ep.157 湊の部屋と昼の机は、同じじゃない
翌朝、黒瀬琉衣奈は教室に入る前に、少しだけ足を止めた。
昨日の夜のことを思い出していた。
――昼の机も、夜のここも、戻れる場所にはなってきてると思う。
――同じじゃない。
――うん。同じじゃない。
朝比奈湊は、そう言った。
その返事が、黒瀬には少しありがたかった。
昼の机と、夜の湊の部屋。
どちらも戻れる場所になりつつある。
でも、同じではない。
同じにされたら困る。
昼の机は、四人の場所だ。
白瀬栞がいて、藤堂莉子がいて、湊がいて、自分がいる。
ノートが並び、莉子が騒ぎ、白瀬が静かに強い言葉を置き、湊が保留ノートに一行を書く。
そこは少し広くて、少し逃げやすい。
誰かが茶化せる。
誰かが受け止める。
誰かが話題をずらす。
誰かが待つ。
夜の湊の部屋は違う。
カフェラテの湯気。
ソファ。
クッション。
無地の保留ノート。
見せない二行。
二人だけ。
近い。
近すぎる時がある。
黒瀬は教室の扉の前で、軽く息を吐いた。
「……同じじゃない」
小さく呟いてから、教室へ入った。
白瀬はすでに席にいた。
今日もノートを開いている。
今日も髪には、黒瀬が選んだヘアピン。
「おはようございます、黒瀬さん」
「……おはよ」
白瀬は黒瀬の顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「今日は、何か比べている顔ですね」
「白瀬」
「はい」
「顔でそこまで読むの、もう怖い通り越してすごい」
「すごいでしょうか」
「すごい」
「ありがとうございます」
「普通に受け取る」
白瀬は少しだけ笑った。
黒瀬は席に座り、ノートを開く。
昨日の夜、帰ってから書いた一行がある。
――昼の机と夜の部屋は、同じ戻れる場所でも近さが違う。
書いた時、少しだけ手が止まった。
近さが違う。
その言葉が、妙に生々しかったからだ。
白瀬が静かに聞いた。
「書きましたか」
「何でわかるの」
「今、ノートを見る顔が少し違いました」
「見えすぎ」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬は少し迷ってから、ノートを白瀬へ向けた。
「見せてもいいやつ」
白瀬は丁寧に一行を読んだ。
――昼の机と夜の部屋は、同じ戻れる場所でも近さが違う。
白瀬はすぐには何も言わなかった。
少し考えてから、静かに頷く。
「違いますね」
「……うん」
「昼の机には、私や藤堂さんもいます」
「うん」
「夜の部屋には、いません」
「そう」
黒瀬はそれ以上言うのが恥ずかしくなり、ノートを引き戻そうとした。
けれど白瀬は、穏やかに言葉を続けた。
「だからこそ、昼の机があることは大事なのかもしれません」
「どういうこと?」
「近すぎる場所だけだと、逃げ道が少なくなる気がします。でも、昼の机があれば、一度そこに戻れます」
黒瀬は黙った。
白瀬の言葉は、昨日湊が言ったことにも近かった。
――その時は昼の机に戻ればいい。
あれも、ずるかった。
「白瀬」
「はい」
「朝からまた強い」
「すみません」
「でも、ちょっとわかる」
白瀬は少しだけ微笑んだ。
そこへ莉子がやってきた。
「おはよー。あ、今日のるいな、朝から白瀬さんに刺されてる」
「莉子、第一声」
「だって見えたし」
「見えすぎ」
「みんな見えすぎチーム」
「チームにするな」
莉子は机に鞄を置き、普通ノートを出した。
「今日は何の話?」
「何でもない」
黒瀬が即答する。
「絶対何かある返し」
「ない」
「じゃあ白瀬さん」
「昼の机と夜の部屋は、同じではないという話です」
「白瀬!」
黒瀬の声が跳ねた。
莉子は目を輝かせる。
「おお、いいテーマ」
「テーマ化するな」
「昼の机と夜の部屋。つまり距離感問題」
「まとめるな」
「いや大事でしょ。だって夜の部屋は二人だけだし」
「莉子!」
「はい、これ以上は浅瀬!」
莉子は両手を上げた。
それでも普通ノートを開く。
「名前出さずに書いていい?」
「何を」
「場所によって近さが違う、って」
黒瀬は少しだけ迷った。
「……名前出さないなら」
「了解」
莉子は書いた。
――戻れる場所にも、近さの種類がある。
白瀬がそれを見て頷く。
「良い一行ですね」
「白瀬さんに褒められた」
黒瀬も横から見て、小さく言った。
「……それは、まあ」
「るいなが認めた」
「言うな」
その時、湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「朝比奈くん、おはよ。今日の議題は距離感です」
「議題?」
湊が少し困った顔をする。
黒瀬は莉子を睨む。
「莉子」
「浅瀬って言ったじゃん」
「浅瀬でも泳ぎすぎ」
湊は自分の席に鞄を置き、黒瀬を見る。
そして、いつものように短く言った。
「消してない。増えてない」
「聞いてない」
「でも報告」
「必要だけど」
黒瀬は顔を赤くして目を逸らした。
湊は少しだけ笑い、鞄から保留ノートを取り出す。
無地の表紙。
まだ名前は書かれていない。
「書くの?」
黒瀬が聞く。
「今はまだ」
「そっか」
「昼に書くかも」
「予告するな」
「心の準備」
「それは……必要」
黒瀬は小さく言った。
莉子が口を押さえる。
「書きたい」
「書くな」
「名前出さないなら?」
「だめ」
「心に保存」
「それもやめて」
「無理」
昼休み。
四人は机を寄せた。
昨日から続く「ただいま」の照れが少し残っている。
莉子は今日も軽く手を上げた。
「ただいまー」
「定着させるな」
黒瀬が言う。
「でも、昼の机には言っていいんでしょ?」
「誰が決めたの」
「昨日の流れ」
「勝手に流すな」
白瀬も少し遅れて机に来て、小さく言う。
「ただいま、です」
黒瀬はまた少し固まった。
「白瀬、それ今日も言うの」
「言ってもいいかと思いまして」
「いいけど」
「いいんですね」
「……半分」
「便利ですね」
「白瀬まで便利にする」
湊は机を寄せながら、短く言った。
「戻った」
「朝比奈はそれなんだ」
莉子が笑う。
「うん」
四つの机が寄る。
昼の机。
四人の場所。
黒瀬は、その広さに少し安心した。
近いけれど、近すぎない。
逃げ道がある。
莉子のツッコミも、白瀬の静かな言葉も、湊の短い返事もある。
焼きそばパンの袋を開けながら、黒瀬は自分のノートを見た。
朝の一行。
――昼の机と夜の部屋は、同じ戻れる場所でも近さが違う。
その下に、もう一行書く。
――昼は四人分の距離。夜は近すぎる時がある。
書いてから、すぐにノートを伏せた。
莉子が気づく。
「るいな、今のは?」
「見せない」
「即答」
「今は見せない」
莉子は目を丸くした。
白瀬も少しだけ黒瀬を見る。
湊は黙って頷いた。
「そっか」
それだけ言った。
その「そっか」が、黒瀬にはありがたかった。
昼の机の距離は、そういうところがある。
見せないと言っても、すぐに無理に開けられない。
莉子は気にする。
白瀬は待つ。
湊は短く受け取る。
黒瀬は少しだけ息を吐いた。
莉子は普通ノートを開いた。
「じゃあ、私は私の方を書く」
「何を?」
黒瀬が聞く。
「昼の机は、逃げ道多め」
「多めって」
「だってツッコミもあるし、白瀬さんもいるし、朝比奈くんもいるし、パンもある」
「パンは逃げ道なの?」
「かなり」
莉子は書いた。
――昼の机は、逃げ道多め。だから戻りやすい。
白瀬がそれを読んで、少し笑った。
「藤堂さんらしい一行です」
「褒められた」
「はい」
湊も頷く。
「逃げ道多め、わかる」
「朝比奈くんにも通じた」
黒瀬は少しだけむくれる。
「朝比奈の部屋は?」
言ってから、黒瀬はしまったと思った。
自分から聞いてしまった。
三人の視線が黒瀬に向く。
「何」
黒瀬は顔を赤くする。
「いや、今のは」
湊は少し考えた。
「俺の部屋は、逃げ道が少ないかもな」
黒瀬は黙った。
湊は続ける。
「でも、その分、逃げたくなったら止めないようにはしたい」
「……ずるい」
「今日も?」
「今日も」
黒瀬は焼きそばパンを見つめた。
白瀬が静かに言う。
「近い場所ほど、逃げ道を意識して残す必要があるのかもしれません」
「白瀬」
「はい」
「今日、それ強い」
「すみません」
「謝るの早い」
湊は保留ノートを開いた。
黒瀬が見る。
「書く?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書いた。
それから、黒瀬に向ける。
――昼の机があるから、夜の部屋が近すぎても少し大丈夫なのかもしれない。
黒瀬は、その一行を読んで止まった。
朝、自分が思っていたことに近い。
白瀬が言ったことにも近い。
でも、湊の字で書かれると、やっぱり違う。
「……朝比奈」
「うん」
「それ、かなりずるい」
「そうか」
「そう」
「消さない」
「まだ言ってない」
「言うと思って」
「予測するな」
黒瀬は顔を赤くして、でも小さく言った。
「消さないで」
「うん」
「見せない二行も?」
「消してない。増えてない」
「白瀬の一行は?」
白瀬が答える。
「消していません」
「ならいい」
莉子が普通ノートに書く。
――昼の逃げ道があるから、夜の近さも少し見られる。
「莉子、それ見せていいやつ?」
黒瀬が聞く。
「見せてもいいけど、るいなが死ぬかも」
「じゃあ見せるな」
「でも書いた」
「消せ」
「やだ」
莉子は普通ノートを閉じた。
黒瀬はむくれたが、強くは怒らなかった。
放課後。
四人は少しだけ教室に残った。
昼の机は、今日も戻れる場所だった。
けれど黒瀬の頭には、夜の湊の部屋のことが残っている。
近すぎる場所。
逃げ道を残したい場所。
昼の机があるから、少し大丈夫になる場所。
黒瀬は朝に書いた一行の下に、さらに書いた。
――昼の机があるから、夜の部屋に行ける日もある。
書いて、すぐに固まった。
これは、かなり危険だ。
見せない。
絶対に見せない。
黒瀬はノートを閉じた。
湊が気づく。
「見せないやつ?」
「見せない」
「うん」
それだけ。
湊はそれ以上聞かなかった。
そのことに、黒瀬は少しだけ救われた。
夜。
黒瀬は湊の部屋に来た。
来る前に、自分のノートを何度も見返した。
昼の机があるから、夜の部屋に行ける日もある。
その一行は、まだ見せない。
でも、消していない。
いつものようにカフェラテを受け取り、ソファに座る。
クッションを抱える。
湊は保留ノートをテーブルに置いた。
昼に書いた一行が開かれている。
――昼の机があるから、夜の部屋が近すぎても少し大丈夫なのかもしれない。
「これ」
黒瀬が言った。
「うん」
「わかるのが、かなりむかつく」
「うん」
「昼の机と、ここは違う」
「うん」
「ここ、近すぎる時ある」
「うん」
「普通に頷くな」
「でも、そうだと思う」
「本当なら余計」
黒瀬はカフェラテを両手で包んだ。
「昼の机は、莉子がいる」
「うん」
「白瀬もいる」
「うん」
「朝比奈もいるけど、四人だから」
「うん」
「ここは、朝比奈しかいない」
言ってから、黒瀬は顔を赤くした。
湊は黙って聞いている。
「だから、近い」
「うん」
「でも、昼の机があるから」
「うん」
「……ここに来れる日もある」
言ってしまった。
ノートに書いた一行と同じことを、口にしてしまった。
黒瀬はクッションを強く抱きしめる。
「今のなし」
「無理」
「早い」
「今のは無理」
「朝比奈」
湊は静かに言った。
「来てくれて、ありがとう」
「普通に礼言うな」
「言いたかった」
「ずるい」
黒瀬は顔を伏せた。
湊は続ける。
「近すぎる時は、昼の机に戻ればいい」
「……うん」
「ここで無理に全部受け取らなくていい」
「うん」
「でも、来れる日は来てくれたら嬉しい」
黒瀬は何も言えなかった。
それは、今日いちばんずるい言葉だった。
「……消してない?」
黒瀬は小さく聞いた。
「消してない。増えてない」
「紙には?」
「昼の一行だけ」
「今日の今のは?」
「今は書かない」
黒瀬は顔を上げた。
「書かないの?」
「うん。今は話したから」
「そっか」
「でも、忘れない」
「普通に言うな」
「うん」
「ずるい」
湊は少しだけ笑った。
黒瀬も、少しだけ笑った。
湊の部屋と昼の机は、同じじゃない。
同じ戻れる場所でも、近さが違う。
昼の机には四人分の距離があり、逃げ道が多い。
夜の部屋は、近すぎる。
でも、昼の机があるから。
黒瀬は今日も、湊の部屋でカフェラテを飲むことができた。




