ep.159 黒瀬、名前がないまま大事になるものを考える
翌朝、黒瀬琉衣奈は、自分のノートを開いたまましばらく動けなかった。
昨日の夜、湊の部屋で言ってしまった一言が、まだ頭の中に残っている。
――名前がないままでも、大事になるものもあるのかな。
何を言っているのか。
自分で言ったくせに、朝になってから恥ずかしさが増している。
大事になるもの。
名前がないまま。
それは、昼の机のことでもある。
湊の保留ノートのことでもある。
白瀬の見せない一行のことでもある。
莉子の普通ノートのことでもある。
そしてたぶん、湊との距離のことでもある。
黒瀬はシャーペンを持ったまま、余白を見つめた。
昨日、白瀬は書いた。
――名前がなくても、何度も戻れば場所になる。
湊は書いた。
――名前をつけないまま戻ってくる方が、今は近い気がする。
どちらも刺さった。
白瀬の一行は、静かに刺さる。
湊の一行は、普通に刺さる。
莉子の一行は、軽い顔をして後から刺さる。
最近、刺さるものが多い。
困る。
「……多すぎ」
黒瀬が小さく呟くと、隣から白瀬栞が顔を上げた。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
「何か、多すぎるんですか」
「聞こえすぎ」
「すみません。近かったので」
「謝るの早い」
白瀬は今日も髪にヘアピンを留めている。
黒瀬が選んだもの。
もう見慣れたはずなのに、やはり朝に確認してしまう。
白瀬も、それに気づいて少しだけ微笑んだ。
「今日も見てくれましたね」
「言うなって」
「すみません。でも、これも名前のないまま続いていることかもしれません」
黒瀬は固まった。
「白瀬」
「はい」
「朝からそこに繋げるの、強すぎ」
「そうでしょうか」
「強い」
白瀬は少しだけ考える。
「でも、毎朝見てくれることに、特別な名前はありません」
「うん」
「けれど、私は嬉しいです」
黒瀬は顔を赤くした。
「普通に言うな」
「本当なので」
「出た」
白瀬は穏やかに笑った。
黒瀬はノートに視線を落とす。
確かに、白瀬のヘアピンを見る行為に名前はない。
確認係だと莉子には茶化された。
でも、本当に係ではない。
ただ、見る。
白瀬がそれに気づく。
少しだけ笑う。
黒瀬が照れる。
それだけ。
名前はない。
でも、もう大事な朝の一部になっている。
黒瀬は余白に一行書いた。
――名前がないまま大事になるもの、わりと多い。
書いてから、少しだけ息を止めた。
これは、見せてもいいかもしれない。
でも、まだ少し恥ずかしい。
そこへ莉子が教室に入ってきた。
「おはよー。あ、るいな、朝から哲学してる顔」
「何それ」
「名前のないものについて考えてる顔」
「莉子まで」
「え、当たり?」
「当てるな」
莉子は鞄を置き、普通ノートを出した。
今日はツッコミ帳ではない。
黒瀬はそれを見て、少しだけ安心する。
莉子はすぐに気づく。
「るいな、普通ノートだと安心する顔」
「してない」
「してる」
「してない」
「顔」
「むかつく」
「仕返し成功」
莉子は笑いながら白瀬の方を見る。
「で、何の話?」
「名前がないまま大事になるものの話です」
白瀬があっさり答えた。
「白瀬!」
黒瀬が声を上げる。
莉子は目を輝かせた。
「おお、今日のテーマ強い」
「テーマにするな」
「でも、いいじゃん。昨日の名前なし机の続きでしょ?」
「まあ……」
黒瀬は言い淀む。
莉子は机に肘をついて言った。
「名前がないまま大事になるものって、けっこうあるよね」
「莉子にもあるの?」
「あるある」
「何」
「この普通ノート」
莉子は普通ノートを軽く叩いた。
「最初は勉強用だったのに、今は何ノートなのかよくわかんない」
「確かに」
「ツッコミ帳でもない。勉強だけでもない。でも大事」
莉子は少し照れたように笑った。
「名前はまだないけど」
黒瀬は少し黙った。
莉子の普通ノートにも、名前はない。
ただの普通ノートと呼んでいる。
でも、もう普通ではない。
莉子自身が出る場所になっている。
「莉子」
「何?」
「それ、ちょっといい」
莉子が固まった。
「るいなが朝から普通に褒めた」
「言うな」
「でも受け取る」
「受け取るな」
「受け取るってば」
白瀬が静かに微笑む。
その時、湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「おはよ、朝比奈くん。今日のテーマは名前がないまま大事になるものです」
「莉子」
黒瀬が低い声で止める。
「紹介しただけ」
「紹介するな」
湊は少しだけ黒瀬を見た。
それから、いつものように言う。
「消してない。増えてない」
「聞いてない」
「でも、名前がないものの話なら、見せない二行も近いかと思って」
黒瀬は動きを止めた。
湊は続けた。
「紙には増えてない」
「……報告が細かい」
「必要かと」
「必要だけど」
黒瀬は顔を赤くして視線を逸らした。
見せない二行。
名前がないまま大事になっているもの。
確かに、それもそうかもしれない。
まだ内容を知らない。
まだ見せられていない。
けれど、もう黒瀬の中では大事になっている。
読んでいないのに。
会っていないのに。
それでも、大事になりかけている。
むかつくくらい。
昼休み。
四人はいつものように机を寄せた。
莉子は「ただいま机」と言いかけ、黒瀬に睨まれて途中でやめた。
「言ってない」
「言いかけた」
「心の中では言った」
「それもやめて」
「無理」
白瀬は小さく笑いながら、机を寄せる。
湊も自分の席を合わせる。
四つの机が、今日も名前のない場所になる。
黒瀬は少しだけその机を見た。
名前はない。
でも、もうわかる。
ここだ。
「そこ」と言えば、たぶん四人には伝わる。
莉子がパンを開けながら言う。
「じゃあさ、名前がないまま大事になるもの、各自一個ずつ」
「授業みたいにするな」
黒瀬が突っ込む。
「でも面白そうじゃん。私は普通ノート」
「さっき言ってた」
「うん。まだ名前ないけど、けっこう大事」
白瀬が少し考える。
「私は、黒瀬さんが毎朝ヘアピンを見てくれることかもしれません」
「白瀬!」
黒瀬の顔が一気に赤くなる。
「それ本人の前で言う?」
「はい。名前はありませんが、大事なので」
「普通に言うな」
莉子が普通ノートを開きかける。
黒瀬が睨む。
「莉子」
「これは書かないと逆に失礼じゃない?」
「何で」
「白瀬さんが勇気出して言ったから」
白瀬は少しだけ頬を赤くした。
「勇気というほどでは」
「勇気だよ」
莉子は普通ノートに書いた。
――毎朝のヘアピン確認、名前はないけど大事らしい。
黒瀬はそれを見て、机に突っ伏したくなった。
「消して」
「やだ」
「莉子」
「白瀬さんの大事を消すのはだめ」
黒瀬は言い返せなかった。
湊は少しだけ笑っている。
黒瀬が睨む。
「笑うな」
「いや、いいなと思って」
「普通に言うな」
「でも、いい」
「二回言うな」
白瀬が湊を見る。
「朝比奈くんは?」
「俺?」
「名前がないまま大事になるものです」
湊は少し考えた。
そして、保留ノートを取り出す。
黒瀬の視線がすぐに向かう。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書き、四人の真ん中へ置いた。
――名前を決めないことで、残せる距離もある。
黒瀬は、それを読んで固まった。
名前を決めないことで、残せる距離。
それは、今の四人の机にも似ている。
黒瀬と湊の関係にも似ている。
湊の見せない二行にも似ている。
名前をつけないから、まだ壊れずに置いておける。
名前を決めないから、急に近づきすぎずに残せる距離がある。
「……朝比奈」
「うん」
「それ、今日の一番ずるいやつ」
「そうか」
「そう」
「消さない」
「まだ言ってない」
「言うと思って」
「予測するな」
黒瀬は顔を赤くして、小さく言った。
「消さないで」
「うん」
莉子は普通ノートを開いた。
「これは書いていい?」
「名前出さないなら」
「了解」
莉子は書いた。
――名前を決めないから残る距離もある。ちょっとずるい。
白瀬も自分のノートに書く。
――名前のないものは、不安定だけれど、急に狭くならない。
黒瀬は白瀬の一行を見て、少し頷いた。
「それも、わかる」
「はい」
「名前をつけたら、急に狭くなる時ある」
「はい」
莉子が横から言う。
「例えば、ただいま机」
「だから却下」
「まだ引っ張る」
「引っ張るな」
四人で少し笑った。
昼の空気は軽い。
でも、机の上にはそれぞれの一行が少しずつ残っている。
黒瀬は自分の余白ノートを開いた。
朝書いた一行。
――名前がないまま大事になるもの、わりと多い。
これを見せるかどうか。
少し迷った。
でも、今なら見せてもいい気がした。
「……あたしも」
三人が見る。
「何?」
莉子が聞く。
「見せるやつ」
黒瀬はノートを四人へ向けた。
三人がその一行を読む。
――名前がないまま大事になるもの、わりと多い。
莉子が最初に反応した。
「るいな、それめっちゃいい」
「めっちゃって言うな」
「いや、めっちゃいい」
「二回言うな」
白瀬も静かに頷く。
「黒瀬さんらしい一行です」
「らしい?」
「はい。少し戸惑いながらも、ちゃんと見ている感じがします」
「白瀬、分析するな」
「すみません」
「でも……まあ」
黒瀬は言葉を濁した。
湊はノートの一行をしばらく見つめていた。
そして言った。
「本当に多いな」
「普通に受け取るな」
「でも、俺もそう思う」
「ずるい」
湊は少し笑った。
放課後。
四人は少しだけ教室に残った。
莉子は普通ノートを見返しながら、今日の一行に丸をつけている。
白瀬は自分のノートの余白を静かに整えている。
湊は保留ノートを閉じたまま、無地の表紙に指を置いている。
黒瀬は、ずっと考えていた。
名前がないまま大事になるもの。
自分には、それが多すぎる。
昼の机。
夜の湊の部屋。
白瀬のヘアピン確認。
莉子のツッコミ帳。
普通ノート。
保留ノート。
見せない二行。
見せない一行。
消してない確認。
ただいま。
おかえり。
どれも、はっきり名前がつかない。
でも、どれもなかったことにはしたくない。
黒瀬はノートにもう一行書いた。
――名前がないから困る。でも名前がないから残ってる気もする。
見せるかどうか迷っていると、湊が静かに聞いた。
「見せないやつ?」
黒瀬は少し考えた。
「……見せてもいい」
ノートを湊に向ける。
湊は読んで、すぐには何も言わなかった。
それから、自分の保留ノートを開く。
「返していい?」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書いた。
――名前がないから残っているなら、今はまだ名前を急がなくていい。
黒瀬は読んで、息を止めた。
「……朝比奈」
「うん」
「今日、ずっとそれ系で刺してくる」
「ごめん」
「謝るの早い」
「でも、そう思った」
「本当なら余計」
黒瀬は少しだけ俯いた。
名前を急がなくていい。
その言葉は、少し楽だった。
名前がないことは、不安でもある。
でも、今はそれで残っている距離もある。
なら、急がなくていいのかもしれない。
「消さないで」
「消さない」
「見せない二行も?」
「消してない。増えてない」
「白瀬の一行は?」
「消していません」
白瀬が答える。
「莉子の普通ノートは?」
「消さないよ」
莉子が言う。
「ならいい」
黒瀬は頷いた。
夜。
黒瀬は湊の部屋でカフェラテを飲みながら、今日の一行を思い出していた。
テーブルには湊の保留ノート。
無地の表紙。
名前のないまま、中身だけが増えているノート。
「朝比奈」
「何?」
「見せない二行も、名前がついてないからまだ見せないの?」
湊は、少しだけ手を止めた。
黒瀬は自分で聞いて、胸が少し緊張する。
でも、聞きたかった。
湊はすぐには答えなかった。
少し考えてから、ゆっくり言う。
「たぶん、そうかもしれない」
「……そうなんだ」
「うん。あの二行に、まだ名前をつけられない」
「名前って?」
「何の言葉なのか、っていう名前」
湊は保留ノートの表紙を見た。
「ただの記録なのか、気持ちなのか、約束なのか、怖さなのか、安心なのか」
黒瀬は黙って聞いた。
「まだ、決めきれてない」
「そっか」
「でも、消してない」
「うん」
「増えてない」
「うん」
「いつか見せる準備はしてる」
「うん」
黒瀬はカフェラテを両手で包んだ。
「じゃあ、名前なしで待つ」
湊が黒瀬を見る。
「ありがとう」
「普通に礼言うな」
「でも、言いたかった」
「ずるい」
黒瀬は顔を赤くして、カップに視線を落とした。
名前がないまま大事になるものは、わりと多い。
黒瀬は今日、それを考えた。
名前をつけないから不安になる。
でも、名前をつけないから残せる距離もある。
湊の見せない二行にも、まだ名前はない。
だから黒瀬は、名前なしで待つことにした。
文句はある。
怖くもある。
でも、消されていないなら。
今はまだ、それでいい。




