ep.153 白瀬のノートに、初めて迷った線が残る
黒瀬琉衣奈は、朝の教室で自分のノートを開いた。
昨日の夜に書いた一行が、まだそこに残っている。
――普通ノートもツッコミ帳も、どっちも莉子。
見返した瞬間、少しだけ顔が熱くなった。
これは、まだ莉子には見せていない。
見せるかどうかも決めていない。
けれど、消す気はなかった。
莉子は昨日、ツッコミ帳と普通ノートの間で悩んでいた。
書く場所を選ぶのは、言葉の扱い方を選ぶこと。
白瀬栞がそう言った。
あの言葉は、莉子にも刺さった。
黒瀬にも、少し刺さった。
たぶん湊にも届いた。
莉子はツッコミ帳に書いた。
――るいな語:嫌だけど、なくなったら困る=かなり大事。
あれは危険物だ。
今すぐ破りたい。
でも、破られたら少し困る気もする。
だから余計にむかつく。
「……めんどくさ」
黒瀬が小さく呟いた時、隣から静かな声がした。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
白瀬だった。
今日も、きちんとした姿勢で席に着く。
今日も髪には、黒瀬が選んだヘアピン。
黒瀬はそのヘアピンをいつものように見て、いつものように気づかれた。
「今日も確認ありがとうございます」
「だから確認って言うなって」
「すみません」
「謝るの早い」
そこまでは、いつも通りだった。
けれど黒瀬は、そのあとすぐに違和感に気づいた。
白瀬のノート。
いつも整っているノート。
日付、見出し、本文、余白。
線も文字も、白瀬らしく静かで、乱れがない。
そのはずだった。
なのに、今日のページの端に、薄く消した跡があった。
消しゴムで何度かこすったような、淡い灰色の線。
そこだけ、白瀬のノートにしては少し迷っている。
黒瀬は思わず見てしまった。
すぐに目を逸らす。
見ない方がいい。
そう思った。
でも、気になった。
白瀬が気づく。
「黒瀬さん」
「何」
「見えましたか」
黒瀬は少し固まった。
「……ちょっと」
「そうですか」
「ごめん。見るつもりじゃ」
「いえ。隠していなかったので」
白瀬は、自分のノートに視線を落とした。
その横顔が、いつもより少しだけ静かだった。
いや、白瀬はいつも静かだ。
でも今日は、その静けさの中に、何かを押さえている感じがあった。
「消したの?」
黒瀬は聞いた。
聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。
でも白瀬は怒らなかった。
「書き直しました」
「珍しいね」
「はい」
「白瀬のノート、いつも綺麗だから」
「ありがとうございます」
「普通に受け取る」
「練習中なので」
「それ、莉子が好きそう」
黒瀬がそう言うと、白瀬は少しだけ笑った。
けれど、その笑いはすぐに消える。
「今日は、少し書くのに迷いました」
白瀬が言った。
黒瀬は黙った。
迷った。
白瀬が。
それだけで、何だか少し胸の奥が動いた。
白瀬はいつも言葉を選ぶ。
逃げ道があるのに逃げにくいところへ、静かに言葉を置く。
それが上手い人だと思っていた。
でも、その言葉を置く前に、白瀬も迷う。
消して、書き直す。
当たり前のことなのに、黒瀬は少し驚いていた。
「見せなくていいやつ?」
黒瀬は小さく聞いた。
白瀬はすぐには答えなかった。
ノートの端に視線を落とす。
消された線の跡。
その近くに、まだ新しい文字がある。
黒瀬は見ようとしなかった。
見たくないわけではない。
むしろ気になる。
でも、見ない方がいい気がした。
少しして、白瀬は言った。
「まだ、見せない一行です」
黒瀬は息を止めた。
見せない一行。
その言葉を聞いた瞬間、湊の見せない二行が頭に浮かんだ。
スマホの中にあった二行。
まだ見せられていない二行。
その一行目はまだ紙に来ていない。
いや、まだその段階ではない。
けれど、黒瀬はずっと待っている。
消さないで。
なかったことにしないで。
いつか会いに来て。
そう言ってしまった。
そして今、白瀬にも見せない一行ができた。
「……そっか」
黒瀬は、それだけ言った。
白瀬は少しだけ黒瀬を見た。
「気になりますか」
「気になる」
黒瀬は正直に答えた。
それから、すぐに付け加える。
「でも、見せなくていい」
白瀬の目が少し揺れた。
「黒瀬さん」
「何」
「待ってくれるんですか」
「……うん」
言ってから、黒瀬は少し照れた。
待つ。
最近、ずっと使っている言葉。
湊の見せない二行を待つ。
莉子が書くか書かないかを待つ。
白瀬の一行を待つ。
何だか、自分が待つ係みたいになっている気もする。
でも、悪くはない。
「消さないで」
黒瀬は言った。
自然に出た。
白瀬は目を丸くした。
「はい」
その返事は、小さかった。
でも、しっかりしていた。
「消しません」
「ならいい」
黒瀬はそう言って、自分のノートに視線を戻した。
胸の奥が少しだけ熱い。
白瀬の見せない一行。
何が書いてあるのかは知らない。
でも、消さないと言ってくれた。
なら、今はそれでいい。
そこへ莉子が教室に入ってきた。
「おはよー。あれ、何か二人とも静かに大事な話した顔」
「莉子」
黒瀬が低い声を出す。
「はい、深掘り禁止?」
「禁止」
「了解。今日は浅瀬」
「泳ぐな」
莉子は机に鞄を置き、普通ノートを出した。
今日はツッコミ帳ではない。
黒瀬は少しだけ安心した。
莉子は白瀬のノートを見て、すぐに気づいたらしい。
「白瀬さん、今日ノートに消した跡ある?」
白瀬が少しだけ顔を上げる。
黒瀬が莉子を睨む。
「莉子」
「あ、ごめん。見えちゃった」
「見えちゃったじゃない」
「ほんとに。白瀬さんのノートっていつも綺麗だから、逆に目立って」
莉子はそこで少し口を閉じた。
茶化さない方がいいと判断したのだろう。
白瀬は静かに言った。
「今日は、見せない一行があります」
莉子の表情が変わった。
目が丸くなる。
それから、湊の席をちらっと見る。
まだ湊は来ていない。
「白瀬さんにも?」
「はい」
「見せない一行」
「はい」
莉子は普通ノートを開きかけた。
でも、すぐに手を止めた。
「これは書かない方がいいやつ?」
黒瀬が莉子を見る。
白瀬は少し考えた。
「存在だけなら、書いても大丈夫です」
「存在だけ?」
「はい。中身は、まだ見せません」
莉子は頷いた。
そして普通ノートに書いた。
――白瀬さんにも、まだ見せない一行ができた。中身は書かない。
書いた後、莉子はペンを止めた。
「消さない?」
莉子が聞く。
白瀬は静かに頷いた。
「消しません」
「そっか」
莉子は少しだけ笑った。
「じゃあ、私は存在だけ覚えとく」
「ありがとうございます」
「普通に礼言われた」
「本当なので」
「出た」
黒瀬と莉子の声が重なった。
その時、湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「朝比奈くん、おはよ」
湊は三人の空気を見て、少しだけ足を止めた。
「何かあった?」
莉子が言う。
「白瀬さんにも、見せない一行ができました」
「莉子」
黒瀬が止める。
「存在だけならいいって言われたから」
「そうだけど」
湊は白瀬を見る。
「見せない一行?」
「はい」
白瀬は静かに頷いた。
「まだ、見せない一行です」
湊は少しだけ黙った。
それから、黒瀬を見る。
黒瀬は何も言わない。
湊はわかったように頷いた。
「消さない?」
白瀬の目が少しだけ揺れた。
黒瀬も、莉子も湊を見る。
湊の言葉は、黒瀬がいつも湊に言っている言葉と同じだった。
白瀬は静かに答える。
「消しません」
「なら、いいと思う」
湊が言った。
白瀬はほんの少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます」
黒瀬はそのやり取りを見て、胸の奥が少し温かくなった。
自分が湊に使っていた言葉が、白瀬にも届いた。
消さない?
消しません。
それだけの短いやり取りなのに、妙に大きい。
湊はいつものように黒瀬にも言った。
「俺の二行も、消してない。増えてない」
「……聞いてない」
「でも、報告」
「必要だけど」
黒瀬は顔を赤くして視線を逸らした。
莉子が普通ノートに書く。
――消してない確認、増殖中。
「莉子」
「名前出してない」
「出してないけど」
「でも、これは普通ノート案件でしょ」
白瀬が少し笑った。
「はい。たぶん」
「白瀬さん認定」
昼休み。
四人は机を寄せた。
今日は少しだけ空気が違った。
湊の見せない二行。
白瀬の見せない一行。
黒瀬の余白には、まだ莉子に見せていない一行がある。
莉子にも、書くか書かないか迷った言葉がたぶんある。
それぞれ、見せないものを持っている。
でも、机には集まっている。
黒瀬は不思議な気分だった。
見せないものがあると、普通は距離ができそうなのに。
今日は、少しだけ近く感じる。
白瀬が弁当箱を開きながら言った。
「見せないものがあると、話しにくくなると思っていました」
「今は?」
湊が聞く。
「少し違います」
「どう違う?」
白瀬は少し考える。
「見せないと決めていることを、周りが待ってくれているとわかると、逆に話せることもある気がします」
黒瀬は箸を止めた。
莉子もパンを持ったまま固まる。
湊は静かに頷いた。
「それ、わかる気がする」
黒瀬は小さく言った。
「見せないって言えるのも、ちょっと大事なのかも」
言ってから、顔が熱くなった。
白瀬が黒瀬を見る。
「はい。私も、そう思います」
「普通に受け取るな」
「でも、嬉しかったので」
「ずるい」
莉子が普通ノートを開く。
「これは書いていい?」
「名前出さないなら」
黒瀬が言う。
白瀬も頷く。
莉子は書いた。
――見せないと言える場所は、たぶん少し安全。
湊がそれを見て、保留ノートを出した。
黒瀬がすぐに反応する。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書き、四人に見せた。
――見せない一行が増えても、机は狭くならなかった。
黒瀬はそれを読んで、少しだけ息を止めた。
莉子も普通ノートを見たまま頷く。
白瀬は静かに微笑んだ。
「良い一行ですね」
「白瀬さんに言われると、何か今日すごく意味ある」
莉子が言う。
「そうでしょうか」
「うん。当事者だから」
白瀬は少しだけ顔を赤くした。
黒瀬は湊の一行をもう一度見る。
見せない一行が増えても、机は狭くならなかった。
本当にそうだった。
湊の見せない二行があり、白瀬の見せない一行があり、自分たちはそれを知らない。
それでも、机は四人分のままだった。
むしろ、少しだけあたたかい。
「消さないで」
黒瀬が言った。
「消さない」
湊が答える。
白瀬も静かに言う。
「私の一行も、消しません」
「うん」
黒瀬は頷いた。
放課後。
黒瀬は帰り支度をしながら、白瀬のノートをちらりと見た。
消した跡はまだある。
その近くに、見せない一行がある。
内容は知らない。
でも、そこにある。
白瀬がノートを閉じる前に、黒瀬は言った。
「白瀬」
「はい」
「その一行」
「はい」
「いつか見せてもいいって思ったら、見せて」
白瀬は少しだけ目を見開いた。
「はい」
「でも、無理なら無理でいい」
「はい」
「消さないなら」
「消しません」
「ならいい」
白瀬は少しだけ微笑んだ。
「黒瀬さん」
「何」
「待つのが、上手くなりましたね」
黒瀬の顔が一気に赤くなる。
「言うな!」
「すみません」
「謝るの早い」
莉子が遠くで普通ノートを開きかけた。
黒瀬が睨む。
「莉子!」
「書かない! 今のは心に保存!」
「それもやめて!」
「無理!」
教室にいつもの声が戻る。
けれど、白瀬のノートには、まだ見せない一行が残っていた。
夜。
黒瀬は湊の部屋でカフェラテを飲みながら、その話をした。
「白瀬にも、見せない一行ができた」
「うん」
「気になる」
「うん」
「でも、待つ」
「うん」
「消さないって言ったから」
「うん」
「それでいい」
湊は静かに頷いた。
「黒瀬がそう言ったの、白瀬さん助かったと思う」
「普通に言うな」
「でも、本当に」
「本当なら余計」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「見せないもの、増えた」
「うん」
「でも、机は狭くならなかった」
「今日書いたやつ?」
「うん」
「消さない」
「うん」
「見せない二行も?」
「消してない。増えてない」
「白瀬の一行も?」
「白瀬さんが消さないって言った」
「うん」
黒瀬は少しだけ安心したように息を吐いた。
「見せないものがあるの、怖いけど」
「うん」
「消してないって言えるなら、ちょっと大丈夫」
「そうだな」
「普通に受け取るな」
「でも、そう思った」
「ずるい」
湊は少し笑った。
白瀬のノートに、初めて迷った線が残った。
消された跡。
書き直した跡。
そして、まだ見せない一行。
整ったノートの端に残ったその迷いを、黒瀬は急かさなかった。
消さないで。
ただ、それだけ言った。
そして白瀬は、消しませんと答えた。
見せないものが増えても、四人の机は狭くならなかった。




