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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.151 保留ノートの表紙に、まだ名前は書かない

翌朝、藤堂莉子は朝比奈湊の鞄を見ていた。


 正確には、鞄そのものではない。


 その中に入っているはずの、小さなグレーのノートを見ていた。


 保留ノート。


 白瀬栞がそう呼んだことで、いつの間にか四人の間でもその名前が定着しかけている。


 けれど、ふと莉子は気づいた。


「あれ?」


「何」


 黒瀬琉衣奈が、ノートを開きながら顔を上げる。


「朝比奈くんの保留ノートってさ」


「朝からその話?」


「大事なことに気づいた」


「嫌な予感しかしない」


 莉子は湊の席の方を見る。


 湊はちょうど教室に入ってきたところだった。


「おはよう」


「……おはよ」


「おはようございます」


「おはよ、朝比奈くん」


 挨拶が終わるのを待ってから、莉子はすぐに聞いた。


「朝比奈くん、そのノート、表紙に何も書かないの?」


 湊は鞄を置く手を止めた。


「ノート?」


「保留ノート」


 黒瀬が少しだけ反応する。


 白瀬も、静かに顔を上げた。


 湊は鞄から小さなグレーのノートを取り出す。


 表紙には、何も書かれていない。


 ただの無地。


 薄いグレー。


 角もまだきれいで、使い始めたばかりの新しさがある。


「確かに、何も書いてないな」


 湊が言う。


「でしょ? 普通、名前とか書かない?」


「名前?」


「保留ノートって」


「表紙に?」


「そうそう。黒瀬琉衣奈監修・朝比奈湊保留ノート、とか」


「莉子!」


 黒瀬が即座に声を上げる。


「何であたし監修なの」


「だって関係者筆頭じゃん」


「やめて」


「じゃあ、見せない二行管理ノート」


「もっとやめて!」


 黒瀬の顔が一気に赤くなる。


 莉子は笑ったが、今日はツッコミ帳を出さなかった。


 普通ノートもまだ開いていない。


 ただ本当に、気になったらしい。


 湊は表紙を見つめた。


「書くかどうか、考えたことなかったな」


「そうなんだ」


「うん」


 湊が表紙を指で軽くなぞる。


 黒瀬はそれを見て、少しだけ落ち着かなくなった。


 表紙に何かを書く。


 ただそれだけのことだ。


 けれど、保留ノートに名前がつくと、何かが決まってしまう気がする。


 見せない二行のためのノートなのか。

 見せてもいい一行のためのノートなのか。

 四人の距離を書くノートなのか。

 湊が言葉を整えるためのノートなのか。


 どれでもある。


 でも、どれか一つだけではない。


 黒瀬が黙っていると、白瀬が静かに言った。


「名前を書くと、役割が固定されてしまう気がします」


 教室の空気が少しだけ止まった。


 莉子が白瀬を見る。


「白瀬さん、朝から深い」


「深いでしょうか」


「深い。普通ノート案件」


「そうですか」


 黒瀬は白瀬の言葉を反芻した。


 役割が固定される。


 確かにそうだ。


 表紙に「保留ノート」と書いたら、それは保留するためのノートになる。


 「見せない二行ノート」と書いたら、湊の見せない二行のためだけのものみたいになる。


 「四人の記録」と書いたら、四人全員のものになりすぎる。


 どれも間違っていない。


 けれど、どれも少し違う。


「……名前ない方がいいかも」


 黒瀬は小さく言った。


 言ってから、自分で少し驚く。


 莉子も聞き逃さなかった。


「るいな、今けっこう普通に言った」


「言うな」


「でも聞こえた」


「聞くな」


「聞こえたものは仕方ない」


 莉子は普通ノートを開いた。


「これは書いていい?」


「何を書く気?」


「名前ない方がいいかも、って」


「だめ」


「即答」


「恥ずい」


「じゃあ抽象化する」


 莉子は少し考えてから、普通ノートに書いた。


 ――名前がない方が、まだ動ける時がある。


 黒瀬は横からそれを見て、少しだけ黙った。


「……莉子」


「何?」


「今日、ちょっと白瀬っぽい」


「褒めてる?」


「半分」


「便利にするな」


 白瀬が少し笑った。


「でも、良い一行だと思います」


「白瀬さんに認められた」


 莉子は少し得意げに笑った。


 湊は保留ノートの無地の表紙を見ている。


「名前がない方が、まだ動ける」


 湊が繰り返す。


 黒瀬がすぐに反応した。


「普通に受け取るな」


「でも、わかる気がした」


「本当なら余計」


 湊は少しだけ笑った。


 それから、ノートを開かずに机に置く。


 その表紙は、何も書かれていないまま。


 朝の光が薄く乗っていた。


「書かないでおく」


 湊が言った。


 黒瀬は少しだけ肩の力を抜いた。


「……うん」


 莉子が目を細める。


「るいな、安心した?」


「してない」


「した」


「してない」


「顔」


「莉子に言われるとむかつく」


「仕返しされる側の気持ち、どう?」


「最悪」


 黒瀬はむくれた。


 でも、完全には否定できなかった。


 安心した。


 たぶん。


 ノートの表紙に名前が書かれないことで、何かがまだ決まりきらないまま残った。


 それが少しだけありがたかった。


 昼休み。


 四人はいつものように机を寄せた。


 今日も少し照れる。


 昨日ほどではないが、まだ少しだけ意識する。


 莉子は机を動かしながら、


「戻れる場所セッティング、二日目」


と言った。


「やめて」


 黒瀬が即座に止める。


「でも二日目じゃん」


「カウントするな」


「こういうのは継続記録が大事でしょ」


「大事にするな」


 湊が少し笑う。


 白瀬も、机を寄せながら小さく言った。


「二日目でも、少し照れますね」


 黒瀬は固まった。


「白瀬まで言うの」


「はい」


「素直すぎ」


「黒瀬さんも、少しそう思っているように見えたので」


「見えすぎ」


 莉子は普通ノートを開きかけたが、黒瀬が睨む前に手を止めた。


「今のは心に保存」


「それもやめて」


「無理」


 昼食が始まって少し経った頃、莉子はまた湊のノートを見る。


 表紙は無地のまま。


 名前はない。


「名前ないとさ」


 莉子が言った。


「うん」


 湊が返す。


「何でも書ける感じあるよね」


「何でも?」


「うん。保留のことも、見せてもいい一行も、四人のことも、るいなのことも」


「莉子」


 黒瀬がすぐに止める。


「はいはい。でも、何でもっていうか、まだ決めてない感じ」


 白瀬が頷く。


「決めていないことが、今は必要なのかもしれません」


「白瀬さん、今日ずっと強い」


「すみません」


「謝らなくていいけど、刺さる」


 莉子はそう言いながら普通ノートへ書いた。


 ――決めていないことが、必要な時もある。


 黒瀬はその一行を見て、少しだけ目を伏せた。


 決めていないこと。


 名前をつけないこと。


 それは、逃げではないのかもしれない。


 保留。


 待機中。


 準備中。


 そういう曖昧な言葉でしか置いておけないものが、今は確かにある。


 湊が保留ノートを開いた。


 黒瀬が反応する。


「書くの?」


「うん」


「見せるやつ?」


「見せるやつ」


 湊は一行書いた。


 そして、四人の真ん中に置く。


 ――表紙に名前を書かないままでも、中身は少しずつ増えている。


 黒瀬はその一行を読んで、すぐに顔を赤くした。


「それ、あたしたちのことみたいに言うな」


「そうも読めるな」


「読むな」


「でも、少し思った」


「普通に言うな」


 湊は黙って黒瀬を見る。


 黒瀬は視線を逸らす。


 ノートに名前はない。


 けれど中身は増えている。


 四人の関係もそうだ。


 名前はまだない。


 友達、と言ってしまえば簡単かもしれない。

 でも、それだけでは少し足りない。


 ライバルでもある。

 聞く側でもある。

 待つ側でもある。

 戻れる場所を作る相手でもある。


 名前はない。


 でも、中身は増えている。


 それを湊に書かれると、やはり刺さる。


「消さないで」


 黒瀬は小さく言った。


「消さない」


「見せない二行も?」


「消してない。増えてない」


「今日の一行も?」


「消さない」


「ならいい」


 莉子が普通ノートに一行書く。


 ――名前がないノートの方が、今の朝比奈くんっぽい。


 湊がそれを見た。


「それ、ちょっとわかる」


「でしょ?」


「うん」


 黒瀬がむくれる。


「普通に受け取るな」


「莉子さんの一行だから?」


「そうじゃなくて」


「黒瀬のことも入ってる気がしたから?」


 黒瀬は固まった。


 湊は言ったあとで、少しだけ「あ」と顔をした。


 莉子が口を押さえる。


 白瀬も少しだけ目を丸くする。


「朝比奈」


 黒瀬の声が低い。


「悪い」


「謝るの早い」


「でも、そう思った」


「普通に言うな」


 黒瀬は焼きそばパンの袋を折った。


 顔が熱い。


 湊のノートに名前がないのが、今の湊らしい。


 そして、今の自分たちらしい。


 そう言われた気がした。


 放課後。


 四人は少しだけ教室に残った。


 今日は自習会ではない。


 ただ、いつもの机に何となく集まっている。


 机の上には、名前のない保留ノート。


 莉子の普通ノート。


 白瀬の整ったノート。


 黒瀬の余白ノート。


 黒瀬は自分のノートに一行書いた。


 ――名前がないまま増えていくの、ちょっと怖い。でも悪くない。


 書いてから、すぐにノートを伏せようとした。


 湊が気づく。


「見せないやつ?」


 黒瀬は少し迷った。


「……見せてもいい」


 ノートを湊へ向ける。


 湊は読んだ。


 それから白瀬、莉子にも見せた。


 莉子が先に言う。


「るいな、それめっちゃいい」


「めっちゃって言うな」


「いや、めっちゃいい」


「二回言うな」


 白瀬も静かに頷いた。


「今の四人に近い一行だと思います」


「白瀬まで」


 湊は少しだけ笑って、保留ノートを開いた。


「もう一行だけ」


「見せるやつ?」


「見せるやつ」


 湊は書いた。


 ――名前がないまま増えていくものを、まだ急いで呼ばなくていい。


 黒瀬は読んで、しばらく黙った。


 急いで呼ばなくていい。


 それは、関係にも、ノートにも、見せない二行にも言える気がした。


「……ずるい」


「今日も?」


「今日も」


「消さない」


「まだ言ってない」


「言うと思って」


「予測するな」


 黒瀬は顔を赤くしながらも、小さく言った。


「消さないで」


「うん」


 夜。


 黒瀬は湊の部屋でカフェラテを飲んでいた。


 テーブルには、名前のない保留ノートがある。


 表紙はやはり無地のまま。


 黒瀬はそれを見て、少しだけ安心した。


「名前、書かないんだよね」


「うん」


「しばらく?」


「しばらく」


「ずっと?」


「それはわからない」


「そっか」


 黒瀬はカップを両手で包む。


「でも、今はそれでいい」


「うん」


「名前ないまま、中身だけ増えてるの」


「うん」


「ちょっと怖い」


「うん」


「でも、悪くない」


 湊は静かに頷いた。


「俺もそう思う」


「普通に受け取るな」


「でも、同じだったから」


「ずるい」


 黒瀬は顔を赤くした。


「見せない二行は?」


「消してない。増えてない」


「紙には?」


「今日の見せてもいい一行だけ増えた」


「ならいい」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 黒瀬は保留ノートの表紙を見た。


「朝比奈」


「何?」


「そのノート、名前ないけど」


「うん」


「もう、なくてもわかる」


 湊は少しだけ目を見開いた。


 黒瀬は自分で言って、すぐに顔を赤くする。


「今のなし」


「無理」


「知ってた」


 湊はノートを軽く撫でた。


「なくてもわかるなら、まだ書かなくていいな」


「うん」


「ありがとう」


「普通に礼言うな」


「言いたかった」


「ずるい」


 黒瀬はカフェラテを飲んだ。


 保留ノートの表紙には、まだ名前を書かない。


 名前をつけると、固定されてしまう気がしたから。


 まだ名前のないまま増えていく中身がある。


 まだ名前のないまま続いている距離がある。


 それを急いで呼ばなくてもいい。


 今は、無地の表紙のままでよかった。

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