ep.136 ツッコミ帳じゃない一行を、莉子はギャルに見せる
翌朝、藤堂莉子は少しだけ迷っていた。
鞄の中には、二つの紙の束がある。
一つは、いつものツッコミ帳。
黒瀬琉衣奈の言葉を勝手に辞書化し、白瀬栞の「本当なので」を記録し、朝比奈湊の無自覚に刺さる一言を保存している、危険物扱いされているメモ帳。
もう一つは、昨日使った普通のルーズリーフ。
そこには、授業の単語や問題の途中式が書かれている。
そして、その端に一行だけ、自分でも少し扱いに困る言葉が残っていた。
――書かれたかもしれないだけで、ちょっと嬉しい。
昨日、白瀬さんには見せた。
白瀬さんは「良い一行だと思います」と言ってくれた。
それは嬉しかった。
でも、本当に見せるべき相手は、たぶん黒瀬だ。
黒瀬が自分のことをノートに書いてくれたかもしれない。
それだけで嬉しかった。
いつもなら、こんなことは絶対に言わない。
言うなら茶化す。
「え、るいな、私のこと書いたの? 好きじゃん」
そのくらいの軽さにする。
そうすれば、自分も恥ずかしくないし、黒瀬も怒れる。
でも昨日は、どうしてもそういう気分になれなかった。
ツッコミ帳を閉じた日。
書かないことで守った日。
その日に生まれた一行だから、軽くしすぎるのが少しもったいなかった。
「……めんどくさ」
莉子は自分に向かって呟いた。
人のことは散々茶化すくせに、自分のことになるとこれだ。
かなり面倒くさい。
教室に入ると、黒瀬はもう席にいた。
白瀬さんもいる。
朝比奈くんはまだ来ていない。
黒瀬はノートを開いていたが、莉子に気づくと少しだけ顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよ、るいな」
いつもの挨拶。
でも、黒瀬の顔を見ると、昨日の一行がまた胸の中で少し動いた。
莉子は鞄を机に置き、ツッコミ帳ではなく、昨日のルーズリーフを取り出した。
黒瀬がすぐに気づく。
「今日もそっち?」
「うん」
「ツッコミ帳は?」
「今日はまだ鞄」
「珍しい」
「最近、私も成長してるから」
「自分で言うな」
黒瀬はそう言ってから、少しだけ莉子の手元を見た。
「……昨日のやつ?」
「うん」
「普通ノート?」
「普通ノート。たぶん」
「たぶんって何」
「普通じゃない一行もあるから」
黒瀬が眉を寄せた。
「何それ」
莉子は少しだけ笑った。
いつもの笑い方にしようと思った。
けれど、少し失敗した。
黒瀬はそれに気づいたらしい。
「莉子?」
「何?」
「今日、ちょっと変」
「るいなに言われた」
「言うでしょ。変だし」
「顔?」
「顔」
莉子は、思わず笑った。
「るいなに顔って言われる日が来るとはね」
「莉子のせい」
「まあ、否定はしない」
そこで白瀬さんが静かに言った。
「藤堂さん、おはようございます」
「白瀬さん、おはよ」
「昨日の一行のことですか」
莉子は固まった。
黒瀬が白瀬を見る。
「昨日の一行?」
白瀬さんは、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません。言いすぎました」
「白瀬さん、たまにすごいタイミングで置いてくるよね」
莉子が言うと、白瀬さんは少し困ったように笑った。
「置いているつもりはないのですが」
「置いてる置いてる。逃げ道つきの直球」
黒瀬がぴくっとした。
「それ、莉子が書いたやつ?」
「うん。昨日の普通ノートに」
「見せたの?」
「白瀬さんには」
「……あたしには?」
黒瀬の声が、思ったより小さかった。
莉子はそこで少しだけ息を止めた。
黒瀬が気にしている。
自分の一行を。
茶化さないで聞いている。
それがわかったから、莉子も逃げにくくなった。
「見せようか迷ってた」
「……ふうん」
「見たい?」
いつもなら、ここで黒瀬は即座に「別に」と言う。
でも今日は少し違った。
黒瀬は一度ノートへ視線を落とし、それから小さく頷いた。
「……見たい」
莉子は、言葉を失った。
黒瀬も自分で言って顔を赤くしている。
「今のなし」
「無理」
莉子は即答した。
「これは無理。私でも無理」
「莉子」
「だって、るいなが普通に見たいって言った」
「普通に言うな」
「言ったのはるいな」
「うるさい」
黒瀬はむくれた。
でも逃げなかった。
莉子はルーズリーフを開いた。
白瀬さんが見た一行。
それを黒瀬の方へ向ける。
――書かれたかもしれないだけで、ちょっと嬉しい。
黒瀬は、その一行を見て固まった。
数秒、何も言わない。
莉子は急に不安になる。
やっぱり重かっただろうか。
自分らしくなかっただろうか。
笑いにした方がよかっただろうか。
けれど、黒瀬は顔を赤くしたまま、ぼそっと言った。
「……莉子」
「うん」
「こういうの、書くんだ」
「私だって書くよ」
「ツッコミじゃないのに」
「ツッコミじゃないのも、たまには」
黒瀬はもう一度その一行を見た。
「昨日、あたしのノート見えた?」
「名前だけ。内容は見えてない」
「そっか」
「でも、私の名前あったから」
「……うん」
「それで、ちょっと嬉しかった」
莉子は、できるだけ軽く言おうとした。
でも、軽くなりきらなかった。
黒瀬はノートを閉じたまま、少しだけ視線を逸らす。
「書いたよ」
「え?」
「莉子のこと」
今度は莉子が固まった。
黒瀬は顔を赤くしたまま、自分のノートを開いた。
少し迷ってから、昨日のページを莉子に向ける。
――莉子、今日は書かないことで守った。
――でも、普通ノートに少し書いてた。たぶん嬉しいやつ。
莉子は、その二行を見て、少しだけ目の奥が熱くなった。
まずい。
これはまずい。
泣くところではない。
絶対に泣くところではない。
莉子は笑った。
「るいな、たぶん嬉しいやつって何」
「そのまま」
「雑」
「莉子のことだから、合ってると思って」
「合ってるけど」
「合ってるんじゃん」
黒瀬は少しだけ笑った。
莉子も笑った。
けれど、声が少し震えた。
黒瀬が気づく。
「莉子」
「何?」
「泣く?」
「泣かない」
「目、赤い」
「花粉」
「季節違う」
「気合い」
「意味わかんない」
白瀬さんが静かにティッシュを差し出した。
莉子はそれを見て、思わず笑ってしまった。
「白瀬さん、準備よすぎ」
「念のためです」
「泣いてないってば」
「はい」
「信じてない返事」
「少しだけ」
「少しだけって便利だね」
「便利です」
その時、朝比奈くんが教室に入ってきた。
「おはよう」
いつもの声。
けれど、三人の空気を見て少しだけ足を止めた。
「何かあった?」
黒瀬が即答する。
「何もない」
莉子も言う。
「ちょっとだけあった」
白瀬さんが続ける。
「大事な一行の話です」
朝比奈くんは少しだけ目を丸くした。
それから、莉子のルーズリーフと黒瀬のノートを見て、何となく察した顔をした。
「そっか」
「朝比奈くん、今ので察するの怖い」
莉子が言うと、朝比奈くんは苦笑した。
「最近、みんな一行にいろいろ入れるから」
「それはそう」
莉子はルーズリーフを閉じた。
「今日は、ツッコミ帳じゃない一行を見せた日」
黒瀬が少しだけ顔を赤くする。
「記録するの?」
「うん。でもツッコミ帳じゃなくて、こっちに書く」
莉子は普通ノートの端に一行書いた。
――ツッコミじゃない一行を、るいなに見せた。泣いてない。
黒瀬が覗き込む。
「最後、嘘じゃん」
「嘘じゃない」
「泣きかけた」
「かけてない」
「かけた」
「るいな、こういう時だけ鋭い」
「顔」
「仕返しがうまくなってる」
莉子は笑った。
その笑いは、いつもの莉子に戻っていた。
でも、少しだけ違う。
ツッコミだけではない一行を見せた後の莉子だった。
昼休み。
四人で机を寄せた時、莉子は今日もツッコミ帳を出さなかった。
ただし、普通ノートは机の上にあった。
黒瀬がそれを見て言う。
「莉子、今日も普通ノート?」
「うん。今日は普通ノートの日」
「続く?」
「わかんない」
「そこは正直」
「無理に続けると嫌になるから」
白瀬さんが頷いた。
「それでいいと思います」
「白瀬さんに許可もらった」
「許可ではありません」
「でも嬉しい」
「それならよかったです」
朝比奈くんが少し笑う。
「莉子さんの普通ノート、ツッコミ帳より危険じゃないか?」
「何で?」
「本音が出るから」
莉子は少し固まった。
黒瀬がすぐに湊を睨む。
「朝比奈、普通に刺すな」
「ごめん」
「莉子にまで刺す」
「無自覚刺し担当だし」
「担当にするな」
莉子は少し遅れて笑った。
「いや、今のはちょっと刺さった」
「悪い」
「でも合ってるかも」
莉子は普通ノートを軽く指で叩いた。
「ツッコミ帳は安全なんだよね。人のこと書いてるから」
「安全?」
黒瀬が眉を寄せる。
「私たち的には危険だけど」
「そうだけどさ」
莉子は少しだけ言葉を探した。
「普通ノートは、自分が出るから、ちょっと危ない」
白瀬さんが静かに頷く。
「わかります」
「白瀬さんも?」
「はい。私も、自分の気持ちを書くのは少し怖いので」
黒瀬も小さく言う。
「わかる」
莉子は二人を見る。
白瀬さんと黒瀬。
二人とも、自分のノートに自分を残す怖さを知っている。
それが少し心強かった。
朝比奈くんは、少しだけ黙っていた。
きっと、見せない二行のことを考えている。
莉子は、今日はそこを突っ込まなかった。
代わりに、普通ノートに書いた。
――普通ノートは、自分が出るから危ない。でも、みんなわかるらしい。
黒瀬がそれを見て、少しだけ笑った。
「それ、いいじゃん」
「るいなが普通に褒めた」
「普通に言うな」
「嬉しい」
「受け取るな」
「受け取るよ」
莉子はにっと笑った。
放課後、自習会はいつもより穏やかだった。
ツッコミ帳がない分、脱線は少し減った。
でも、完全にはなくならない。
莉子がいる限り、脱線はする。
黒瀬が問題文を見て「日本語なのに敵」と言えば、莉子が「問題文は敵国の密書」と言い、白瀬さんが「密書ではありません」と真面目に返し、朝比奈くんが「まず暗号解読からだな」と乗る。
黒瀬が「朝比奈まで乗るな」と怒る。
結局、いつも通りだった。
ただ、莉子はそのやり取りをツッコミ帳にではなく、普通ノートの端に少しだけ残した。
――今日も結局うるさい。安心。
それを黒瀬に見られて、黒瀬が少し笑った。
「莉子、それはツッコミ帳っぽい」
「でも普通ノート」
「境界が曖昧」
「そこが私らしいってことで」
「便利」
「便利にするな」
帰り支度の時、黒瀬が莉子の横に来た。
「莉子」
「何?」
「今日の一行」
「どれ?」
「ツッコミじゃないやつ」
「うん」
「見せてくれて、ありがと」
莉子は、今度こそ少しだけ目を伏せた。
「……どういたしまして」
「普通に返した」
「そりゃ返すよ」
「泣く?」
「泣かない」
「ほんと?」
「半分」
「便利にするな」
二人で笑った。
その笑いは、いつもの騒がしいものに戻っていた。
でも、昨日より少しだけ近かった。
夜。
黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを両手で包みながら言った。
「莉子、今日普通ノート見せた」
「うん」
「ツッコミじゃない一行」
「大事だった?」
「うん」
黒瀬はノートを開く。
湊に見せた。
――莉子、ツッコミじゃない一行を見せた。
――泣きかけた。本人は否定。
――普通ノートは、自分が出るから危ないらしい。
湊はそれを読んで、少し笑った。
「莉子さんらしいな」
「うん」
「でも、ちゃんと大事な日だったんだな」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲む。
「ツッコミ帳じゃなくても、莉子は莉子だった」
「そうだな」
「白瀬のノートじゃなくても、白瀬は白瀬だし」
「うん」
「あたしの余白も、たぶんあたしだし」
「うん」
「朝比奈の見せない二行も」
黒瀬は少しだけ湊を見る。
「たぶん朝比奈なんでしょ」
湊は、少しだけ息を止めた。
それから頷く。
「たぶん」
「なら、待つ」
「うん」
「でも、文句は言う」
「うん」
「消してない?」
「消してない。増えてもない」
「報告が定型化してきた」
「いる?」
「いる」
黒瀬は即答してから、顔を赤くした。
「……半分」
「今のは無理がある」
「うるさい」
湊は笑った。
黒瀬も、少しだけ笑った。
ツッコミ帳じゃない一行を、莉子はギャルに見せた。
茶化さず、逃げず、でも少しだけ照れながら。
それはツッコミではなく、莉子自身の言葉だった。
黒瀬はそれを受け取り、自分のノートに残した。
そして夜の部屋で、湊の見せない二行もまた、いつか湊自身の言葉として見せられる日が来るのだろうと、少しだけ思った。




