ep.148 逃げ道のある一行は、なぜか逃げにくい
翌朝、黒瀬琉衣奈は自分のノートを開いて、昨日の一行を見ていた。
――受け取る準備。変な顔しても逃げないこと。たぶん。
その下に、夜、帰ってから書き足した一行がある。
――でも、逃げても待つって言われた。ずるい。
何度見ても、ずるい。
逃げてもいい。
追わずに待つ。
朝比奈湊は、そう言った。
普通に言った。
そのせいで、黒瀬は昨日の夜からずっと落ち着かない。
逃げてもいいと言われると、逆に逃げにくくなる。
追われないとわかっているのに、なぜかその場所へ戻りたくなる。
待つと言われるのは、安心する。
でも、安心するからこそ怖い。
黒瀬はシャーペンを持ったまま、余白を見つめた。
何か書きたい。
でも、うまく言葉にならない。
昨日までは「待機中」でよかった。
今日は少し違う。
待機中ではある。
でも、逃げ道まで用意されてしまった。
その逃げ道が、なぜか湊の方へ戻る道にも見える。
「……意味わかんない」
小さく呟く。
隣から、白瀬栞が顔を上げた。
「おはようございます、黒瀬さん」
「……おはよ」
「今日は、少し困っている顔ですね」
「白瀬」
「はい」
「もう朝の挨拶より先に顔読むのやめて」
「すみません。挨拶はしました」
「そこじゃない」
白瀬は少しだけ笑った。
今日も髪には、黒瀬が選んだヘアピンがある。
それを見ると、黒瀬は少し落ち着く。
この朝の小さな確認も、もう日常になっていた。
「昨日の、朝比奈くんの一行ですか」
白瀬が静かに聞く。
黒瀬はノートを少しだけ伏せた。
「……うん」
「逃げてもいい、という話ですか」
「そこまで共有されてるの何」
「昨日、少し聞こえました」
「見えすぎ聞こえすぎ」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬は少し迷ってから、ノートを白瀬へ向けた。
全部ではない。
見せてもいい二行だけ。
白瀬は静かに読んだ。
――受け取る準備。変な顔しても逃げないこと。たぶん。
――でも、逃げても待つって言われた。ずるい。
読み終えると、白瀬は少しだけ目元をやわらげた。
「良い一行です」
「どっち」
「どちらもです」
「二行とも言うな」
「でも、本当に」
「白瀬の本当に、最近強い」
黒瀬は顔を赤くしてノートを戻した。
白瀬は少し考えたあと、言った。
「逃げ道があると、安心してそこにいられることがあります」
「……逃げるのに?」
「はい。逃げられない場所より、逃げても戻れる場所の方が、少しだけ怖くないので」
黒瀬は黙った。
白瀬の言葉は、いつも静かに来る。
怒鳴らない。
押しつけない。
けれど、胸の奥の柔らかいところに置かれる。
「白瀬」
「はい」
「朝からまた強い」
「すみません」
「謝るの早い」
そこへ莉子が教室へ入ってきた。
「おはよー。あ、今日も何か白瀬さんが名言置いた空気」
「莉子、空気読みすぎ」
「顔でわかるよ。るいなが刺されて、でもちょっと納得してる顔」
「そんな顔ない」
「ある」
「ない」
「じゃあ白瀬さん、今のまとめください」
「まとめ、ですか」
白瀬は少し困ったようにしながらも、真面目に言った。
「逃げ道があると、安心してそこにいられることがあります」
莉子は一瞬黙った。
それから、そっと普通ノートを開いた。
「これは普通ノート案件」
「莉子、書くの?」
黒瀬が聞く。
「名前出さない」
「なら……まあ」
莉子は丁寧に一行書いた。
――逃げ道があると、安心してそこにいられることがある。
「白瀬さん、引用しました」
「はい」
「出典、白瀬栞」
「出典は不要です」
「じゃあ心の参考文献」
「それも不要だと思います」
莉子が笑う。
黒瀬も少し笑った。
その時、湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「おはよ、朝比奈くん」
いつもの挨拶。
けれど黒瀬は、湊の顔を見ると昨日の一行を思い出してしまった。
――黒瀬が逃げてもいいように、待てる場所を残しておきたい。
あれはずるい。
今日もずるい。
湊は黒瀬の顔を見て、少しだけ何かを察したようだった。
「昨日の一行、消してない。増えてない」
「聞いてない」
「でも、気にしてた顔だった」
「顔で読むな!」
黒瀬が少し大きめの声を出す。
莉子がすぐに普通ノートへ手を伸ばす。
黒瀬が睨む。
「莉子」
「今のは書かない。顔会話はもう通常運転だから」
「通常にするな」
湊は自分の席へ鞄を置いた。
それから、少しだけ黒瀬へ近づいて小さく言う。
「逃げ道、まだあるから」
黒瀬は固まった。
「……朝比奈」
「うん」
「それ、朝の教室で言うな」
「小声だった」
「小声でもだめ」
「ごめん」
「謝るの早い」
黒瀬は顔を赤くして、ノートを閉じた。
けれど、その言葉で少し落ち着いたのも事実だった。
逃げ道は、まだある。
そして、待つ場所もある。
昼休み。
四人で机を寄せると、莉子が普通ノートを開いたまま言った。
「今日のテーマ、逃げ道でいい?」
「テーマ化するな」
黒瀬が即答する。
「でもさ、逃げ道って大事じゃない?」
「莉子が言うとサボり道みたい」
「失礼。私は逃げる時も全力だよ」
「もっとだめ」
莉子は笑ったあと、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、本当に。逃げちゃだめって言われると、逆に固まるじゃん」
白瀬が頷く。
「はい」
「逃げてもいいけど、戻ってきてもいいって言われる方が、戻れる気がする」
黒瀬は黙った。
湊も莉子を見る。
莉子はパンの袋を指で折りながら続けた。
「私、ツッコミで逃げること多いし」
「自覚あるんだ」
黒瀬が言う。
「あるよ。重い空気になると、すぐ茶化す」
「うん」
「でも最近、茶化さない日もあるじゃん」
「ある」
「その時、逃げ道がないときついんだよね。全部真面目に受け止めろって言われたら無理」
「莉子らしい」
「でも、半分は真面目に受け取って、半分はツッコミで逃げるならできる」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「半分、便利」
「でしょ」
「便利にするなって言いたいけど、今日はちょっとわかる」
莉子が嬉しそうに笑った。
「るいなが認めた」
「言うな」
白瀬が静かに言う。
「半分でも受け取る、という形があるのかもしれませんね」
「白瀬さん、今日も綺麗にまとめる」
「そうでしょうか」
「うん。普通ノート案件」
莉子は書いた。
――半分でも受け取る、という形がある。
湊はそれを見て、少しだけ頷いた。
「それ、いいな」
黒瀬は湊を見る。
「朝比奈の保留ノートにも書く?」
「書くかも」
「見せるやつ?」
「たぶん見せるやつ」
「ならいい」
言ってから、黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
自然に「ならいい」と言ってしまった。
湊が少し笑う。
「何」
「いや」
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「顔」
「顔か」
いつものやり取り。
けれど、その下には別のものが流れている。
逃げてもいい。
半分でもいい。
戻ってきてもいい。
そういう言葉が、少しずつ四人の間に増えていた。
放課後。
自習会はなかった。
テストも返却されたばかりで、今日は少し休む日になった。
けれど四人は教室に残った。
いつものように、机を少し寄せたまま。
莉子は普通ノートを開き、白瀬は整ったノートを閉じたり開いたりしている。
黒瀬は余白ノートに、今日の一行を書いた。
――逃げ道があると、逆に逃げにくい。でも少し安心。
書いてから、湊へ向ける。
「見せるやつ?」
湊が聞く。
「うん」
湊は読んで、静かに頷いた。
「いいと思う」
「普通に言うな」
「でも、本当に」
「二回目は禁止」
湊は少し笑って、自分の保留ノートを開いた。
黒瀬の視線がそこへ向く。
「書くの?」
「うん」
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
湊は一行書いた。
そして、黒瀬に向ける。
――逃げ道を残すのは、戻ってこられる場所を残すことでもある。
黒瀬は、その一行を読んで息を止めた。
「……朝比奈」
「うん」
「今日もずるい」
「そうか」
「そう」
黒瀬はノートから目を離せなかった。
戻ってこられる場所。
逃げ道は、ただ遠ざかるためだけではない。
戻れる場所があるから、逃げても終わりではない。
湊は、そういう場所を残しておきたいと言っている。
黒瀬が逃げても。
変な顔をしても。
言葉が出なくても。
「これ、消さないで」
「消さない」
「見せない二行も?」
「消してない。増えてない」
「紙には?」
「今の一行だけ増えた」
「ならいい」
莉子が普通ノートを開いたまま、少しだけ迷う。
「これ、書いていい?」
黒瀬は湊を見る。
湊は頷いた。
「俺はいい」
黒瀬は少し考えてから言った。
「名前出さないなら」
「了解」
莉子は書いた。
――逃げ道は、戻る場所があるから逃げ道になる。
白瀬がそれを読んで、静かに微笑んだ。
「今日の一行ですね」
「白瀬さんも書く?」
「はい」
白瀬は自分のノートに書いた。
――逃げても終わらない関係なら、少しだけ怖くない。
黒瀬はそれを見て、何も言えなくなった。
白瀬の言葉は、また静かに置かれた。
逃げても終わらない関係。
それが、今の四人に少しずつできているのかもしれない。
夜。
黒瀬は湊の部屋でカフェラテを飲みながら、昼と放課後の一行を思い出していた。
テーブルには湊の保留ノート。
今日増えた見せてもいい一行。
――逃げ道を残すのは、戻ってこられる場所を残すことでもある。
「これ」
黒瀬が言った。
「うん」
「けっこう強い」
「うん」
「普通に強い」
「二回言った」
「うるさい」
黒瀬はクッションを抱えた。
「戻ってこられる場所って」
「うん」
「朝比奈の部屋?」
言ってから、黒瀬は自分で固まった。
湊も一瞬黙った。
カフェラテの湯気が、二人の間で揺れる。
「……そうかも」
湊が言った。
黒瀬の顔が一気に熱くなる。
「普通に言うな!」
「でも、そう思った」
「そう思うな」
「無理だろ」
「最低」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
けれど、帰るとは言わなかった。
逃げ道の話をしているのに、逃げなかった。
「ここ」
黒瀬は小さく言った。
「うん」
「戻ってきてもいい場所?」
湊はすぐには答えなかった。
でも、ちゃんと言った。
「そうしたいと思ってる」
黒瀬は、クッションを強く抱きしめた。
「……ずるい」
「うん」
「今日、一番ずるい」
「うん」
「でも、消さないで」
「消さない」
「見せない二行も」
「消してない。増えてない」
「いつか会いに来る?」
「うん」
「逃げても?」
「待つ」
「戻ってきても?」
「いる」
黒瀬は何も言えなくなった。
そのかわり、カフェラテを少しだけ飲んだ。
熱はもう少し落ち着いていた。
逃げ道のある一行は、なぜか逃げにくい。
でも、それは悪いことではなかった。
逃げても終わらない。
戻ってこられる場所がある。
待っている人がいる。
黒瀬琉衣奈は、その意味をまだ全部は受け取れない。
けれど、今夜も湊の部屋で、カフェラテを両手で包んでいた。




