ep.139 見せてもいい一行は、メガネっ娘にも届いてしまう
黒瀬琉衣奈は、朝の教室で自分のノートを開いたまま、しばらく手を止めていた。
昨日の夜、朝比奈湊の保留ノートには、また一行増えた。
見せない二行ではない。
見せてもいい一行。
――黒瀬が消さないと言ったので、この一行も少し残りやすくなった。
何度思い返しても、意味がわからない。
いや、意味はわかる。
わかるから困る。
湊が書いた一行を、自分が消さないと言った。
その言葉で、湊もその一行を残しやすくなった。
ただそれだけのことだ。
けれど、それだけのことが妙に大きい。
黒瀬はノートの余白にシャーペンを置いた。
書くべきか。
書かないべきか。
迷った末に、一行だけ書いた。
――見せてもいい一行も、油断できない。
書いてから、すぐにノートを少し伏せる。
そこへ白瀬栞が静かに声をかけた。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
「今日は、少し警戒している顔ですね」
「白瀬、朝から精度高すぎ」
「すみません。そう見えました」
「見えすぎ」
黒瀬は顔を赤くしながら、ノートの端を指で押さえた。
白瀬は覗こうとはしない。
ただ、黒瀬の様子を見て少しだけ考える。
「朝比奈くんの保留ノートですか」
「……何でそこまでわかるの」
「昨日、黒瀬さんがかなり揺れていたので」
「揺れてない」
「少しだけ」
「少しだけって言えば許されると思ってる」
「便利なので」
「便利にするな」
黒瀬はため息をついた。
けれど、白瀬に聞かれるのは嫌ではなかった。
むしろ、少し話したかったのかもしれない。
「また一行、見せられた」
「見せない二行とは別の?」
「うん。見せてもいいやつ」
「そうですか」
「……聞く?」
白瀬は少しだけ目を丸くした。
黒瀬が自分から聞いたからだ。
黒瀬自身も、それに気づいて少し顔を赤くする。
「別に、言いたいわけじゃないけど」
「はい」
「でも、あたしだけで持ってると落ち着かない」
「では、聞きます」
白瀬は静かに頷いた。
黒瀬は小さな声で言った。
「黒瀬が消さないと言ったので、この一行も少し残りやすくなった、って」
白瀬は黙った。
ほんの数秒。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「良い一行ですね」
「やっぱり言った」
「でも、本当にそう思いました」
「普通に受け取るなって」
「受け取ったのは、黒瀬さんだと思います」
「白瀬、今日も逃げ道ふさいでくる」
「ふさいでいるつもりはありません」
「置き方がうまい」
黒瀬はノートに視線を落とした。
「見せてもいい一行って、見せられるから軽いのかと思った」
「違いましたか」
「違った。普通に刺さる」
「朝比奈くんの言葉だからでしょうか」
「……たぶん」
認めるのは悔しい。
でも、たぶんそうだ。
湊の言葉だから刺さる。
短くて、普通で、飾っていないのに、ちゃんと見てくるから。
白瀬は少しだけ目を伏せた。
「見せてもいい言葉も、大切なんですね」
「うん」
「見せない言葉だけが大切なのではなく」
「……うん」
黒瀬はそこで、白瀬の顔を見た。
白瀬は笑っている。
けれど、ほんの少しだけ遠くを見るような目をしていた。
黒瀬は何となく気づく。
白瀬は、湊の保留ノートが自分に向いていることを知っている。
それを応援してくれている。
けれど、まったく平気というわけではない。
だから黒瀬は、少しだけ迷ってから言った。
「白瀬」
「はい」
「あのノート、たぶんあたしのことだけじゃないと思う」
白瀬が顔を上げる。
「そうでしょうか」
「うん。朝比奈、たぶん見てるもの全部、ちゃんと書こうとしてる」
「……はい」
「だから、白瀬のことも」
そこまで言って、黒瀬は少し照れた。
「まあ、書くかもしれないし」
「黒瀬さん」
「何」
「気を遣っていますか?」
「……半分」
白瀬は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「普通に礼言うな」
「でも、嬉しかったので」
「出た」
そこへ莉子がやってきた。
「おはよー。あ、また何かいい話してた顔」
「莉子、顔だけで入ってこないで」
「だって顔が全部言うんだもん」
「言わない」
「言ってる。るいなは照れ、白瀬さんはちょっと嬉しい、でも少し考え中」
白瀬が少し目を丸くした。
「藤堂さんも、見えすぎです」
「白瀬さんに言われた。勝った」
「勝ち負けじゃない」
黒瀬が突っ込む。
莉子は今日はツッコミ帳ではなく普通ノートを出した。
「今日も普通ノート?」
黒瀬が聞く。
「うん。最近こっちも育ててる」
「育成ゲームみたいに言うな」
「ノート育成」
「やめて」
いつもの軽さが戻る。
黒瀬は少しだけほっとした。
昼休み。
四人で机を寄せると、湊はいつものようにパンを出した。
保留ノートは机に出していない。
けれど、黒瀬は鞄の中にあることを知っている。
持ってきていると、朝に言われた。
消してない。
増えてない。
紙にも増えてない。
細かい報告。
必要だけど、恥ずかしい。
「朝比奈くん」
白瀬が声をかけた。
「うん?」
「保留ノートは、今日は書きましたか」
黒瀬が固まった。
莉子も「お」と顔を上げる。
湊は少し驚いたように白瀬を見た。
「まだ書いてない」
「そうですか」
「気になる?」
白瀬は少しだけ考えた。
「気になる、というより」
「うん」
「朝比奈くんが、どんな言葉なら見せてもいいと思うのか、少し知りたいと思いました」
黒瀬はその言葉に、少し胸が揺れた。
白瀬が聞いた。
白瀬も、湊の言葉を知りたいと思っている。
それは自然なことだ。
でも、黒瀬はほんの少しだけ落ち着かなくなった。
湊はしばらく黙っていた。
それから鞄から保留ノートを出した。
黒瀬の手が止まる。
莉子も普通ノートを開きかけて、やめる。
白瀬は静かに待っている。
湊はノートを開き、少しだけ考えたあと、一行を書いた。
そして、ノートを白瀬の方へ向けた。
「これは、見せてもいい一行」
白瀬は息を止めたように見えた。
そこには、こう書かれていた。
――白瀬さんが言葉を置いてくれたから、黒瀬は待つ言葉を覚えた。
白瀬は、その一行を読んで動かなくなった。
黒瀬も、何も言えなかった。
莉子も、珍しく黙っている。
教室のざわめきが、少し遠く聞こえた。
「……朝比奈くん」
白瀬が小さく言った。
「はい」
なぜか敬語になった湊に、黒瀬が少しだけ変な顔をした。
でも突っ込まなかった。
白瀬はもう一度、その一行を見る。
「それは、私の力ではありません」
「うん」
「黒瀬さんが、自分で覚えたことです」
「それもわかってる」
「では」
「でも、白瀬さんの言葉があったからだと思う」
湊は静かに言った。
「黒瀬が待つって言えるようになったのは、白瀬さんの一行を待ったことが大きいと思う」
白瀬は返事ができなかった。
黒瀬は顔を赤くして、視線を落とす。
その通りだと思った。
白瀬の一行を待った。
白瀬が見せてくれた。
その経験があったから、湊の見せない二行を待つこともできた。
それは、確かに白瀬がくれたものでもある。
「白瀬」
黒瀬は小さく言った。
「何でしょう」
「……あたしも、そう思う」
白瀬の目が、少し揺れた。
「黒瀬さんまで」
「普通に言うなって言われるやつ?」
「言いません」
「言わないの」
「今は、言えません」
白瀬は少しだけ笑った。
けれど、その目元は少し赤かった。
莉子がそっとティッシュを出す。
白瀬は驚いて莉子を見る。
「藤堂さん」
「念のため」
「泣いていません」
「知ってる。これは心の保護者として」
「保護者」
白瀬は少しだけ笑った。
黒瀬も小さく笑う。
湊はノートを閉じようとした。
すると白瀬が言った。
「朝比奈くん」
「うん」
「その一行は、消さないでください」
今度は湊が固まった。
黒瀬も、莉子も白瀬を見る。
白瀬は少し顔を赤くしていた。
「見せてもらった一行なので」
湊はゆっくり頷いた。
「消さない」
「ありがとうございます」
莉子が普通ノートを開いた。
「これは書いていい?」
白瀬は少し迷って、頷いた。
「はい」
莉子は静かに一行を書いた。
――白瀬さんにも、消さないでほしい一行ができた。
黒瀬がそれを見て、何も言わなかった。
今日は、言わない方がいい気がした。
放課後の自習会は、少しだけ静かだった。
静かといっても、莉子がいるので完全に静かにはならない。
ただ、いつものような大きな脱線は少なかった。
白瀬はいつも通り説明している。
けれど、時々湊の保留ノートのことを思い出しているようだった。
黒瀬はそれに気づく。
湊も気づいている。
莉子も、たぶん気づいている。
それでも、誰も急かさなかった。
自習会が終わる頃、白瀬は自分のノートの余白に一行を書いた。
黒瀬がそれに気づく。
「白瀬」
「はい」
「今の、見せないやつ?」
白瀬は少し考えた。
「少しだけ、見せてもいい一行です」
黒瀬の胸が少し跳ねた。
白瀬はノートを黒瀬と湊、莉子の方へ向けた。
――私の言葉も、誰かの余白に残っていた。
誰もすぐには喋らなかった。
莉子が先に小さく言う。
「白瀬さん、それ、すごくいい」
「ありがとうございます」
黒瀬はその一行を見て、少しだけ鼻の奥がつんとした。
「……白瀬」
「はい」
「それ、消さないで」
白瀬は目を丸くした。
それから、静かに頷いた。
「消しません」
湊も言った。
「俺の一行も消さない」
「はい」
莉子が普通ノートに何か書こうとして、少し迷う。
そして書いた。
――今日は、消さないでほしい一行が増えた日。
黒瀬がそれを見る。
「莉子」
「何?」
「それ、いい」
莉子は少し照れた。
「普通に褒められた」
「普通に言うな」
「受け取る」
「受け取るな」
「無理」
四人は少しだけ笑った。
夜。
黒瀬は湊の部屋に来た。
カフェラテを両手で包み、今日はいつもより静かに話し始めた。
「今日の一行」
「白瀬さんの?」
「うん」
「消さない」
「それは聞いた」
「うん」
「白瀬、嬉しそうだった」
「そうだな」
「ちょっと泣きそうだった」
「うん」
「莉子がティッシュ出した」
「あれ、よかったな」
「うん」
黒瀬はカップを見つめる。
「あのノート、あたしだけじゃないの、ちょっと安心した」
「うん」
「でも、ちょっと面白くない」
湊は少しだけ笑った。
黒瀬が睨む。
「笑うな」
「ごめん。でも黒瀬らしい」
「便利にするな」
「してない」
「してる」
黒瀬はクッションを抱え直した。
「でも、白瀬のこと書いてくれてよかった」
「書きたかった」
「普通に言うな」
「でも、本当に」
「本当なら余計」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから言った。
「朝比奈の見せてもいい一行、今日は白瀬に届いた」
「うん」
「あたしに刺さるだけじゃないんだね」
「そうだな」
「それ、ちょっといい」
「うん」
「でも、あたしの見せない二行は?」
「まだ見せない」
「知ってる」
「消してない。増えてもない」
「紙には?」
「今日の白瀬さんの一行だけ」
「ならいい」
黒瀬はカフェラテを一口飲む。
「待つ」
「うん」
「でも、文句はある」
「うん」
「でも、今日は白瀬の一行が大事だから、文句は半分」
「半分か」
「便利だから」
「便利だな」
「使うな」
二人は少し笑った。
見せてもいい一行は、メガネっ娘にも届いてしまった。
湊の保留ノートは、黒瀬だけのものではなくなった。
白瀬の言葉が黒瀬の余白に残っていたこと。
それを湊が一行にしたこと。
白瀬自身が、それを受け取ったこと。
四人の記録は、少しずつ互いのノートをまたいでいく。
誰かの一行が、別の誰かの余白に残る。
それは少し怖くて、少し恥ずかしくて、でも確かに嬉しいことだった。




