まだ仮の名前もつけない。

 ――名前なしで待ってもらっているから、急いで違う名前に逃げなくて済む。


 黒瀬はその二つを何度も見た。


「名前なしで待つ」


「うん」


「難しい」


「うん」


「莉子の気持ち、ちょっとわかった」


「名前つけたくなる?」


「なる。怖いから」


「うん」


「でも、つけたら違うものになる気がする」


「うん」


「だから、つけない」


 湊は静かに頷いた。


「ありがとう」


「また礼」


「言いたかった」


「ずるい」


 黒瀬はカフェラテを飲んだ。


 少しだけ落ち着く。


「朝比奈」


「何?」


「名前なしで待つけど」


「うん」


「文句はある」


「うん」


「気になる」


「うん」


「怖い」


「うん」


「でも、勝手に名前つけない」


「うん」


「だから」


 黒瀬は少しだけ言葉を止めた。


 湊は待っている。


 急かさない。


 黒瀬は小さく続けた。


「ちゃんと、そのまま会いに来て」


 言ってから、顔が熱くなった。


「今のなし」


「無理」


「早い」


「それは無理」


「朝比奈」


「ちゃんと、そのまま見せられるようにする」


 黒瀬はクッションを抱きしめた。


「普通に言うな」


「でも、言いたかった」


「ずるい」


 名前は、まだつけない。


 仮の名前もつけない。


 見せない二行は、まだ見せない二行のまま。


 怖くて、気になって、文句もあって。


 でも、勝手に違う意味へ逃がさない。


 黒瀬琉衣奈は、名前なしで待つことを選んだ。

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