ep.140 普通ノートに、四人の名前が並んだ日
藤堂莉子は、朝の教室で普通ノートを開いていた。
ツッコミ帳ではない。
最近、鞄の中で妙な存在感を出し始めた、ただのルーズリーフの束だ。
最初は本当に普通のノートにするつもりだった。
英単語を書く。
数学の公式を書く。
白瀬栞の説明を少しだけ写す。
黒瀬琉衣奈に「ちゃんと書いてる」と言われる。
そのくらいのものになるはずだった。
けれど、気づけば端の方に、授業とは少し違う一行が増えている。
――ツッコミじゃない一行を、るいなに見せた。泣いてない。
――普通ノートは、自分が出るから危ない。でも、みんなわかるらしい。
――朝比奈くんの保留ノート、一ページ目は日付だけ。
――今日は、消さないでほしい一行が増えた日。
どれも、ツッコミ帳には書きにくい言葉だった。
茶化せば楽になる。
でも、茶化すと少し違うものになってしまう。
そういう言葉が、普通ノートには少しずつ溜まっていた。
「莉子」
黒瀬の声がして、莉子は顔を上げた。
「何?」
「朝から真面目な顔」
「失礼だなあ。私だって真面目な朝はあるよ」
「珍しい」
「否定して」
「無理」
「ひど」
莉子は笑った。
黒瀬は席に座ると、いつものようにノートを開いた。
その動きが、もう普通になっている。
少し前までの黒瀬なら、朝からノートを開いているだけで事件だったのに。
莉子は、それを普通ノートに書きそうになって、やめた。
今日は少し違うことを書きたかった。
「るいな」
「何」
「昨日の白瀬さんの一行、よかったね」
黒瀬の手が止まった。
昨日、白瀬は自分のノートにこう書いた。
――私の言葉も、誰かの余白に残っていた。
湊の保留ノートに書かれた一行を受けて、白瀬が残した一行。
それは、教室の空気を少しだけ静かにした。
黒瀬も、湊も、莉子も、しばらく何も言えなかった。
「……うん」
黒瀬は小さく頷いた。
「よかった」
「るいなが素直」
「言うな」
「ごめんごめん」
莉子は笑いながらも、今日はそこで引いた。
黒瀬がほっとしたように息を吐く。
それも見えた。
見えたけれど、今日は書かない。
代わりに、莉子は普通ノートへ一行書いた。
――るいなは、白瀬さんの一行をちゃんと大事にしている。
書いた瞬間、少しだけ照れた。
自分で書いたのに。
黒瀬が眉を寄せる。
「今、何書いた?」
「普通ノート」
「それは見ればわかる」
「見せない」
「……ふうん」
黒瀬は少しむくれた。
でも、無理には見ようとしない。
待つのが少し上手くなった黒瀬は、こういう時にも少し変わった。
前ならもっと強引に覗こうとしたかもしれない。
今は、気にしている顔をしながら待つ。
それが何だか可笑しくて、莉子は少し笑った。
「何」
「るいな、待つの上手くなったね」
「朝からそれ言う?」
「言う」
「言うな」
黒瀬は顔を赤くしてそっぽを向いた。
そこへ白瀬が教室に入ってきた。
「おはようございます」
「おはよー、白瀬さん」
「……おはよ」
白瀬の髪には、今日も黒瀬が選んだヘアピンがある。
莉子はそれを見て、少しだけ笑う。
白瀬は気づいた。
「藤堂さん?」
「いや、何でもない。今日も似合ってるなって」
「ありがとうございます」
白瀬は普通に受け取る。
黒瀬が横から小さく言う。
「普通に受け取る」
「褒めてもらえたので」
「そういうところ」
白瀬は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、黒瀬も少しだけ目元を緩める。
莉子は書きたくなった。
――白瀬さんのヘアピンは、もう朝の定番。
でも、それはツッコミ帳の方だろうか。
普通ノートの方だろうか。
迷っていると、白瀬が莉子の普通ノートを見た。
「藤堂さん、今日は普通ノートなんですね」
「うん。今日はこっちの日」
「そうですか」
「白瀬さんの昨日の一行、ちょっと残ってて」
白瀬の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「私の一行ですか」
「うん。あれ、よかった」
「……ありがとうございます」
白瀬は少しだけ頬を赤くした。
黒瀬もそれを見て、黙っている。
莉子は普通ノートの空いた行に、また一行を書いた。
――白瀬さんは、褒められると少しだけ静かに赤くなる。
黒瀬が横から覗きそうになって、途中で止まった。
「見ないの?」
莉子が聞く。
「見ていいやつ?」
「どうだろ」
「聞き返すな」
「今日はまだ保留」
「便利にするな」
白瀬が少し笑った。
「保留は便利ですね」
「白瀬さんまで」
黒瀬がむくれる。
その時、湊が教室に入ってきた。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「おはよ、朝比奈くん」
湊は四人の机の上を見た。
黒瀬の余白ノート。
白瀬の整ったノート。
莉子の普通ノート。
そして、自分の鞄の中には保留ノート。
湊は少しだけ苦笑した。
「朝からみんな書いてるな」
「朝比奈くんも持ってきてるでしょ」
莉子が言う。
「持ってきてる」
その一言に、黒瀬が少しだけ反応した。
湊は黒瀬を見て、静かに言う。
「消してない。増えてもない」
「……聞いてない」
「でも、顔が聞いてた」
「顔!」
黒瀬の声が跳ねる。
莉子は反射的にツッコミ帳へ手を伸ばしそうになった。
しかし、今日は普通ノートの日。
莉子は普通ノートに書いた。
――保留ノート報告、今日も継続。るいなは聞いてないと言うけど助かっている。
「莉子」
黒瀬が低い声で呼ぶ。
「何?」
「今、あたしのこと書いた?」
「名前は書いた」
「書いたんじゃん」
「でも普通ノート」
「免罪符じゃないって言った」
「じゃあ見せる?」
黒瀬が少し固まる。
「……見せていいやつ?」
「たぶん」
莉子はノートを少しだけ黒瀬へ向けた。
黒瀬は一行を読んで、顔を赤くした。
「助かってるって書くな」
「でも助かってるでしょ」
「……半分」
「はい、便利いただきました」
「便利にするな」
湊が少し笑う。
白瀬も笑う。
黒瀬はむくれながらも、ノートを莉子へ返した。
「消さなくていい」
莉子は少し驚いた。
「いいの?」
「……うん」
「るいな、今日やさしい」
「言うな」
「じゃあ消さない」
「うん」
莉子は普通ノートを閉じなかった。
むしろ、その一行の下に小さく書き足した。
――消さなくていい、と言われた。
それは、自分にとって少し大きな一行だった。
昼休み。
四人で机を寄せると、話題は自然に昨日の保留ノートの話になった。
莉子が言う。
「朝比奈くんの保留ノートってさ、もう黒瀬専用じゃなくなったよね」
黒瀬が少しだけ反応する。
「専用とか言うな」
「でも最初は、るいなの見せない二行が中心だったじゃん」
「……まあ」
「昨日、白瀬さんにも届いた」
白瀬は少しだけ目を伏せた。
「届いた、という表現は少し恥ずかしいですね」
「でも届いてたよ」
莉子は言う。
「白瀬さん、ちゃんと嬉しそうだった」
「顔に出ていましたか」
「少し」
白瀬は困ったように笑う。
「少しなら、よかったです」
「よかったんだ」
「はい。届いたなら、少しは出た方がいいのかもしれません」
黒瀬が小さく言う。
「それ、前にあたしも言った」
「はい」
「顔に出るの、全部悪いわけじゃないって」
「覚えています」
「普通に覚えるな」
「大事だったので」
「白瀬」
黒瀬は顔を赤くした。
莉子は普通ノートに一行書く。
――顔に出ることも、だんだん悪くなくなってきた。
湊がそれを見て、少しだけ頷いた。
「それ、いいな」
「朝比奈くんが普通に褒めた」
「本当にいいと思った」
「じゃあ消さない」
莉子は自分でそう言って、少しだけ笑った。
黒瀬は焼きそばパンを食べながら、湊の方を見た。
「朝比奈」
「何?」
「保留ノート、今日書く?」
「わからない」
「見せるやつ?」
「それもわからない」
「見せないやつ?」
「たぶん、今日は増やさない」
「……ならいい」
黒瀬は少し安心したように言った。
湊は続ける。
「でも、書くなら四人のことかもしれない」
「四人?」
莉子が聞く。
「うん。最近、みんなのノートが混ざってる感じがするから」
白瀬が静かに頷いた。
「誰かの一行が、別の誰かの余白に残っていますね」
「そう、それ」
湊が言う。
「黒瀬の余白に白瀬さんの言葉が残って、莉子さんの普通ノートに黒瀬の反応が残って、俺の保留ノートに白瀬さんのことが残って」
「混線してるね」
莉子が言う。
「ノート混線事件」
「事件にするな」
黒瀬が突っ込む。
莉子は笑った。
でも、その言葉を普通ノートに書いた。
――ノート混線事件。たぶん悪くない。
放課後、自習会は短かった。
確認テストが近いので、本当はもう少し真面目にやるべきだった。
けれど今日は、どこか四人とも言葉の方へ意識が行っていた。
白瀬が説明をしながらも、時々自分のノートの余白を見る。
黒瀬は問題を解きながら、端に一行を書き足す。
莉子は普通ノートで授業内容と四人の記録を行ったり来たりする。
湊は、最後の十分で保留ノートを開いた。
黒瀬がすぐに気づく。
白瀬も気づく。
莉子もペンを止める。
湊は少しだけ迷ったあと、一行書いた。
それから、ノートを四人の真ん中に置いた。
「これは、見せてもいい一行」
そこには、こう書かれていた。
――四人のノートが少しずつ混ざってきた。たぶん、今の距離に似ている。
莉子が最初に息を吐いた。
「朝比奈くん、また普通にいいこと書く」
「そうか?」
「そうだよ」
白瀬は静かに頷いた。
「今の距離に似ている、というのは、とてもわかります」
黒瀬は一行を見つめていた。
「混ざってるけど、全部一緒じゃない」
黒瀬がぽつりと言う。
「うん」
湊が頷く。
「それぞれのノートは違う」
「でも、名前は出てくる」
莉子が言う。
「言葉も移る」
白瀬が言う。
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「距離、近くなってるってこと?」
湊は黒瀬を見る。
「たぶん」
「普通に言うな」
「でも、そう思った」
「本当なら余計」
黒瀬はそう言いながら、保留ノートをもう一度見た。
「それも消さないで」
「うん。消さない」
白瀬も言った。
「私も、その一行は残っていてほしいです」
莉子も続ける。
「私も。これは普通ノートにも書く」
黒瀬は少し笑う。
「ツッコミ帳じゃないんだ」
「普通ノート案件」
「そっか」
莉子は普通ノートに書いた。
――四人のノートが混ざる距離。ちょっといい。
黒瀬は自分のノートに書いた。
――混ざってるけど、全部一緒じゃない。
白瀬は自分のノートに書いた。
――それぞれ違うまま、名前が行き来している。
湊は保留ノートに、もう一行だけ足した。
――これは、まだ保留じゃなくていい。
その一行を見て、黒瀬は少しだけ目を丸くした。
「それも見せるやつ?」
「うん」
「保留じゃなくていい?」
「うん」
「……そっか」
黒瀬は少しだけ嬉しそうに見えた。
莉子がそれを見て、普通ノートに書きかける。
黒瀬が睨む。
「莉子」
「はい、今のは心に保存」
「それも怖い」
「無理」
夜。
黒瀬は湊の部屋で、保留ノートの一行をもう一度見た。
――四人のノートが少しずつ混ざってきた。たぶん、今の距離に似ている。
――これは、まだ保留じゃなくていい。
「今日は、保留じゃない一行が増えた」
黒瀬が言う。
「うん」
「見せてもいい一行って、どんどん増える」
「そうだな」
「見せない二行は?」
「消してない。増えてもない」
「紙には?」
「まだ移してない」
「ならいい」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「今日のは、白瀬にも莉子にも届いてた」
「うん」
「四人の距離って言われると、ちょっと恥ずい」
「うん」
「でも、悪くない」
「うん」
「普通に受け取るな」
「でも、受け取りたい」
「ずるい」
湊は少し笑った。
黒瀬も少しだけ笑った。
普通ノートに、四人の名前が並んだ日。
黒瀬の余白にも。
白瀬の一行にも。
莉子の普通ノートにも。
湊の保留ノートにも。
それぞれの言葉が、それぞれの形で残った。
全部が一つになるわけではない。
でも、少しずつ混ざっていく。
その距離は、今の四人に少し似ていた。




