ep.155 昼の机、五分だけ解散する
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、藤堂莉子は勢いよく立ち上がった。
「戻れる場所セッティング、開始――」
「言うな」
黒瀬琉衣奈は、反射で止めた。
莉子は片手を上げたまま固まる。
「まだ最後まで言ってない」
「言いかけた」
「戻れる場所セッティング、くらいならもう定番にしてもよくない?」
「よくない」
「厳しい」
莉子は不満そうに言いながらも、いつものように机を少し動かそうとした。
その時だった。
教室の扉の方から声が飛んでくる。
「藤堂さん、ちょっといい?」
別のクラスメイトだった。
莉子は振り向く。
「ん? 何?」
「購買の列やばいから、先に来てって。昨日言ってた限定パン、もう少ないらしいよ」
「限定パン!」
莉子の目が一瞬で輝いた。
黒瀬は呆れた顔をする。
「戻れる場所よりパン?」
「違う。これは昼休みの生存戦略」
「言い方」
「五分で戻る!」
莉子は普通ノートを机に置いたまま、財布だけ持って教室を飛び出した。
黒瀬はその背中を見送り、ため息をつく。
「騒がしい」
すると今度は、白瀬栞が席から立った。
「すみません。私も少し図書委員の用事があります」
「白瀬も?」
「はい。返却期限の確認だけなので、すぐ戻ります」
「うん」
黒瀬は普通に頷いた。
白瀬は少しだけ微笑む。
「戻ります」
その一言に、黒瀬は少しだけ目を止めた。
戻ります。
ただの用事の報告なのに、昨日からの流れのせいで、妙に引っかかる。
「……うん。待ってる」
言ってから、黒瀬は自分で少し固まった。
白瀬も少しだけ目を丸くした。
けれど、すぐに静かに頷く。
「はい」
白瀬はノートを閉じ、教室を出ていった。
机が、まだ寄りきっていない。
黒瀬は自分の机と、空いたままの莉子の机、白瀬の机を見た。
そこへ湊が弁当代わりのパンを持って戻ってくる。
「黒瀬」
「何」
「先生にプリント届けるよう頼まれた」
「朝比奈も?」
「すぐ戻る」
黒瀬は、またその言葉に反応してしまった。
すぐ戻る。
今日は、戻るという言葉がやけに多い。
「……うん」
黒瀬は小さく頷いた。
「わかった」
湊は少しだけ黒瀬を見た。
何か言いたそうな顔をする。
黒瀬は先に言った。
「消してない?」
湊はすぐに答える。
「消してない。増えてない」
「ならいい」
「紙にも増えてない」
「そこまで聞いてない」
「でも報告」
「必要だけど」
黒瀬は顔を赤くしながら視線を逸らした。
湊は少しだけ笑い、プリントを持って教室を出ていった。
そして、黒瀬だけが残った。
四つの机のうち、三つは少しだけずれたまま。
莉子の普通ノートは机に置きっぱなし。
白瀬の席には、きれいに閉じられたノート。
湊の席には、まだ鞄。保留ノートはその中だろう。
黒瀬は、椅子に座ったまま、何となく机を見た。
昨日まで、四人で机を寄せると少し照れた。
戻れる場所と呼んでしまったせいで、ただの机が変に見えた。
でも、今は少し違う。
机が広い。
物理的に広いわけではない。
教室の中にいつも通り机は並んでいるし、昼休みで人もいる。
それなのに、いつも四人で寄せている場所だけが、少し広く感じた。
「……五分でしょ」
黒瀬は小さく呟いた。
莉子は限定パンを買ってくるだけ。
白瀬は図書委員の用事だけ。
湊はプリントを届けるだけ。
すぐ戻る。
そう言っていた。
だから別に、寂しがるようなことではない。
ないのに、机が広い。
黒瀬は自分の余白ノートを開いた。
昼食の前に書くことではない気もしたが、今書かないと逃げてしまいそうだった。
シャーペンを持つ。
少し迷ってから、余白に一行書いた。
――戻れる場所は、一人だと少し広い。
書いてから、じっと見る。
これは、かなり本音だ。
恥ずかしい。
見せるかどうかは、まだ決めない。
でも、消さない。
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
「ただいま、るいな!」
莉子だった。
片手に購買袋を持ち、息を少し弾ませている。
黒瀬は、心臓が一瞬跳ねた。
ただいま。
その言葉が、思ったより自然に飛んできたからだ。
「……早」
「限定パン、ぎりぎり買えた。あと、るいなにも一個買ってきた」
「頼んでない」
「戻れる場所へのお土産」
「その言い方やめて」
黒瀬はむくれた。
けれど、莉子が机へ戻ってきた瞬間、さっきまで広く見えていた場所が少しだけ狭くなった。
いや、ちょうどよくなった。
莉子は自分の机を少し引き寄せる。
「白瀬さんと朝比奈くんは?」
「用事。すぐ戻るって」
「そっか」
莉子は普通ノートを見て、それから黒瀬のノートへ目を向けた。
「何か書いた?」
「見ないで」
「見てない。でも顔」
「顔便利にするな」
「便利だもん」
莉子はにやっと笑ったが、覗き込もうとはしなかった。
少し前なら、絶対に見ようとしたはずだ。
黒瀬はそれに気づいて、少しだけ息を吐く。
「莉子」
「何?」
「……ただいまって、普通に言うな」
「え、だめだった?」
「だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
「良くない」
「どっち」
「半分」
「便利」
「便利にするな」
莉子は笑った。
その笑い声の後、白瀬が戻ってきた。
「戻りました」
白瀬はそう言って、席へ向かう。
黒瀬はまた少し固まった。
白瀬がそれに気づく。
「どうかしましたか」
「……何でもない」
莉子がすぐに言う。
「白瀬さん、今の“戻りました”が刺さってる」
「莉子」
「ごめん。浅瀬にする」
「泳ぐな」
白瀬は少しだけ首を傾げたが、黒瀬の表情を見て、何となく察したようだった。
「ただいま、の方がよかったでしょうか」
「白瀬!」
黒瀬の声が裏返る。
莉子が爆笑しかけて口を押さえた。
「白瀬さん、急に強い」
「言葉を選び間違えましたか」
「間違えてないけど、強い」
黒瀬は顔を赤くしてノートを閉じた。
その動きで、白瀬がノートの存在に気づく。
けれど何も聞かなかった。
机が三つ、近づく。
あと一つ。
少しして、湊が戻ってきた。
「戻った」
その一言に、三人が同時に湊を見た。
湊は少し驚く。
「何?」
莉子が笑いをこらえながら言う。
「今日、戻る日」
「戻る日?」
「五分だけ解散して、みんな戻ってきた日」
湊は黒瀬を見る。
黒瀬は視線を逸らした。
湊は少しだけ察したように、自分の机をいつもの位置へ寄せる。
四つの机が揃った。
いつもの形。
さっきまで広かった場所が、戻ってきた。
黒瀬は、そのことに少しだけ安心している自分に気づいた。
莉子が限定パンの袋を開く。
「はい、るいな。お土産」
「だから頼んでない」
「でも買ってきた」
「……ありがと」
言ってから、黒瀬は顔を赤くした。
莉子は一瞬、固まった。
それからにやっとする。
「るいなが普通にお礼言った」
「言うな」
「記録したい」
「だめ」
「心に保存」
「それもやめて」
「無理」
白瀬は静かに弁当箱を開いた。
湊もパンを出す。
ようやく昼休みが始まった。
いつもの四人の机。
ただ、今日は五分だけ解散したあとの机だった。
莉子が普通ノートを開く。
「これは書く」
「何を」
黒瀬が警戒する。
「五分だけばらけても、戻ってきた話」
「名前出す?」
「出す。四人の話だから」
莉子は書いた。
――五分だけ解散して、戻ってきた。机、ちゃんと残ってた。
白瀬がそれを見て微笑む。
「良い一行ですね」
「白瀬さんに認められた」
湊も頷く。
「いいな」
黒瀬は少し黙ってから、自分のノートを開いた。
さっきの一行を、四人に向ける。
――戻れる場所は、一人だと少し広い。
莉子が読んで、少しだけ口を閉じた。
白瀬も静かに読む。
湊もその一行を見た。
誰もすぐに茶化さなかった。
「黒瀬さん」
白瀬が言った。
「はい」
なぜかまた返事をしてしまう。
「戻ってきてよかったです」
黒瀬は一気に顔が熱くなった。
「普通に言うな」
「でも、そう思ったので」
「白瀬、今日もずるい」
莉子も小さく言った。
「私も、買って戻ってきてよかった」
「莉子まで」
「だって、一人だと広いって書かれたら、戻ってきてよかったってなるじゃん」
「なるな」
「無理」
湊は保留ノートを開いた。
黒瀬が見る。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書いた。
そして、四人の真ん中へ置く。
――五分だけばらけても、戻ってくるなら場所は残る。
黒瀬は、その一行を読んで、すぐには何も言えなかった。
五分だけばらけても。
戻ってくるなら。
場所は残る。
それは今日の机だけの話ではない気がした。
誰かが少し離れても。
言葉を見せられなくても。
逃げ道を使っても。
戻ってくるなら、場所は残る。
「……今日のは」
黒瀬は小さく言った。
「うん」
「けっこう好き」
言ってしまった。
自分で気づいた時には遅かった。
莉子が目を丸くする。
白瀬も少しだけ驚いた顔をする。
湊は固まった後、静かに頷いた。
「ありがとう」
「普通に礼言うな!」
黒瀬は顔を真っ赤にした。
「今のなし」
「無理」
湊が言う。
「これは無理」
「朝比奈!」
莉子が普通ノートに書きかける。
黒瀬が睨む。
「莉子!」
「書かない! これは心に保存!」
「それもやめて!」
「無理!」
昼休みの机は、少しだけ騒がしくなった。
でも、その騒がしさも戻ってきたものの一部だった。
放課後。
四人は少しだけ教室に残った。
黒瀬は昼に書いた一行を見返す。
――戻れる場所は、一人だと少し広い。
その下に、もう一行書いた。
――でも、戻ってくるとちょうどよくなる。
これは、見せてもいい気がした。
黒瀬はノートを湊へ向ける。
湊は読んで、少し笑った。
「いいな」
「普通に言うな」
「でも、いい」
「二回言うな」
莉子も読んで頷く。
「ちょうどよくなる、いいね」
白瀬も静かに言う。
「今日の机に合っています」
「白瀬まで」
黒瀬は顔を赤くしたが、ノートを閉じなかった。
今日は、少し見せてもよかった。
夜。
黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを両手で包んでいた。
「今日、五分だけ一人だった」
「うん」
「机、広かった」
「うん」
「莉子が戻ってきて、白瀬が戻ってきて、朝比奈が戻ってきたら」
「うん」
「ちょうどよくなった」
湊は静かに頷いた。
「昼の机、ちゃんと戻れる場所だったな」
「うん」
「普通に受け取るな」
「でも、黒瀬がそう書いたから」
「……書いたけど」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「朝比奈の一行」
「五分だけばらけても、戻ってくるなら場所は残る?」
「うん」
「消さない」
「見せない二行も?」
「消してない。増えてない」
「白瀬の一行は?」
「白瀬さんが消してないって言ってた」
「莉子の普通ノートも?」
「たぶん消さないだろ」
「うん」
黒瀬は少し安心したように息を吐いた。
「戻ってくるなら、残るんだね」
「うん」
「五分でも?」
「五分でも」
「もっと長くても?」
湊は少しだけ間を置いた。
「戻ってくるなら」
黒瀬はクッションを抱えた。
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
湊は少し笑った。
昼の机は、五分だけ解散した。
莉子が購買へ行き、白瀬が図書委員の用事へ行き、湊が先生にプリントを届けた。
黒瀬は一人で机に残り、その場所が少し広いことに気づいた。
でも、みんな戻ってきた。
戻ってくるなら、場所は残る。
そのことを、黒瀬は今日、少しだけ信じられるようになった。




