ep.158 莉子、昼の机を勝手に命名しかける
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、藤堂莉子は立ち上がった。
黒瀬琉衣奈は、嫌な予感がした。
こういう時の莉子は、だいたい何かを思いついている。
それも、ろくでもない方向に。
「るいな」
「何」
「大事な提案があります」
「却下」
「まだ言ってない!」
「言う前から却下した方がいい気がした」
「ひどい。これは四人の未来に関わる議題なのに」
「余計に嫌」
莉子はめげずに、いつものように机を少し動かした。
黒瀬の机。
白瀬栞の机。
朝比奈湊の机。
莉子の机。
四つの机が、いつもの形に近づいていく。
戻れる場所。
ただいまと言える机。
名前はまだない。
けれど、最近その場所は、確かに何かになり始めていた。
黒瀬はそれを認めたくないような、認めてしまっているような、面倒くさい気持ちで机を見ていた。
「で、提案って何」
湊がパンを持って戻ってきながら聞く。
莉子は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「この机に名前をつけようと思います」
「却下」
黒瀬は即答した。
「早い!」
「絶対嫌な予感した」
「でもさ、毎回“戻れる場所”とか“昼の机”とか言うの、ちょっと長いじゃん」
「長くていい」
「よくないよ。呼びやすさ大事」
「呼ばなくていい」
白瀬が自分の机を寄せながら、静かに言った。
「名前ですか」
「そう、白瀬さん。名前。大事でしょ?」
「大事な時もあります」
「ほら」
「でも、今つけるべきかは別です」
「白瀬さん、味方かと思ったら中立だった」
「中立でしょうか」
莉子は普通ノートを机に置き、ペンを構えた。
「じゃあ候補出すね」
「出さなくていい」
黒瀬が言うが、莉子は聞いていない。
「第一候補。戻れる机」
「そのまますぎ」
「わかりやすいでしょ」
「却下」
「第二候補。ただいまテーブル」
「絶対却下」
「かわいいじゃん」
「かわいくない。恥ずい」
「第三候補。四人ノート会議所」
「急に業務感」
湊が少し笑う。
「会議所って」
「だってみんなノート持ち寄ってるし」
「まあ、間違ってはいない」
「朝比奈、乗るな」
黒瀬が睨む。
莉子はさらに指を立てる。
「第四候補。昼の避難所」
その言葉で、少しだけ空気が止まった。
避難所。
軽く言ったはずなのに、どこか響きが重い。
黒瀬は一瞬、夜の湊の部屋のことを思い出した。
近すぎる場所。
逃げ道が少ない場所。
そこに行けるのは、昼の机があるからかもしれないと、昨日思った。
昼の机は、逃げ道多め。
莉子がそう書いた。
だから「避難所」という言葉は、少しだけ外れていない。
外れていないからこそ、恥ずかしい。
「……却下」
黒瀬は少し遅れて言った。
莉子が目ざとく反応する。
「あ、今ちょっと迷った」
「迷ってない」
「迷った。避難所、少し刺さったでしょ」
「刺さってない」
「顔」
「顔に喋らせるな」
湊は自分の席に座り、保留ノートを鞄から出しかけた。
黒瀬の視線がすぐに向く。
「書くの?」
「まだ」
「まだって何」
「少し考えてる」
「考えるな」
「でも、名前の話は大事そうだし」
「大事にするな」
白瀬は、四つの机が寄った形をじっと見ていた。
それから静かに言う。
「以前、保留ノートの表紙に名前を書かない話をしましたね」
「した」
黒瀬が頷く。
「名前を書くと、役割が固定されてしまう気がする、と」
「うん」
「この机も、少し似ているのかもしれません」
莉子はペンを持ったまま止まった。
「似てる?」
「はい。戻れる場所でもあり、ただいまと言える場所でもあり、ノートを置く場所でもあり、昼食を食べる場所でもあります」
白瀬は机に視線を落とす。
「一つの名前にすると、どれか一つだけになってしまう気がします」
黒瀬は、少しだけ息を止めた。
白瀬の言葉は、また静かに置かれた。
この机は、戻れる場所。
でも、それだけではない。
ただいまと言える場所。
でも、それだけでもない。
逃げ道多めの昼の机。
ノートが混ざる場所。
莉子が茶化して、白瀬が強い言葉を置いて、湊が一行を書いて、黒瀬がむかつくと言いながら残る場所。
名前をつけると、その全部のうち一つしか見えなくなる気がした。
「……名前、いらないかも」
黒瀬は小さく言った。
莉子がこちらを見る。
「るいな、今日もけっこう普通に言った」
「言うな」
「でも今の、いい」
「二回言うな」
湊も頷いた。
「名前がないままでも、使える場所でいいんじゃないか」
黒瀬は湊を見る。
「朝比奈」
「何」
「そういうの、普通に言うな」
「でも、そう思った」
「本当なら余計」
莉子は少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
「えー、名前つけたかったのに」
「名前つけなくても、戻ってきてるでしょ」
黒瀬が言う。
「まあね」
「ならいいじゃん」
「でもさ、呼び方ないと不便じゃない?」
「昼の机でいい」
「雑」
「雑でいい」
「るいならしい」
「便利にするな」
莉子は普通ノートを開いた。
少し考えてから、一行書く。
――名前がない場所の方が、戻りやすい時もある。
書いたあと、自分で少し首を傾げた。
「何か、今日の私、白瀬さんっぽい?」
黒瀬は横からその一行を読んで、少しだけ笑った。
「うん。ちょっと白瀬っぽい」
「やっぱり?」
「でも莉子っぽさもある」
「それは褒めてる?」
「半分」
「便利にするな」
莉子はそう言いながらも、少し嬉しそうだった。
白瀬もその一行を読み、静かに微笑んだ。
「とても良い一行だと思います」
「白瀬さん本人から認定来た」
「白瀬っぽいかどうかはわかりませんが、藤堂さんらしいと思います」
「それ、もっと嬉しいやつ」
莉子は照れ隠しのようにパンの袋を開いた。
黒瀬はその反応を見て、少しだけ口元を緩めた。
「莉子、照れてる」
「照れてない」
「照れてる」
「るいなに言われるとむかつく」
「仕返し」
「成長が悪い方向に出てる」
湊は保留ノートを開いた。
黒瀬がすぐに反応する。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は少し考えて、短く書いた。
そして四人の真ん中へ置く。
――名前がないままでも、毎日使っているなら場所になる。
黒瀬は、その一行を読んで少し黙った。
毎日使っているなら、場所になる。
名前がなくても。
正式な何かでなくても。
ただ、戻ってきて、机を寄せて、そこに座って、ノートを置く。
それを繰り返すだけで、場所になる。
莉子もその一行を読んで頷く。
「朝比奈くん、それいい」
「莉子さんの一行から思った」
「お、私発信」
「うん」
「ちょっと嬉しい」
「普通に受け取った」
黒瀬が言うと、莉子は胸を張った。
「最近、受け取る練習してるので」
「白瀬の影響」
「かなり」
白瀬が少し笑った。
「良い影響なら、嬉しいです」
「白瀬さん、普通に言う」
「はい」
黒瀬は保留ノートの一行をもう一度見た。
「消さないで」
「消さない」
湊が答える。
「見せない二行も?」
「消してない。増えてない」
「白瀬の一行は?」
白瀬が頷く。
「消していません」
「莉子の普通ノートも?」
「消さないよ。今日のはけっこう好き」
莉子が答える。
「ならいい」
黒瀬は頷いた。
昼休みは、そのまま少しだけ名前の候補で遊ぶ時間になった。
莉子は諦めきれずに、いくつか候補を出した。
「じゃあ、名前じゃなくて仮称。帰還ポイント」
「ゲーム感が強い」
湊が言う。
「セーブ地点」
「それはちょっとわかる」
黒瀬が言ってしまい、莉子が目を輝かせる。
「るいな今わかるって言った」
「でも却下」
「えー」
「セーブ地点って言われたら、毎回ここでセーブしなきゃいけないみたいで嫌」
「なるほど」
白瀬が真面目に頷く。
「義務になると、戻りにくくなるかもしれません」
「白瀬さん、解釈が丁寧」
莉子が感心する。
「じゃあ、無名テーブル」
「それ名前ついてるじゃん」
黒瀬が突っ込む。
「たしかに」
「自分で気づけ」
四人で少し笑った。
結局、名前は決まらなかった。
決めなかった。
けれど、それでいいという空気になった。
放課後。
四人は少しだけ教室に残った。
机はまだ寄せたまま。
名前のない場所。
でも、もう何日も使っている場所。
黒瀬は自分の余白ノートを開いた。
昼の会話を思い出しながら、一行書く。
――名前がなくても、何回も戻るとそこになる。
書いてから、少しだけ首を傾げる。
何か、少し変だ。
でも、今の気分には合っている。
白瀬がそれに気づいた。
「黒瀬さん、書きましたか」
「書いた」
「見せてもいい一行ですか」
「……たぶん」
黒瀬はノートを四人へ向けた。
莉子が読む。
「そこになる、って言い方いいね」
「そう?」
「うん。場所っていうより、そこ」
湊も頷く。
「わかる。名前がなくても、そこって言えばわかる感じ」
黒瀬は顔を赤くした。
「普通に受け取るな」
「でも、そう思った」
「本当なら余計」
白瀬は自分のノートを開いた。
「私も、一行書きます」
「見せるやつ?」
黒瀬が聞く。
「はい。見せてもいい一行です」
白瀬は丁寧に書いた。
そして、四人の真ん中へ置く。
――名前がなくても、何度も戻れば場所になる。
誰もすぐには話さなかった。
莉子も、珍しくペンを止めたまま。
湊も静かにその一行を見ている。
黒瀬は胸の奥が少し熱くなった。
名前がなくても。
何度も戻れば。
場所になる。
それは、今日の結論みたいだった。
いや、結論というほど大げさではない。
でも、今の四人には、とても合っていた。
「白瀬」
「はい」
「それ、消さないで」
「消しません」
「かなり」
「はい。かなり、消しません」
白瀬がそう返したので、莉子が少し吹き出した。
「白瀬さんの“かなり消しません”、かわいい」
「かわいいでしょうか」
「かわいい」
「莉子、書くな」
黒瀬が止める。
「書かない。心に保存」
「それもやめて」
「無理」
湊は保留ノートを開いた。
「俺ももう一行」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は書いた。
――名前をつけないまま戻ってくる方が、今は近い気がする。
黒瀬はそれを読んで、少しだけ息を止めた。
「朝比奈」
「うん」
「それ、関係の話みたいに言うな」
「そうも読めるかもな」
「読むな」
「でも、そう思った」
「ずるい」
湊は小さく笑った。
「今日も?」
「今日も」
黒瀬はノートを見ながら、小さく言った。
「消さないで」
「消さない」
夜。
黒瀬は湊の部屋でカフェラテを飲みながら、昼の名前問題を思い出していた。
「莉子、名前つけたがってた」
「そうだな」
「変なのばっかり」
「ただいまテーブルとか」
「あれは絶対だめ」
「昼の避難所は?」
黒瀬は少しだけ黙った。
「……ちょっとわかるのがむかつく」
「うん」
「でも、名前にしたくない」
「うん」
「名前にしたら、その名前になっちゃう」
「そうだな」
「戻れる場所でもあるけど、それだけじゃない」
「うん」
「ただいまって言えるけど、それだけじゃない」
「うん」
「逃げ道でもあるけど、それだけでもない」
「うん」
黒瀬はカップを両手で包み直した。
「だから、名前いらない」
湊は静かに頷いた。
「俺も、今はそれでいいと思う」
「普通に受け取るな」
「でも、同じだったから」
「ずるい」
湊は保留ノートを開いた。
今日の一行がある。
――名前をつけないまま戻ってくる方が、今は近い気がする。
「これ」
黒瀬が言った。
「うん」
「ちょっと刺さった」
「うん」
「名前がない関係とか、そういう話に見える」
「見えるな」
「普通に認めるな」
「でも、そうだから」
「ずるい」
黒瀬は顔を赤くした。
けれど、逃げなかった。
「消してない?」
「消してない。増えてない」
「紙には?」
「今日の見せてもいい一行だけ」
「白瀬の一行は?」
「白瀬さんが消さないって言ってた」
「莉子の普通ノートは?」
「たぶん消さない」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「名前がないままでも、何回も戻れば場所になる」
「うん」
「じゃあ、名前がないままでも」
黒瀬は言いかけて止まった。
湊は待った。
急かさない。
黒瀬は少しだけ視線を落として、続きを言った。
「大事になるものもあるのかな」
湊はすぐに答えなかった。
でも、ちゃんと頷いた。
「あると思う」
「普通に言うな」
「でも、そう思う」
「ずるい」
黒瀬はクッションを抱えた。
名前をつけないままでも、何度も戻れば場所になる。
そしてたぶん。
名前をつけないままでも、大事になるものがある。
黒瀬はまだ、その名前を知らない。
知らないままで、今日も湊の部屋に戻ってきていた。




