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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.146 会いに行く準備、という一行

 翌朝、黒瀬琉衣奈は、教室の扉の前で一度だけ足を止めた。


 理由はわかっている。


 昨日、自分が変なことを言ったからだ。


 ――いつか会いに来て。


 思い出した瞬間、顔が熱くなる。


 何を言っているのか。


 完全におかしい。


 見せない二行の話をしていた。

 保留ノートの話をしていた。

 ノートを見せることは、少しだけ相手に会いに行くことに近い、という話になった。


 そこまではいい。


 いや、そこも十分恥ずかしいが、まだいい。


 問題は、その後だ。


 湊の見せない二行に対して、自分は「いつか会いに来て」と言った。


 言った。


 言ってしまった。


 しかも、湊はそれを忘れないと言った。


 大事そうだから、と。


「……最悪」


 黒瀬は小さく呟いて、教室へ入った。


 白瀬栞はすでに席にいた。


 今日もノートを開いている。

 今日も髪には、黒瀬が選んだヘアピン。


 その光を見て、少しだけ気持ちが戻る。


「おはようございます、黒瀬さん」


「……おはよ」


 白瀬は顔を上げ、すぐに少しだけ目を細めた。


「今日は、昨日の言葉を思い出している顔ですね」


「白瀬」


「はい」


「朝から的中させないで」


「すみません。かなり出ていました」


「かなりって言うな」


 黒瀬は席に座り、ノートを出した。


 開く。


 昨日の最後に書いた一行が目に入る。


 ――見せた一行に、会いに来られる時がある。


 その下に、夜に書き足した一行。


 ――言った。いつか会いに来てって。消したい。でも消さない。


 黒瀬はその一行を見て、机に額をつけたくなった。


 でもしない。


 白瀬が隣にいる。


「黒瀬さん」


「何」


「消さなかったんですね」


「見た?」


「見えていません。でも、消していない顔でした」


「顔でそこまでわかるの怖すぎる」


 白瀬は少しだけ微笑んだ。


「消さない方がいい言葉だと思います」


「内容知らないのに?」


「はい」


「強い」


「すみません」


「謝るの早い」


 黒瀬はノートを閉じた。


 見せられない。


 でも消せない。


 この感覚にも、少し慣れてしまった。


 そこへ莉子がやってきた。


「おはよー。お、るいな、朝から後悔と保存が同居してる顔」


「何その顔」


「昨日なんか言ったでしょ」


「言ってない」


「嘘が下手」


「莉子」


「はいはい、掘らない。今日は浅瀬で泳ぐ」


「泳ぐな」


 莉子は席に鞄を置き、普通ノートを出した。


 ツッコミ帳ではない。


 そのことに、黒瀬は少しだけ安心する。


 莉子はそれを見て笑った。


「今、安心した」


「してない」


「ツッコミ帳じゃないからでしょ」


「してない」


「じゃあ出そうか?」


「やめて」


「はい、してる」


 黒瀬は黙った。


 負けた気がした。


 湊が教室へ入ってきたのは、そのすぐ後だった。


「おはよう」


「……おはよ」


 普通に返したつもりだった。


 けれど、たぶん普通ではなかった。


 湊が少しだけ黒瀬を見る。


「昨日のこと、気にしてる?」


「本人が聞くな」


「ごめん」


「謝るの早い」


 莉子が普通ノートを開きかける。


 黒瀬が睨む。


「莉子」


「今のは書かない。空気読んだ」


「珍しい」


「読めるんだって。読まない時があるだけ」


 白瀬が静かに言った。


「昨日の言葉は、急いで扱わなくていいものだと思います」


 黒瀬の顔が熱くなる。


「白瀬まで」


「すみません」


「謝るの早い」


 湊は鞄から小さなグレーのノートを少しだけ出した。


 保留ノート。


 黒瀬の視線が、自然にそこへ行く。


 湊は気づいて言った。


「消してない。増えてない」


「……聞いてない」


「でも、必要かと思って」


「必要だけど」


 黒瀬は小さく言って、すぐに目を逸らした。


 莉子が口を押さえる。


「書きたい」


「書くな」


「今日は普通ノートでもだめ?」


「だめ」


「心に保存」


「それもやめて」


「無理」


 いつものやり取りに戻る。


 戻ったのに、黒瀬の胸の奥にはまだ昨日の言葉が残っていた。


 いつか会いに来て。


 自分で言ったくせに、自分で揺れている。


 授業が始まっても、黒瀬は少しだけ集中できなかった。


 ノートは取っている。


 先生の話も聞いている。


 でも、余白に変な一行を書きそうになる。


 ――会いに来てって何。

 ――自分で言った。意味不明。

 ――朝比奈、覚えてる顔してた。

 ――消してない。増えてない。こっちは心臓が増えそう。


 最後の一行はさすがにない。


 黒瀬はシャーペンを止めた。


 白瀬が横から小さな紙を差し出してくる。


 授業中なので、声は出さない。


 紙には短く書かれていた。


 ――大事な言葉ほど、あとから恥ずかしくなることがあります。


 黒瀬は、その紙を見て固まった。


 白瀬を見る。


 白瀬は黒板を見ている。


 でも、少しだけ耳が赤い。


 黒瀬は返事を書く。


 ――白瀬もあるの?


 紙を戻す。


 白瀬は少しだけ迷ってから、返してきた。


 ――あります。


 黒瀬は、ほんの少しだけ笑いそうになった。


 白瀬にもある。


 それだけで、少し楽になった。


 昼休み。


 四人で机を寄せた。


 莉子はパンを開けながら、普通ノートを少しだけ横へずらす。


「今日はさ、ツッコミ帳を封印する日かもしれない」


「何で」


 黒瀬が聞く。


「るいなの顔が全部ツッコミ帳向きなんだけど、たぶん書いたら怒られるから」


「わかってるなら言わないで」


「言わないと私が爆発する」


「爆発するな」


 湊は苦笑しながら、パンを出した。


 白瀬は弁当箱を開く。


 その静かな動きの後、湊がふと保留ノートを取り出した。


 黒瀬の手が止まる。


「……書くの?」


「一行だけ」


「見せるやつ?」


「見せるやつ」


 湊は少し考えてから、ページを開いた。


 昨日の一行の下に、ゆっくり書く。


 黒瀬は見ないようにした。


 でも、見てしまう。


 湊はノートを黒瀬に向けた。


 そこには、こう書かれていた。


 ――まだ会いに行けない。でも、行く準備はしている。


 黒瀬は完全に止まった。


 頭の中が、一瞬だけ空白になる。


 それから、一気に熱が上がった。


「……朝比奈」


「うん」


「それ、昼休みに見せるやつじゃない」


「夜の方がよかった?」


「そういう問題じゃない」


「ごめん」


「謝るの早い」


 莉子は両手で口を押さえている。


 白瀬は目を伏せ、少しだけ頬を赤くしている。


 黒瀬はノートから目を離せなかった。


 まだ会いに行けない。


 でも、行く準備はしている。


 昨日、自分が言った言葉に対する返事だ。


 見せない二行はまだ来ない。


 でも、そのための準備をしている。


 そう書かれている。


 ずるい。


 かなりずるい。


「これ、見せてもいい一行?」


 黒瀬が小さく聞く。


「うん」


「見せない二行とは別?」


「別。でも近い」


「近いのを見せるな」


「見せた方がいい気がした」


「判断するな」


「悪い」


「悪いと思ってない」


「半分くらいは」


「禁止」


 いつものやり取りに戻そうとしているのに、戻りきらない。


 黒瀬は顔を赤くしたまま、ノートを湊へ返した。


「消さないで」


「消さない」


「見せない二行も?」


「消してない。増えてない」


「ならいい」


 莉子が普通ノートを開いた。


 黒瀬が睨む。


「莉子」


「名前は出さない。今のは書かないと私が本当に爆発する」


「爆発するなって」


 莉子は一行書いた。


 ――まだ来ない言葉にも、準備中の足音があるらしい。


 白瀬がそれを見て、静かに頷いた。


「良い一行ですね」


「白瀬さんに褒められた。今日は爆発しない」


「よかったです」


 黒瀬は莉子の一行を見て、少しだけ黙った。


 準備中の足音。


 それは、少しわかる。


 見せない二行はまだ来ない。


 でも、近づいている。


 見えないけれど、足音だけ聞こえる。


 それもまた怖い。


 でも、少し嬉しい。


 放課後。


 黒瀬は自習会の後、余白ノートに一行を書いた。


 ――まだ来ない。でも準備中らしい。こっちは待機中。


 書いてから、少し笑ってしまった。


 待機中。


 まるで何かのシステム表示みたいだ。


 でも今の自分には合っている。


 湊がそれを見て、少しだけ笑った。


「待機中」


「見るな」


「見えた」


「見たんじゃん」


「ごめん」


「謝るの早い」


 黒瀬はノートを少し引き寄せたが、隠しきらなかった。


 湊が言う。


「待機中って、いいな」


「よくない」


「でも、待ってるだけじゃなくて、準備してる感じがする」


「……何の」


「受け取る準備」


 黒瀬は黙った。


 受け取る準備。


 そんなものを自分がしているのか。


 しているのかもしれない。


 見せない二行がいつか来た時、逃げないために。


 変な顔をしても、笑わないでと言うために。


 消さないでと言うために。


 受け取るために。


「……それ、夜に言って」


「わかった」


「今言うな」


「もう言った」


「最低」


 黒瀬は顔を赤くして鞄を持った。


「今日、行く」


「カフェラテ?」


「当然」


 夜。


 黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを両手で包んでいた。


 テーブルには、湊の保留ノート。


 今日の一行が開かれている。


 ――まだ会いに行けない。でも、行く準備はしている。


 黒瀬は何度見ても落ち着かない。


「これ」


「うん」


「かなりずるい」


「昼にも言ってた」


「何回でも言う」


「うん」


「でも、ちょっと助かった」


 湊は静かに黒瀬を見る。


「助かった?」


「うん」


 黒瀬はカップを見つめた。


「来ないのかと思うと不安だけど」


「うん」


「来る準備してるって言われると、待ちやすい」


「そっか」


「普通に受け取るな」


「でも、受け取りたかった」


「ずるい」


 黒瀬はカフェラテを飲んだ。


 それから、自分のノートを開く。


 湊へ見せる。


 ――まだ来ない。でも準備中らしい。こっちは待機中。


 湊はその一行をゆっくり読んだ。


「受け取る準備をしてくれてるってことだと思った」


「……うん」


「そう思っていい?」


 黒瀬はしばらく黙った。


 そして、小さく頷いた。


「半分」


「半分」


「もう半分は、逃げる準備」


「逃げるのか」


「変な顔したら逃げる」


「じゃあ追わない」


「追わないの?」


「待つ」


 黒瀬は固まった。


「……そういうところ」


「うん」


「ずるい」


「今日も?」


「今日も」


 二人は少しだけ笑った。


 笑った後、黒瀬は真面目な顔に戻る。


「消してない?」


「消してない」


「増えてない?」


「増えてない」


「今日の見せてもいい一行も?」


「消さない」


「ならいい」


 黒瀬はクッションに顎を乗せた。


「いつか会いに来てって言ったの、まだ恥ずい」


「うん」


「でも、消さない」


「うん」


「今日の朝比奈の一行も、消さないで」


「うん」


「準備中ってわかったから、待機中でいる」


 湊は頷いた。


「ありがとう」


「普通に礼言うな」


「言いたかった」


「ずるい」


 黒瀬は顔を赤くして、カフェラテを飲んだ。


 会いに行く準備、という一行。


 それは、まだ見せない二行そのものではなかった。


 けれど、黒瀬にとっては十分すぎるほど近い言葉だった。


 まだ来ない。


 でも、来る準備をしている。


 だから黒瀬も、ただ待つだけではなく、受け取る準備を少しずつ始めることにした。

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