ep.152 莉子、ツッコミ帳と普通ノートの使い分けに悩む
藤堂莉子は、朝の教室で二冊のノートを並べていた。
一冊は、小さなメモ帳。
通称、ツッコミ帳。
黒瀬琉衣奈語録、白瀬栞の「本当なので」系列、朝比奈湊の無自覚刺し、四人の間に発生した妙な沈黙や赤面や逃亡未遂など、かなり危険な記録が詰まっている。
もう一冊は、最近できた普通ノート。
最初は確認テスト用のつもりだった。
単語を書く。
公式を書く。
白瀬さんの説明を写す。
湊の雑だけど妙に残る例えを書く。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、いつの間にか普通ノートの端にも、授業とは関係ない一行が増えている。
――普通ノートの端っこにも、ちゃんと点数は返ってくる。
――保留ノートに、私がいた。かなりずるい。
――どのノートにも、本人が少し出る。隠れても、たぶん出る。
――名前がない方が、まだ動ける時がある。
ツッコミ帳とは違う。
でも、完全に勉強用でもない。
その境目が、最近かなり面倒くさい。
「……むず」
莉子が呟くと、隣から黒瀬が顔を上げた。
「何が」
「ノート」
「勉強?」
「違う。こっち」
莉子は二冊を指差した。
黒瀬はまずツッコミ帳を見て、露骨に警戒した。
「危険物」
「言い方」
「合ってるでしょ」
「否定はしない」
「しないんだ」
黒瀬は次に普通ノートを見る。
「で、何で二冊並べて悩んでるの」
「どっちに書くべきかわからないことが増えた」
「自業自得」
「冷たい」
「だって莉子が勝手に増やしたんじゃん」
「そうなんだけどさ」
莉子はツッコミ帳を指で軽く叩いた。
「こっちは書きやすいの。るいなが顔赤いとか、白瀬さんがまた本当なのでって言ったとか、朝比奈くんが無自覚に刺したとか」
「書かなくていい」
「でも書きやすい」
「書かなくていい」
「二回言った」
「大事だから」
莉子は次に普通ノートを見た。
「こっちはさ、書くとちょっと自分が出る」
黒瀬は少しだけ黙った。
その言い方には覚えがある。
自分の余白ノートも、そうだ。
人のことを書いているつもりなのに、気づくと自分が出る。
好きとか、安心とか、むかつくとか、待つとか、逃げないとか。
書いてしまってから、あ、と気づく。
「……まあ、わかる」
黒瀬が小さく言うと、莉子が目を丸くした。
「るいな、普通に言った」
「言うな」
「今のツッコミ帳案件」
「書いたら破る」
「怖い」
莉子は笑ったが、ツッコミ帳には手を伸ばさなかった。
その代わり、普通ノートを開いたままペンを持つ。
でも、書けない。
そこへ白瀬が教室に入ってきた。
「おはようございます」
「おはよー、白瀬さん」
「……おはよ」
黒瀬はいつものように白瀬のヘアピンを見る。
今日も、黒瀬が選んだものが髪に留まっている。
白瀬はそれに気づき、少しだけ微笑んだ。
「今日も確認ありがとうございます」
「確認って言うな」
「すみません」
「謝るの早い」
莉子は反射的にツッコミ帳へ手を伸ばしかけた。
が、止めた。
黒瀬がすぐに見る。
「今、出そうとした」
「出そうとしたけど、止めた」
「珍しい」
「成長です」
「自分で言うな」
白瀬は机の上に並んだ二冊のノートを見て、小さく首を傾げた。
「藤堂さん、今日は二冊とも出しているんですね」
「うん。悩み中」
「悩み中?」
「ツッコミ帳に書くか、普通ノートに書くか、書かないか」
白瀬は少しだけ考えた。
それから、いつもの静かな声で言う。
「書く場所を選ぶのは、言葉の扱い方を選ぶことかもしれません」
莉子のペンが止まった。
黒瀬も止まった。
朝の教室のざわめきの中で、その一言だけが妙にきれいに残る。
「……白瀬さん」
「はい」
「朝から強い」
「すみません」
「謝らなくていいけど、刺さる」
莉子は普通ノートに書いた。
――書く場所を選ぶのは、言葉の扱い方を選ぶこと。
書いてから、白瀬を見る。
「引用していい?」
「もう書いていますね」
「事後確認」
「では、大丈夫です」
「許可出た」
黒瀬が横から覗き込む。
「それ、普通ノートなんだ」
「うん。これはツッコミじゃない」
「まあ、白瀬の言葉だしね」
「るいな、白瀬さんの言葉に弱いよね」
「莉子」
「はい、今のはツッコミ帳に書きません」
「ほんと?」
「ほんと。心には保存」
「それもやめて」
「無理」
白瀬は少し笑った。
そこへ湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「朝比奈くん、おはよ」
湊は机の上の二冊のノートを見て、少しだけ目を留めた。
「莉子さん、今日はノート会議?」
「そう。議題、私のノートが増えたせいで逆に面倒になってる件」
「自分で議題にしたのか」
「だって困ってるし」
湊は自分の席に鞄を置き、いつものように黒瀬へ短く言う。
「消してない。増えてない」
「聞いてない」
「でも、朝だから」
「朝だからって何」
「報告の時間かと」
「定時連絡にするな」
黒瀬は顔を赤くしてむくれる。
莉子はツッコミ帳へ手を伸ばした。
しかし、すぐに止める。
「書かないのか?」
湊が聞くと、莉子は真顔で答えた。
「これはね、ツッコミ帳案件なんだけど、最近のるいなは朝の報告をかなり大事にしてるから、書くと怒られる」
「わかってるなら言わないで」
黒瀬が睨む。
「でも言わないと私が消化不良」
「消化しなくていい」
莉子は普通ノートに一行だけ書いた。
――書きたいけど、書かない方がいい時がある。かなりある。
白瀬がそれを見て頷く。
「良い一行ですね」
「白瀬さんに褒められた」
「本当なので」
「出た」
黒瀬と莉子の声が重なった。
湊が笑う。
黒瀬がすぐに睨む。
「笑うな」
「今のは無理だろ」
「無理って言うな」
いつもの空気になった。
けれど、莉子の机の上には、まだ二冊のノートが並んでいる。
昼休み。
四人はいつものように机を寄せた。
昨日よりは照れない。
けれど、完全に平気でもない。
莉子は机を動かしながら言った。
「戻れる場所セッティング、三日目」
「まだ言う」
黒瀬が呆れる。
「継続は力なり」
「莉子が言うと信用できない」
「ひど」
机が寄せられる。
白瀬のノート。
黒瀬の余白ノート。
莉子の二冊。
湊の鞄の中にある、名前のない保留ノート。
莉子は二冊を机に置いて、また悩んだ。
「これさ」
「まだ悩んでるの?」
黒瀬が聞く。
「悩むよ。だって、今の“戻れる場所セッティング三日目”は完全にツッコミ帳なんだけど」
「書かなくていい」
「でも白瀬さんが“机を寄せるだけで戻れる場所になる”みたいなこと言ったら普通ノート案件になる」
「白瀬に責任を押しつけるな」
白瀬は少し考えた。
「同じ出来事でも、どこを見るかで書く場所が変わるのかもしれません」
莉子はまた固まった。
「白瀬さん、今日ずっと私の普通ノートを育てに来てる?」
「育てているつもりはありません」
「育ってる」
莉子は普通ノートに書く。
――同じ出来事でも、どこを見るかで書く場所が変わる。
黒瀬がそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「莉子、今日ちゃんとしてる」
「今日だけ?」
「半分」
「便利にするな」
湊がパンを食べながら言った。
「でも、莉子さん最近ちゃんと選んでるよな」
莉子の手が止まった。
「朝比奈くん」
「うん?」
「そういうの、不意打ちで言うのやめて」
「悪い」
「謝るの早い」
「でも、本当にそう思った」
「二回目が刺さる」
莉子は少しだけ照れて、普通ノートの端に書いた。
――ちゃんと選んでる、と言われた。刺さる。
黒瀬が覗こうとする。
「見せるやつ?」
「……見せてもいい」
莉子はノートを少し向ける。
黒瀬は読んで、小さく笑った。
「莉子も刺される側になった」
「やめて」
「いつも人を刺してるから」
「ツッコミは刺すものじゃないよ。突くもの」
「もっと悪い」
白瀬が静かに言う。
「でも、藤堂さんが選んでいることは、私も感じています」
「白瀬さんまで」
「はい」
「今日、二人して刺す」
莉子は両手で普通ノートを押さえた。
「こっちのノート、本当に危険。自分が出る」
「だから言ったじゃん」
黒瀬が少し得意げに言う。
「るいな先輩」
「先輩にするな」
「余白ノート歴、長いし」
「そんな歴いらない」
湊は保留ノートを取り出した。
黒瀬がすぐに反応する。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書き、四人の真ん中に置いた。
――莉子さんが書く場所を選ぶようになって、ツッコミも少し優しくなった気がする。
莉子は、完全に黙った。
黒瀬が少し驚く。
白瀬も静かに莉子を見る。
莉子は一行を何度か読んだ。
「……朝比奈くん」
「うん」
「これ、ずるい」
「そうか」
「ずるいよ。優しくなったとか言うな」
「でも、そう思った」
「普通に言うな」
「ごめん」
「謝るの早い」
莉子は顔を赤くして、普通ノートを開いた。
そして書いた。
――優しくなったと言われた。ツッコミなのに。かなり困る。
黒瀬がそれを読んで、少し笑う。
「莉子、困ってる」
「困るよ。ツッコミ担当なのに優しいとか言われたら立場が」
「立場?」
「キャラ立ち」
「自分で言うな」
白瀬が微笑む。
「優しいツッコミ担当でも良いと思います」
「白瀬さんまで逃げ道をふさぐ」
「ふさいでいません」
「ふさいでる。逃げ道つきの直球なのに、逃げにくいやつ」
黒瀬が笑う。
「それ、前に莉子が言ったやつ」
「言った。白瀬さん用語」
「用語にしないでください」
白瀬は困ったように笑った。
放課後。
自習会はなかったが、四人は少しだけ教室に残った。
莉子は二冊のノートを見比べている。
ツッコミ帳。
普通ノート。
どちらも、自分のノートだ。
でも、書かれる言葉は少し違う。
「莉子」
黒瀬が声をかけた。
「何?」
「ツッコミ帳、嫌だけど」
「うん」
「なくなったら、たぶん困る」
莉子は固まった。
手に持っていたペンが止まる。
黒瀬は自分で言ってから、顔を赤くした。
「今のなし」
「無理」
莉子は即答した。
けれど、いつものように茶化せなかった。
「……るいな」
「何」
「それ、ずるい」
「ずるいって言うな」
「だって、そういうの普通に言うの反則」
「普通に言ってない」
「言ったよ」
「言ってない」
「言った」
「うるさい」
黒瀬はそっぽを向く。
莉子はツッコミ帳を見た。
嫌だけど、なくなったら困る。
黒瀬がそう言った。
ツッコミ帳は危険物扱いされている。
何度も「書くな」と怒られている。
でも、なくなったら困る。
つまり、それも四人の戻れる場所の一部になっているのかもしれない。
莉子は、ツッコミ帳を開いた。
黒瀬が身構える。
「何書くの」
「これは、こっちに書く」
莉子はツッコミ帳に丁寧に書いた。
――るいな語:嫌だけど、なくなったら困る=かなり大事。
「莉子!」
「これはツッコミ帳案件」
「危険物!」
「でも消さない」
「消して」
「やだ」
莉子はすぐに普通ノートも開いた。
その隣に一行書く。
――ツッコミ帳も、戻れる場所の一部だったらしい。
黒瀬はそれを見て、何も言えなくなった。
白瀬が静かに頷く。
「どちらも藤堂さんのノートですね」
「白瀬さん」
「はい」
「今日、最後まで強い」
「すみません」
「謝らなくていいけど」
湊は保留ノートを閉じた。
「莉子さんのツッコミ帳、嫌だけど助かる時ある」
「朝比奈くんまで」
「うん」
「やめて。ほんとに照れる」
莉子はツッコミ帳で顔を半分隠した。
黒瀬が少し笑う。
「隠れる場所、それなんだ」
「うるさい」
夜。
黒瀬は湊の部屋でカフェラテを飲みながら、その話をした。
「莉子、今日かなり照れてた」
「黒瀬が言ったからだろ」
「何を」
「ツッコミ帳、なくなったら困るって」
「……言ったけど」
「うん」
「普通に言うな」
「でも、いい言葉だった」
「二回目は禁止」
湊は少し笑った。
黒瀬はカフェラテを飲む。
「ツッコミ帳、嫌だけど」
「うん」
「莉子がいなくなるみたいで、なくなったら困る」
湊は静かに頷いた。
「そうだな」
「普通に受け取るな」
「受け取りたかった」
「ずるい」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「消してない?」
「消してない。増えてない」
「紙には?」
「今日は莉子さんの一行が増えた」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は保留ノートを開いて見せた。
――莉子さんが書く場所を選ぶようになって、ツッコミも少し優しくなった気がする。
黒瀬はその一行をもう一度読んだ。
「これ、莉子かなり刺さってた」
「うん」
「消さないで」
「消さない」
「莉子の普通ノートも、ツッコミ帳も」
「うん」
「どっちも莉子だから」
湊は黒瀬を見た。
「それ、明日莉子さんに言ったら?」
「言わない」
「いいと思うけど」
「言わない。死ぬ」
「死なない」
「死ぬ」
黒瀬はクッションを抱えた。
でも、その言葉を自分の余白ノートに書いた。
――普通ノートもツッコミ帳も、どっちも莉子。
書いて、しばらく見つめる。
明日見せるかどうかは、まだ決めない。
ただ、消さない。
莉子は、ツッコミ帳と普通ノートの使い分けに悩んだ。
けれど、その悩みもまた、莉子自身の言葉になった。
書く場所を選ぶことは、言葉の扱い方を選ぶこと。
そして、どちらのノートにも、ちゃんと莉子がいた。




