ep.133 待ってると言われた男子は、その一行を書き直せなくなる
朝比奈湊は、昨夜の黒瀬琉衣奈の言葉を、朝になってもまだ覚えていた。
――待ってる。
たった四文字だった。
短い。
短すぎる。
けれど、その短さが妙に残った。
湊が以前、黒瀬に見せた一行。
――今日も黒瀬は文句を言いながら嬉しそうだった。
あの時、黒瀬は「短いのに刺さる」と怒った。
今なら、少しだけわかる。
短い言葉は、逃げ道が少ない。
飾りも説明もない分、まっすぐ届いてしまう。
昨夜、黒瀬はカフェラテを両手で包んだまま、顔を赤くして、でも目を逸らさずに言った。
待ってる。
見せない一行を急かさない。
でも忘れない。
消さないでほしい。
なかったことにしないでほしい。
その全部が、あの四文字に入っていた。
湊はベッドの上でスマホを開いた。
メモアプリ。
そこには、まだ見せない一行がある。
――黒瀬が夜に来るのが、当たり前になっているのが少し怖いくらい落ち着く。
何度見ても、まだ見せられない。
でも、もう消せない。
黒瀬に「待ってる」と言われたから、ではない。
いや、それもある。
かなりある。
けれど、それ以上に、この一行が自分の中で嘘ではないからだ。
湊はその一行の下に、新しく一行を書こうとした。
――黒瀬に待ってると言われた。
そこまで打って、手が止まる。
ただの記録だ。
けれど、そのままでは足りない気がした。
湊は少し考えて、書き直した。
――黒瀬に待ってると言われて、少し逃げにくくなった。
違う。
逃げにくくなった、という言い方は悪くないが、少しずるい。
まるで黒瀬のせいにしているみたいだ。
湊はその一行を消した。
もう一度、打つ。
――黒瀬が待ってくれるなら、ちゃんと言える形にしたい。
今度は、消さなかった。
しばらく見つめる。
まだ黒瀬には見せない。
でも、この一行なら、いつか見せられる気がした。
学校に着くと、教室はもう半分ほど埋まっていた。
莉子の声が聞こえる。
「白瀬さん、それもう完全に黒瀬セレクトの定番じゃん」
「はい。気に入っていますので」
湊が教室に入ると、黒瀬が少し離れた席から顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
いつもの挨拶。
でも、今日は少しだけ黒瀬の視線が揺れた。
昨夜の「待ってる」を思い出しているのかもしれない。
湊も思い出している。
だから、何となくお互いに一瞬だけ黙ってしまった。
莉子がその空気を見逃すはずがなかった。
「おや?」
「莉子」
黒瀬がすぐに低い声を出す。
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
「るいなも顔読むようになったね」
「莉子のせい」
「成長だよ」
「悪影響」
莉子は笑いながらツッコミ帳を出しかけた。
黒瀬が身構える。
けれど莉子は、今日はまだ開かなかった。
「今日は保留」
「莉子が保留使うな」
「便利だから」
「便利にするな」
白瀬はそのやり取りを少し見てから、湊へ視線を向けた。
「朝比奈くん、おはようございます」
「おはよう」
「今日は、少し考えている顔ですね」
湊は苦笑した。
「白瀬さんにも顔で読まれるのか」
「少しだけです」
「少しだけって言えばいいと思ってるでしょ」
黒瀬が横から言った。
白瀬は真面目に首を傾げる。
「便利なので」
「白瀬まで便利にした」
黒瀬がむくれる。
湊はそのやり取りを見ながら、少しだけ息が軽くなるのを感じた。
見せない一行はまだある。
でも、それだけで教室の空気が重くなるわけではない。
四人のいつものやり取りが、今日もちゃんとある。
一限目が終わった休み時間、黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日」
「うん」
「聞かない」
湊は少し驚いた。
黒瀬はすぐに顔を赤くする。
「いや、先に言っとく」
「先に?」
「聞かないって決めてても、顔で出るらしいから」
「ああ」
「だから、先に言う」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「今日は聞かない」
「うん」
「でも、消してないかは気になる」
「消してない」
湊が答えると、黒瀬は少しだけ肩の力を抜いた。
ほんの少し。
けれど湊には見えた。
「……聞いてないのに」
「今、気になるって言ったから」
「そうだけど」
「言った方がいいと思った」
「判断するな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬はむくれた。
けれど、目元は少し落ち着いていた。
湊は迷ったあと、言った。
「一行、増えた」
黒瀬の動きが止まる。
「……増えた?」
「うん」
「見せない一行が?」
「見せない一行の下に、もう一行」
「何それ」
「まだ見せない」
「最低」
黒瀬は即答した。
だが、声は怒りきっていなかった。
「増やすなよ」
「ごめん」
「謝るの早い」
「でも、必要だった」
黒瀬は何も言わなかった。
湊を見る。
少しだけ不安そうで、少しだけ期待している顔。
「悪い一行?」
「違う」
「じゃあ、あたしのこと?」
「うん」
黒瀬の顔が赤くなる。
「……また?」
「うん」
「何で増えるの」
「昨日、黒瀬が待ってるって言ったから」
言った瞬間、黒瀬は完全に固まった。
数秒、動かない。
それから、急に顔を逸らした。
「それを教室で言うな!」
「小声だった」
「小声でもだめ!」
黒瀬は耳まで赤くしていた。
白瀬が少し離れた席からこちらを見ている。
莉子も見ている。
見ていないふりをしながら、完全に見ている。
「朝比奈」
「うん」
「今日、行く」
「夜?」
「文句」
「カフェラテ?」
「当然」
黒瀬はそれだけ言って、自分の席へ戻った。
背中が少し怒っている。
でも、足取りはいつもより少しだけ早かった。
莉子が近づいてくる。
「何話してたの?」
「言わない」
黒瀬が即答する。
「お、これは大事なやつ」
「莉子、ほんと今日は書くな」
「書かないよ。心に保存」
「それもやめて」
「無理」
莉子は笑った。
けれど、本当にツッコミ帳は開かなかった。
白瀬は静かに言った。
「黒瀬さん」
「何」
「夜に文句を言えるなら、少し安心しているのかもしれませんね」
「白瀬、今日も強い」
「すみません」
「でも、ちょっとそうかもって思ったから余計だめ」
黒瀬はむくれた。
白瀬は少しだけ微笑んだ。
昼休み、湊は黒瀬に深追いされるかと思ったが、意外にも黒瀬は何も聞かなかった。
莉子が何度か「ねえねえ」と探りを入れようとしたが、黒瀬が睨み、白瀬が「今日は待つ日かもしれません」と言ったので、莉子も引いた。
その代わり、莉子はパンを食べながら言う。
「みんなさ、だんだん“言わないこと”の扱いが上手くなってない?」
「急に何」
黒瀬が聞く。
「いや、前なら絶対もっと揉めてたじゃん。るいなは聞きたがるし、朝比奈くんは困るし、白瀬さんは静かに刺すし、私は茶化す」
「自覚あるんだ」
「あるある」
莉子は笑う。
「でも今は、聞かない日とか、待つ日とか、保留とか、何か種類が増えた」
白瀬が頷く。
「言葉が増えたのかもしれません」
「それ。白瀬さんっぽいまとめ」
「そうでしょうか」
「うん。いい意味で」
黒瀬は焼きそばパンの袋を見つめながら、小さく言った。
「待つ側にも言葉が必要ってやつ」
「それ、前に白瀬さんが言ってたやつ?」
「うん」
「るいな、ちゃんと覚えてる」
「覚えてるし」
「記録しとこ」
「書くな」
「今日は心だけ」
「怖い」
湊はその会話を聞きながら、自分のスマホの中の二行を思い出していた。
見せない一行。
その下に増えた一行。
黒瀬が待ってくれるなら、ちゃんと言える形にしたい。
いつか、見せるのだろう。
たぶん。
まだ怖い。
でも、昨日よりは少しだけ、見せる未来が遠すぎない気がした。
夜。
黒瀬はいつもの時間に来た。
ドアを開けると、黒瀬は少し不機嫌そうな顔で立っていた。
「……来た」
「今日は文句だな」
「決めつけるな」
「違う?」
「文句」
「合ってる」
「うるさい」
黒瀬は部屋に上がり、ソファに座った。
湊がカフェラテを出す。
黒瀬はカップを両手で包むと、すぐに湊を見た。
「増えたって何」
「一行が」
「それは聞いた」
「うん」
「見せない一行が二行になったの?」
「そう」
「増やすな」
「ごめん」
「謝るの早い」
「でも、増えた」
「何で」
湊は少しだけ黙った。
黒瀬は待っている。
今すぐ答えを奪おうとはしていない。
けれど、聞く権利はあるという顔をしている。
湊は言葉を選んだ。
「黒瀬が待ってるって言ったから」
黒瀬の顔が赤くなる。
「それは教室でも聞いた」
「うん」
「それで何で増えるの」
「待ってるって言われて、俺もちゃんと言わないといけないと思った」
「……うん」
「でも、まだ言えない」
「うん」
「だから、今はそのことを書いた」
黒瀬はカップを見つめた。
「つまり?」
「見せない一行を、いつかちゃんと見せるための一行」
「何それ」
「自分でも少しよくわかってない」
「朝比奈も?」
「うん」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「変なこと?」
「変じゃない」
「悪いこと?」
「悪いことじゃない」
「あたしが怒るやつ?」
「わからない」
「わからないんだ」
「うん。顔は赤くなると思う」
「そこはわかるんだ」
「たぶん」
「最低」
黒瀬はむくれた。
でも、少しだけ笑いそうでもあった。
「見せない二行になった」
「うん」
「重い」
「ごめん」
「でも、消してない?」
「消してない」
「なかったことにしてない?」
「してない」
「ちゃんと言える形にしようとしてる?」
湊は黒瀬を見る。
今の問いは、核心に近かった。
湊は頷いた。
「してる」
黒瀬は、それを聞いて少しだけ肩の力を抜いた。
「ならいい」
「いいのか」
「よくはない」
「そうか」
「でも、前よりはいい」
「前より?」
「ただ隠されてるより、言える形にしようとしてるってわかった方がいい」
「うん」
「だから、今日はそれでいい」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「でも、文句は言う」
「どうぞ」
「増やすな」
「はい」
「でも、必要なら増やしていい」
「どっちだ」
「増やしたら報告して」
「わかった」
「でも毎回は重い」
「難しいな」
「難しいんだって」
二人は少し笑った。
黒瀬はノートを取り出した。
「今日の一行、書いた」
「見せる?」
「夜だから」
そう言って、黒瀬はノートを開いた。
そこには一行。
――見せない一行が増えた。むかつくけど、ちゃんと言おうとしてるなら待つ。
湊はそれを読んで、胸の奥が少し詰まった。
「いい一行だと思う」
「普通に言うな」
「でも、すごくいい」
「二回言うな」
黒瀬は顔を赤くした。
「待つって言ったし」
「うん」
「でも、待つ側にも文句はある」
「うん」
「それは言う」
「言っていいと思う」
「普通に許可するな」
「でも、言ってほしい」
黒瀬は少しだけ動きを止めた。
「……言ってほしいの?」
「うん。黒瀬が何を思って待ってるか、わかった方がいい」
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
黒瀬はクッションに顔を半分隠した。
でも、ノートは閉じなかった。
待ってると言われた男子は、その一行を書き直せなくなった。
見せない一行は、二行になった。
けれどそれは、隠し事が増えたというより、いつか言うための準備が少しだけ進んだということだった。
黒瀬は文句を言った。
むかつくとも書いた。
それでも、最後には待つと書いた。
その一行を湊に見せた。
待つ側にも、文句はある。
そして、その文句を言えることもまた、二人の間に生まれた新しい言葉だった。




