ep.135 空白のページにも、ちゃんと意味があるらしい
藤堂莉子は、その朝、ツッコミ帳を開かなかった。
持ってきてはいる。
鞄の中に、いつもの小さなメモ帳は入っている。
表紙の角が少しだけ曲がっていて、昨日までに書いた黒瀬琉衣奈語録や、白瀬栞の「本当なので」系列や、朝比奈湊の無自覚刺し記録が、ページの中にちゃんと並んでいる。
けれど、今日は開かなかった。
開こうと思えば、いくらでも開ける。
朝から黒瀬は少し複雑な顔をしていたし、白瀬さんはそれを静かに見ていたし、朝比奈くんは何か言いたそうにしながら黙っていた。
ネタなら山ほどある。
でも、今日は書かない。
昨日、自分でそう決めた。
書かないことで守れるものもある。
白瀬さんが言った言葉だ。
あれは少しずるい。
藤堂莉子は、そう思っていた。
自分がツッコミ帳を閉じたことに、そんな綺麗な意味をつけられるとは思っていなかったからだ。
ただ、昨日は何となく書かない方がいいと思った。
黒瀬と朝比奈くんの間にある、見せない二行。
それは、茶化すには少し近すぎるものだった。
いつものように「るいな、顔赤い」とか「朝比奈くん、また無自覚」とか書けば、たぶん笑いにはなる。
けれど、笑いにした瞬間、少しだけ形が変わってしまう気がした。
だから書かなかった。
それだけだった。
それなのに、黒瀬はノートに書いたらしい。
――莉子、ツッコミ帳を閉じた日。
それを昨日の夜、朝比奈くんに見せたのだと、朝のメッセージでこっそり聞いた。
いや、こっそりというほどではない。
黒瀬が朝、莉子の席の横を通りがかりに、ぼそっと言ったのだ。
「……昨日のこと、書いた」
「何を?」
「莉子がツッコミ帳閉じた日って」
それだけ言って、黒瀬はすぐに自分の席へ行ってしまった。
顔は赤かった。
相変わらずわかりやすい。
莉子はその背中を見ながら、しばらく何も言えなかった。
茶化そうと思えば茶化せた。
「え、るいな、私のこと書いたの? 好きじゃん」
いつもの調子なら、そう言えた。
でも言えなかった。
言うと、何かが軽くなりすぎる気がしたからだ。
だから莉子は、今日はツッコミ帳を開かなかった。
その代わり、普通のルーズリーフを一枚出した。
「莉子」
黒瀬がすぐに気づいた。
「何?」
「今日も普通のノート?」
「うん」
「ツッコミ帳は?」
「鞄の中」
「出さないの?」
「出さない日」
黒瀬は少しだけ目を丸くした。
白瀬さんもこちらを見る。
朝比奈くんは、少しだけ黙っている。
莉子はルーズリーフの上に日付を書いた。
字は別に綺麗ではない。
黒瀬より丸い。
白瀬さんよりずっと雑。
朝比奈くんの字はあまり見たことがないが、たぶん自分よりは落ち着いている。
莉子は日付の下に、何を書こうか迷った。
授業のことを書くべきだ。
今日は確認テスト前の復習がある。
でも、手が少しだけ止まった。
ツッコミ帳なら、すぐに書ける。
黒瀬の顔。
白瀬さんの言葉。
朝比奈くんの間。
いくらでも拾える。
でも普通のノートには、何を書けばいいのか少しわからない。
黒瀬が言った。
「莉子、手止まってる」
「見ないでよ」
「見えるし」
「見えすぎ」
「それ白瀬さんのやつ」
「便利だから」
「便利にするな」
いつものやり取りになって、少し安心した。
白瀬さんが静かに言う。
「藤堂さん」
「ん?」
「無理に綺麗に書こうとしなくてもいいと思います」
「白瀬さんに言われると説得力あるような、ないような」
「私のノートは、私が落ち着くための形なので」
白瀬さんは自分のノートにそっと手を置いた。
「藤堂さんのノートは、藤堂さんが思い出せる形なら、それでいいと思います」
莉子は少しだけ笑った。
「白瀬さん、最近ほんと刺すよね」
「刺していますか?」
「優しく刺す」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
黒瀬が横から言う。
「白瀬のは刺すっていうより、置いてくるやつ」
「置いてくる?」
「逃げ道あるけど、逃げにくいところに置く」
言ってから、黒瀬は少し顔を赤くした。
白瀬さんも少しだけ目を丸くする。
莉子は笑いそうになった。
でも、今日はツッコミ帳を開かない。
代わりに、ルーズリーフの端に小さく書いた。
――白瀬さんの言葉は、逃げ道つきの直球。
黒瀬が覗き込んだ。
「莉子、それ勉強?」
「違う」
「ツッコミ帳閉じてる意味」
「普通ノートに書いたからセーフ」
「アウト寄り」
「半分セーフ」
「便利にするな」
四人の空気が少しだけ軽くなる。
莉子は、やっぱり少し安心した。
書かなくてもいい。
でも、書いてもいい。
どこに書くかを選べばいいだけなのかもしれない。
昼休み、黒瀬はいつもより少しだけ静かだった。
湊の見せない二行のことは、まだ続いている。
今日も内容は見せてもらっていない。
ただ、湊は朝にまた報告したらしい。
黒瀬がスマホを見て、すぐに顔を伏せたのを莉子は見た。
何と書かれていたかは聞かなかった。
聞きたい。
もちろん聞きたい。
でも、今日は聞かない。
莉子がそう決めていると、白瀬さんがふとこちらを見た。
「藤堂さん」
「何?」
「今日は、聞かないんですね」
「うん」
「すごいと思います」
「え、そこ褒められる?」
「はい」
白瀬さんは真面目に頷いた。
「聞きたいことを聞かないでいるのは、簡単ではないと思うので」
「白瀬さん、ほんと朝から晩まで強いね」
「晩はまだです」
「そこ真面目に返す?」
莉子は笑った。
黒瀬も少し笑った。
湊も、少しだけ表情を緩めた。
莉子はそれを見て、今日もツッコミ帳を出したくなった。
――白瀬さん、晩はまだです発言。天然強火。
書きたい。
すごく書きたい。
でも、今日は出さない。
莉子は代わりに、ルーズリーフの端に小さく書いた。
――聞かない日も、意外と疲れる。
黒瀬がそれに気づいた。
「莉子」
「何?」
「今のは、ちょっとわかる」
莉子は目を丸くした。
「るいなも?」
「うん」
「そっか」
「うん」
黒瀬は焼きそばパンの袋を折りながら言った。
「聞かないの、疲れる」
「だよね」
「でも、聞かない方がいい時ある」
「あるね」
「それも疲れる」
「わかる」
二人は少しだけ黙った。
いつもの騒がしい沈黙ではない。
ほんの少し、並んで同じ方向を見ているような沈黙だった。
湊が言う。
「二人とも、今日は待つ側だな」
「朝比奈くん、まとめが急に白瀬さん寄り」
莉子が言う。
黒瀬は湊を睨む。
「普通に言うな」
「でも、そう見えた」
「見えすぎ」
「みんな言うようになったな」
「原因は莉子」
「私?」
莉子が自分を指差す。
「そう」
黒瀬が即答する。
白瀬さんも少しだけ笑った。
「藤堂さんの影響は大きいと思います」
「え、私、影響力ある?」
「あります」
「白瀬さんに言われると、ちょっと嬉しい」
「本当なので」
「出た」
黒瀬と莉子の声が重なった。
一瞬の沈黙。
湊が笑った。
黒瀬がすぐに睨む。
「朝比奈、笑うな」
「今のは無理だろ」
「無理って言うな」
莉子も笑った。
今日はツッコミ帳を閉じている。
でも、笑いはちゃんとある。
放課後、自習会は短めだった。
確認テスト前なので、白瀬さんが範囲の最終確認をしてくれる。
黒瀬はノートに要点を書く。
湊は補足する。
莉子はルーズリーフに、いつもより少しだけ真面目に単語を書いた。
途中、黒瀬が莉子の手元を見て言った。
「莉子、ちゃんと書いてる」
「珍しい?」
「珍しい」
「否定してよ」
「無理」
「ひど」
黒瀬は少し笑って、ノートの余白に何かを書いた。
莉子はそれに気づく。
「今、私のこと書いた?」
「書いてない」
「嘘」
「……ちょっと」
「見せて」
「騒がない?」
「今日は騒がない日」
「ほんと?」
「半分」
「だめ」
「じゃあ心で見る」
「怖い」
黒瀬はノートを自分の方へ引き寄せた。
でも、少しだけ端が見えた。
莉子の名前があった。
内容までは見えない。
でも、それだけで少し嬉しかった。
見えたことは言わなかった。
書かれている。
たぶん、自分のことが黒瀬のノートに残っている。
昨日もそうだった。
今日も、たぶん。
それが、思ったより嬉しい。
莉子は自分のルーズリーフの端に書いた。
――書かれたかもしれないだけで、ちょっと嬉しい。
書いてから、すぐに顔が熱くなった。
何だこれ。
自分らしくない。
でも、消さなかった。
自習会が終わり、帰り支度をしている時、白瀬さんが莉子のルーズリーフをちらっと見て、すぐに視線を戻した。
「見えた?」
莉子が聞く。
「少しだけ」
「見えちゃった?」
「はい。すみません」
「いいよ」
莉子は少し迷ってから、その一行を白瀬さんに向けた。
――書かれたかもしれないだけで、ちょっと嬉しい。
白瀬さんはそれを静かに読んだ。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「良い一行だと思います」
「白瀬さん、それみんなに言うやつ」
「本当にそう思った時だけです」
「それはずるい」
「ずるいですか」
「ずるい」
莉子はルーズリーフを閉じた。
でも、その一行を消さなかった。
帰り際、黒瀬が近づいてきた。
「莉子」
「何?」
「今日」
「うん」
「ツッコミ帳、出さなかった」
「出さなかったね」
「……ありがと」
莉子は一瞬、言葉を失った。
黒瀬が自分から礼を言った。
これはかなり大事件だ。
本来なら今すぐツッコミ帳に記録すべきだ。
けれど、今日は出さない日。
莉子はぐっと我慢した。
「どういたしまして」
普通に返した。
黒瀬は少しだけ顔を赤くする。
「普通に返すな」
「そこ怒る?」
「何か恥ずい」
「じゃあ、やっぱ記録しようか?」
「やめて」
「しないしない。今日は閉じる日だから」
莉子は鞄の中のメモ帳を軽く叩いた。
「でも、心には残す」
「それも恥ずい」
「無理」
黒瀬はむくれた。
でも、少し安心したようにも見えた。
夜。
黒瀬は湊の部屋へ行った。
カフェラテを両手で包みながら、今日のノートを開く。
「今日、莉子がツッコミ帳出さなかった」
「うん」
「だから、あたしが書いた」
「何て?」
黒瀬はノートを向けた。
――莉子、今日は書かないことで守った。
――でも、普通ノートに少し書いてた。たぶん嬉しいやつ。
湊はそれを読んで、少しだけ笑った。
「莉子さんが見たら、嬉しそうだな」
「見せない」
「そうか」
「でも、いつか見せるかも」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲む。
「莉子、今日ありがたかった」
「うん」
「白瀬も、言葉選んでくれた」
「うん」
「朝比奈の二行はまだ見てない」
「うん」
「でも、今日はそれでよかった」
湊は頷いた。
「消してない。増えてもない」
「今日はそれ、二回目」
「報告」
「細かい」
「必要かと」
「必要だけど」
黒瀬は少し顔を赤くした。
「……助かる」
湊は笑わなかった。
ただ、静かに頷いた。
「うん」
「普通に受け取るな」
「でも、受け取りたかった」
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
黒瀬は少しだけ笑った。
空白のページにも、ちゃんと意味があるらしい。
莉子がツッコミ帳を開かなかった日。
白瀬が言葉を選んだ日。
黒瀬がそれをノートに残した日。
そして湊が、見せない二行を今日も消さずに持っていた日。
書かれなかった言葉も、消されたわけではない。
ただ、まだそこに置かれている。
今はそれでいいのだと、四人は少しずつ覚え始めていた。




