ep.149 戻ってきてもいい場所は、昼の教室にもある
翌朝、黒瀬琉衣奈は教室に入る前から少しだけ落ち着かなかった。
昨日の夜の会話が、まだ頭に残っている。
――戻ってきてもいい場所?
――そうしたいと思ってる。
――戻ってきても?
――いる。
朝比奈湊は、そう言った。
普通に。
本当に普通に。
だからこそ、ずるい。
黒瀬は教室の扉の前で一度だけ深呼吸した。
逃げ道がある。
戻ってこられる場所がある。
待っている人がいる。
それを全部受け取るには、まだ少し早い。
でも、昨日の夜、自分は湊の部屋から逃げなかった。
カフェラテを飲んで、クッションを抱えて、ちゃんと帰る時間までそこにいた。
それだけでも、かなり頑張った。
自分で自分を褒めるのは少し癪だが、今日は褒めてもいい気がした。
「……よし」
小さく呟いて、黒瀬は教室へ入った。
白瀬栞は、もう席にいた。
今日もノートを開いている。
今日も髪には、黒瀬が選んだヘアピン。
朝の光の中で、それが小さく光った。
「おはようございます、黒瀬さん」
「……おはよ」
白瀬は黒瀬の顔を見て、少しだけ微笑んだ。
「今日は、逃げずに来た顔ですね」
「白瀬」
「はい」
「朝の第一声にしては強すぎ」
「すみません。でも、そう見えました」
「見えすぎ」
黒瀬は席に座り、鞄からノートを出した。
昨日のページを開く。
――逃げ道があると、逆に逃げにくい。でも少し安心。
――戻ってきてもいい場所って、たぶん朝比奈の部屋。言った。死ぬ。
最後の「死ぬ」は大げさだ。
でも、夜に書いた時は本当にそのくらい恥ずかしかった。
白瀬がそっと聞く。
「昨日、何か書きましたか」
「書いた」
「見せてもいい一行ですか」
「……まだ無理」
「はい」
白瀬は、それ以上聞かなかった。
その「はい」が、少しありがたい。
黒瀬はノートを閉じかけて、やめた。
全部は見せない。
でも、机には置く。
昨日より少しだけ、その感覚がわかっている。
そこへ莉子がやってきた。
「おはよー。あ、るいな、今日は逃亡未遂後の帰還者みたいな顔」
「何それ」
「昨日、何か逃げ道系の話したでしょ」
「莉子も見えすぎ」
「顔が全部言うんだって」
「言わない」
「言ってる」
莉子は普通ノートを机に置いた。
ツッコミ帳は鞄の中。
最近、莉子は朝の空気によってノートを選ぶようになった。
それが少し面白い。
「今日は普通ノート?」
黒瀬が聞く。
「うん。今のるいなはツッコミ帳で突くと怒る顔」
「怒る」
「ほら」
「先に言うな」
白瀬が少し笑った。
その笑顔を見て、莉子が普通ノートに一行書こうとして、手を止める。
「今日はまだ書かない」
「自分で言うんだ」
「うん。今日は、みんなが少し落ち着いてから書く日」
「莉子が調整してる」
「成長です」
「自分で言うな」
いつものやり取りに、黒瀬は少しだけほっとした。
湊が教室に入ってきたのは、その直後だった。
「おはよう」
「……おはよ」
黒瀬は普通に返したつもりだった。
けれど、たぶん少しだけ声が硬かった。
湊はそれに気づいたように、黒瀬を見る。
「昨日の一行、消してない。増えてない」
「聞いてない」
「でも、必要かと思って」
「必要だけど」
黒瀬は顔を赤くして視線を逸らした。
湊は続けた。
「戻ってきてもいい場所の話も、なかったことにしてない」
黒瀬の動きが止まった。
「……朝比奈」
「うん」
「それ、朝の教室で言うやつじゃない」
「小声だった」
「小声でもだめ」
「ごめん」
「謝るの早い」
莉子が普通ノートへ手を伸ばしかける。
白瀬が静かに首を横に振る。
莉子は手を止めた。
「今のは、心に保存」
「それもやめて」
黒瀬が言うと、莉子は笑った。
「無理」
昼休み。
四人はいつものように机を寄せた。
テスト返却の騒ぎも少し落ち着き、教室の空気はいつもの昼に戻りつつある。
莉子は購買のパンを開けながら言った。
「昨日の逃げ道の話、ちょっと考えた」
「まだ続くの?」
黒瀬が警戒する。
「続くよ。だって大事じゃん」
「莉子が言うと軽くなる」
「そこが私のいいところ」
「自分で言うな」
莉子は笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「戻ってこられる場所ってさ、夜の部屋だけじゃなくて、昼の教室にもあるんじゃない?」
黒瀬は手を止めた。
湊も莉子を見る。
白瀬は静かに頷いた。
「はい。私もそう思います」
「白瀬さん、乗ってくれた」
「はい」
「いや、何の話」
黒瀬が言うと、莉子は自分たちの机を指差した。
「ここ」
「ここ?」
「うん。この机を寄せてる場所」
莉子は続けた。
「るいなが逃げても、次の日ここ来るじゃん。白瀬さんも、言葉に迷ってもここにいるじゃん。朝比奈くんも、見せない二行抱えててもここに来るじゃん。私も、茶化しすぎたかなって思っても、ここ来るし」
黒瀬は、何も言えなかった。
莉子の言葉は軽い。
でも、今日は少し奥まで届いた。
夜の湊の部屋だけではない。
昼の教室にも、戻ってこられる場所がある。
四人で机を寄せる、この場所。
「莉子」
黒瀬が小さく言う。
「何?」
「今日、ちゃんとしてる」
「今日だけ?」
「半分」
「便利にするな」
莉子は笑った。
白瀬が静かに言った。
「ここも、逃げても戻ってこられる場所ですね」
「白瀬」
「はい」
「また強い」
「すみません」
「謝るの早い」
湊は少し考えてから、鞄から保留ノートを取り出した。
黒瀬の視線がすぐに向く。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書いた。
そして、四人の真ん中に置く。
――戻ってきてもいい場所は、夜の部屋だけじゃなくて、昼の机にもある。
黒瀬は、その一行を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
湊の部屋。
カフェラテ。
クッション。
それは確かに、戻ってこられる場所になりつつある。
でも、この机もそうだ。
白瀬のノートがあり、莉子の普通ノートがあり、湊の保留ノートがあり、自分の余白ノートがある。
全部は見せない。
でも、机には並ぶ。
そこへ戻ってこられる。
「……消さないで」
黒瀬は言った。
湊は頷く。
「消さない」
莉子も普通ノートを開いた。
「これは書く」
「名前出す?」
黒瀬が聞く。
「出す。四人の話だから」
莉子は書いた。
――戻ってこられる場所、昼の机版。
「版って何」
黒瀬が突っ込む。
「莉子らしさ」
「急に軽くなった」
「重すぎると持てないから」
白瀬が少し笑った。
そして自分のノートに書く。
――机を寄せるだけで、戻る場所になることがある。
黒瀬はそれを見て、静かに頷いた。
「白瀬のも消さないで」
「はい。消しません」
黒瀬は自分のノートを開いた。
少し迷ってから、余白に書く。
――夜だけじゃない。昼にも戻れる場所がある。たぶんここ。
書いて、四人に見せた。
莉子がすぐに言う。
「るいな、それいい」
「普通に言うな」
「いや、いい」
「二回言うな」
湊も頷く。
「俺もそう思う」
「朝比奈まで」
「本当に」
「本当なら余計」
白瀬も静かに微笑む。
「黒瀬さんが“ここ”と書いてくれたのが、嬉しいです」
「白瀬」
「はい」
「今日、全員ずるい」
四人は少しだけ笑った。
放課後。
自習会はなかったが、四人は少し残った。
机はまだ寄せたまま。
ノートもまだ机にある。
教室の外では、部活へ向かう生徒の声がしている。
夕方の光が机の上に落ちて、ノートの端を淡く照らしていた。
莉子が言う。
「何かさ、この机、だんだん定位置になってきたね」
「もともと席はバラバラだけど」
湊が言う。
「寄せたらここになる」
白瀬が言った。
黒瀬はノートの端を指でなぞる。
「戻れる場所って、作るものなのかも」
言ってから、自分で少し驚いた。
白瀬が顔を上げる。
莉子も湊も黒瀬を見る。
「何」
黒瀬がむくれる。
「普通に見ないで」
「いい一行っぽいこと言ったから」
莉子が言う。
「言うな」
「書きなよ」
「……うん」
黒瀬はノートに書いた。
――戻れる場所は、たぶん勝手にあるんじゃなくて、少しずつ作る。
書いてから、四人に向けた。
誰もすぐには茶化さなかった。
白瀬が静かに言う。
「今日の黒瀬さんの一行ですね」
「白瀬、それ言うと恥ずい」
「すみません」
「でも、そうかも」
湊が保留ノートを開いた。
「俺も書く」
黒瀬は見守る。
湊は一行を書いた。
――四人で机を寄せるのも、戻れる場所を作ることだったのかもしれない。
莉子が普通ノートを開く。
「私も」
――戻る場所、制作中。
黒瀬が笑った。
「莉子、それ軽い」
「私担当」
「でも、いい」
「るいなが普通に言った」
「言うな」
白瀬もノートに書いた。
――制作中の場所だから、まだ名前がなくてもいい。
湊がその一行を読んで、少しだけ頷いた。
「名前のついてない関係にも似てるな」
黒瀬の顔が赤くなる。
「朝比奈、そういうの普通に言うな」
「でも、そう思った」
「ずるい」
夜。
黒瀬は湊の部屋へ来た。
いつものようにカフェラテを両手で包む。
テーブルには、湊の保留ノート。
今日増えた一行が開かれている。
――戻ってきてもいい場所は、夜の部屋だけじゃなくて、昼の机にもある。
――四人で机を寄せるのも、戻れる場所を作ることだったのかもしれない。
「今日のは」
黒瀬が言った。
「うん」
「ちょっと安心する」
「うん」
「朝比奈の部屋だけだと、何か近すぎて死ぬ」
「死なないだろ」
「死ぬ」
「でも、昼の机もある」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「だから、ちょっと逃げ道増えた」
「増えた方がいい?」
「うん」
「そっか」
「でも、戻る場所も増えた」
「うん」
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
湊は少し笑った。
黒瀬はノートを見つめながら、小さく言う。
「消してない?」
「消してない。増えたのは今日の見せてもいい一行だけ」
「見せない二行は?」
「消してない。増えてない」
「ならいい」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「いつか会いに来てって言ったの、まだ恥ずい」
「うん」
「でも、来る場所は一つじゃなくていいかも」
「昼の机?」
「うん」
「夜のここも?」
黒瀬は少しだけ黙った。
そして、小さく頷く。
「……半分」
「便利だな」
「便利にするな」
二人は少し笑った。
戻ってきてもいい場所は、昼の教室にもある。
机を少し寄せるだけ。
ノートを全部見せるわけでもない。
それでも、そこには戻れる空気が少しずつできていた。
名前のついていない関係は、今日もまだ名前のないまま。
けれど、その関係が戻れる場所を持ち始めていることだけは、四人とも少しずつわかっていた。




