ep.144 普通ノートの端っこにも、ちゃんと点数は返ってくる
藤堂莉子は、自分の答案を何度も見返していた。
英語の点数。
数学の点数。
どちらも、奇跡のような高得点ではない。
白瀬栞のように、先生が無言で頷くような点数でもない。
朝比奈湊のように、落ち着いた顔で「まあ、こんなものか」と言える点数でもない。
黒瀬琉衣奈のように、前より上がったことを静かに噛みしめるような点数でもない。
でも、莉子にとっては、悪くなかった。
いや、正直に言えば。
かなり悪くなかった。
「……見間違いじゃないよね」
莉子は答案を机に置き、少し離れて見た。
もう一度近づけて見た。
点数は変わらない。
「何してんの」
黒瀬が横から言う。
「遠近法で点数変わらないかなって」
「変わるわけないでしょ」
「でも、低く見えない角度とかあるかも」
「そんなテクニックいらない」
黒瀬は呆れた声で言った。
けれど、その目元は少しだけ優しかった。
莉子はそれに気づいて、にやっとする。
「るいな、今ちょっと優しい顔した」
「してない」
「した」
「してない」
「顔」
「莉子に言われるとむかつく」
「仕返しされる側の気持ち、どう?」
「最悪」
黒瀬はむくれた。
でも、少し笑っている。
莉子は答案の横に、自分の普通ノートを置いた。
そこには、確認テスト前に書いた単語や、白瀬さんのまとめ、朝比奈くんの「目的地」メモ、黒瀬の「問題文は敵」系の言葉が、少し雑に並んでいる。
そして端には、四人のことを書いた一行もある。
正直、テスト勉強用として完璧なノートではない。
余計なこともたくさん書いてある。
でも、テスト中に思い出したのは、案外そういう余計な一行だった。
白瀬さんの説明の横に書いた「ここ、白瀬先生ゾーン」。
黒瀬が言った「符号は裏切らないらしい」。
朝比奈くんの「問題文の最後が目的地」。
自分で書いた「心だけでは暗記できない」。
心だけでは暗記できない。
これは本当に役に立った。
前日、莉子は「心で暗記した」と言った。
黒瀬に即座に否定された。
それが悔しくて、普通ノートに単語を五つだけ書いた。
そのうち三つが、確認テストに出た。
奇跡ではない。
たぶん、白瀬さんが範囲を絞ってくれたからだ。
でも、書いたから思い出せた。
その事実が、莉子には少しだけ新鮮だった。
「藤堂さん」
白瀬が静かに声をかけた。
「はい、白瀬先生」
「先生ではありません」
「今日だけ」
「昨日も言っていました」
「じゃあ返却日特別延長」
「延長されました」
「許された」
莉子が小さくガッツポーズをすると、白瀬は少し笑った。
「点数、悪くなかったんですね」
「うん。思ったより生きてた」
「よかったです」
「白瀬さんの範囲メモ、かなり効いた」
「役に立ったなら嬉しいです」
「普通に受け取る」
「はい」
「黒瀬、今の見た? 白瀬さん、普通に受け取った」
「いつもでしょ」
黒瀬が言う。
白瀬は少しだけ首を傾げた。
「褒めてもらえた時は、受け取る練習をしています」
莉子は一瞬、黙った。
今の一言は、かなり普通ノート案件だった。
ツッコミ帳ではない。
普通ノートの、端っこに残すやつ。
莉子はペンを取った。
――白瀬さん、褒められたら受け取る練習中。
書いてから、白瀬に見せる。
「これ、書いていい?」
「もう書いていますね」
「事後確認」
「では、いいです」
「許可出た」
黒瀬が覗き込む。
「莉子、それ普通ノートなんだ」
「うん。ツッコミじゃない。記録」
「違いが出てきた」
「でしょ」
莉子は少し得意げに言った。
湊が答案を鞄にしまいながら、ふと莉子の普通ノートを見る。
「莉子さんのノートも、ちゃんと効いたんだな」
「朝比奈くんまで普通に言う」
「でも、そう見えた」
「うん」
莉子は珍しく、すぐに茶化さなかった。
「効いた」
小さく認める。
「普通ノート、効いた」
黒瀬が少しだけ笑う。
「魔法の道具じゃなかったけど」
「ちょっと魔法だった」
「書いたのは莉子でしょ」
白瀬が静かに言った。
「普通ノートが魔法なのではなく、藤堂さんが書いたから思い出せたんだと思います」
莉子は固まった。
黒瀬が横で「出た」という顔をする。
湊も少し笑っている。
莉子は白瀬を見た。
「白瀬さん」
「はい」
「そういうの、不意打ちで言うのやめて」
「すみません」
「謝らなくていいけど、刺さる」
白瀬は少し困ったように笑った。
莉子は普通ノートを見下ろす。
自分の字。
少し雑で、少し丸い。
途中で斜めになっているところもある。
でも、その字で書いたものが、テスト中に少し役に立った。
誰かがくれた言葉を、自分の手で書いたから。
莉子は答案の端に指を置く。
点数は、白瀬さんの言葉を証明するほど大げさなものではない。
でも、莉子にとっては十分だった。
「……じゃあ、次も書くかも」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
黒瀬がすぐに反応する。
「普通ノート?」
「うん」
「続く?」
「わかんない」
「そこは言い切らないんだ」
「言い切ると続かなかった時つらい」
「莉子らしい」
「褒めてる?」
「半分」
「便利にするな」
黒瀬は少し笑った。
その笑顔を見て、莉子も笑う。
教室の中では、まだあちこちで答案の話が続いていた。
点数を見せ合う声。
凡ミスを嘆く声。
次は頑張ると言いながら、すでに諦めている声。
その中で、四人の机だけは少し違う話をしていた。
点数の話をしているのに、点数だけではなかった。
ノートの話。
余白の話。
書いた言葉が、どこで役に立ったのかという話。
莉子はそれが少し面白いと思った。
昔なら、点数だけ見て終わりだった。
良ければ騒ぐ。
悪ければ笑い飛ばす。
そこそこなら、ネタにする。
でも今は、その途中にあるものまで見てしまう。
自分が書いた一行。
黒瀬が残した余白。
白瀬さんが置いた言葉。
朝比奈くんが保留ノートに書いた一行。
そういうものが、点数の周りに少しずつ並んでいる。
「莉子」
黒瀬が声をかける。
「何?」
「普通ノート、見せて」
莉子は目を丸くした。
「るいなが自分から言った」
「言うな」
「今のなし?」
「無理でしょ」
「無理」
莉子は笑った。
そして、普通ノートを黒瀬に向けた。
全部ではない。
見せてもいいページだけ。
単語のページ。
白瀬さんのまとめ。
自分で書いた「心だけでは暗記できない」。
黒瀬はその一行を見て、少し笑った。
「これ、効いたの?」
「効いた。かなり」
「なら、よかったじゃん」
「るいなが普通に言った」
「言うな」
「でも、嬉しい」
「受け取るな」
「受け取る」
莉子はそう言って、普通ノートを戻した。
それから、少しだけ迷って、黒瀬に言う。
「るいな」
「何」
「昨日の、答案より先に余白見たってやつ」
「……うん」
「あれ、私もわかるかも」
黒瀬が目を丸くする。
「莉子も?」
「うん。点数見る前に、普通ノート見たくなった」
「見たの?」
「朝、見た」
「そっか」
「何か、そこに昨日の私がいた」
莉子は自分で言って、少しだけ顔が熱くなった。
黒瀬がそれを見て、静かに言う。
「それ、いいじゃん」
今度は茶化さなかった。
白瀬も頷く。
「とても良いと思います」
湊も言う。
「普通ノートにも、莉子さんがいたんだな」
「三人で普通に言うのやめて」
莉子は両手で顔を隠した。
「私、ツッコミ担当なのに」
「今日はされる側」
黒瀬が言う。
「やだー」
「でも、嫌じゃないでしょ」
莉子は指の隙間から黒瀬を見る。
「……半分」
「便利にするな」
二人で笑った。
放課後。
莉子は一人で普通ノートを開いていた。
教室にはまだ黒瀬たちがいる。
白瀬さんはプリントを整理している。
湊は鞄に保留ノートをしまっている。
黒瀬は答案と余白ノートを見比べていた。
莉子は普通ノートの端に、今日の一行を書く。
――普通ノートの端っこにも、ちゃんと点数は返ってくる。
書いてから、少しだけ満足した。
点数が直接書かれているわけではない。
でも、書いたことは点数に少し返ってきた。
だから、こういう言い方でいい気がした。
「莉子」
黒瀬が近づいてくる。
「何?」
「今の、見せていいやつ?」
「うん」
莉子は普通ノートを向けた。
黒瀬は一行を読んだ。
――普通ノートの端っこにも、ちゃんと点数は返ってくる。
黒瀬は少しだけ黙ってから言った。
「いいじゃん」
「今日二回目」
「何が」
「るいなが普通に褒めるの」
「言うな」
「でも嬉しい」
「受け取るな」
「受け取るってば」
白瀬もその一行を読んだ。
「藤堂さんらしくて、とても良いです」
「白瀬さんに褒められると、普通に照れる」
「受け取る練習です」
「それ言われると逃げられない」
湊も覗き込む。
「莉子さんの普通ノート、続くかもな」
「わからないって」
「でも、今日の一行は続きそうな感じがする」
「朝比奈くんも刺す」
「悪い」
「謝るの早い」
四人で笑った。
夜。
黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを飲みながらその話をした。
「莉子の普通ノート、効いたらしい」
「うん」
「今日、ちょっと嬉しそうだった」
「そうだな」
「ツッコミ帳じゃなくて、普通ノートの方」
「うん」
「莉子も、自分が出るノートを持ち始めた」
「うん」
黒瀬はカップを見つめる。
「みんな、ちょっとずつ自分が出てる」
「そうだな」
「朝比奈の保留ノートも」
「うん」
「……消してない?」
「消してない。増えてもない」
「紙には?」
「今日はまだ増えてない」
「ならいい」
湊は少しだけ考えてから、保留ノートを開いた。
「今、書いてもいい?」
黒瀬が顔を上げる。
「見せるやつ?」
「見せるやつ」
「じゃあ、いい」
湊は一行書いた。
そして黒瀬に見せる。
――莉子さんの普通ノートにも、ちゃんと莉子さんがいた。
黒瀬はそれを読んで、少しだけ笑った。
「明日、莉子に見せる?」
「見せてもいいなら」
「見せたら、たぶん照れる」
「そうだな」
「でも、嬉しいと思う」
「うん」
「消さないで」
「消さない」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「今日のは、莉子の一行」
「うん」
「白瀬にも、あたしにも、莉子にも届く保留ノートになってきた」
「そうだな」
「見せない二行は?」
「まだ見せない」
「知ってる」
「消してない」
「うん」
「増えてもない」
「うん」
「でも、見せてもいい一行は増えた」
「それは、いい」
黒瀬は素直に言った。
そして少しだけ顔を赤くする。
「……たぶん」
「たぶん?」
「便利だから」
「便利だな」
「使うな」
二人は少し笑った。
普通ノートの端っこにも、ちゃんと点数は返ってきた。
莉子が書いた言葉は、確認テストの中で少しだけ役に立った。
そして、それ以上に。
自分の手で書いたものが自分に返ってくる感覚を、莉子は少しだけ知った。
その一行もまた、四人のノートの中に静かに混ざっていった。




