ep.123 四人の記録係がそろった放課後
放課後の教室に残る人数が減っていくと、机の上のものがやけに目立つ。
白瀬栞のノートは、今日もきれいに開かれていた。
行の幅がそろっていて、見出しの位置も整っている。
余白には、最近になって少しだけ感情の一行が入るようになった。
黒瀬琉衣奈のノートは、その隣で相変わらず少し勢いがあった。
字は斜め。
線も少し強い。
けれど見出しと余白はちゃんとあって、その余白には授業内容と関係あるような、ないような言葉が増えている。
藤堂莉子の机には、小さなメモ帳。
本人いわく、ツッコミ帳。
中身はかなり危険だった。
――るいな語:嫌じゃない=かなり好き寄り。
――白瀬さん、本当なので担当。
――朝比奈くん、無自覚刺し担当。
――るいな、昨日の「必要」を掘り返されて即赤面。
黒瀬は今朝から、あのメモ帳を警戒している。
警戒しているのに、時々ちらっと見てしまう。
そして見たことを莉子に気づかれて、また文句を言う。
「るいな、また見た」
「見てない」
「見てた」
「見えてただけ」
「それ、白瀬さん語」
「便利だから」
「便利にしすぎ」
莉子は笑いながら、メモ帳を自分の方へ引き寄せた。
黒瀬はむくれている。
でも、本気で嫌がっているわけではない。
少なくとも、取り上げて破ろうとはしていない。
朝比奈湊は、その三冊を見ていた。
黒瀬の余白ノート。
白瀬の一行ノート。
莉子のツッコミ帳。
四人のうち三人が、何かを残し始めている。
そして自分だけが、まだ何も残していない。
いや、正確にはスマホのメモアプリに少し書きかけたことはある。
けれど、それはまだ誰にも見せていない。
そもそも見せるために書いたものでもない。
だから、今この場では、自分だけが何も持っていないように見える。
「朝比奈くん」
莉子が急に湊を見た。
「何?」
「朝比奈くんだけ、何も書いてなくない?」
来た。
湊は少しだけ固まった。
黒瀬も固まった。
白瀬は静かに湊を見る。
莉子はメモ帳を指で軽く叩いた。
「るいなは余白ノート。白瀬さんは一行ノート。私はツッコミ帳。朝比奈くんは?」
「俺は、別に」
湊が言うと、莉子は目を細めた。
「出た、別に」
「黒瀬語じゃないぞ」
「でも怪しい」
黒瀬が横から口を挟む。
「朝比奈は別に書かなくてもいいし」
言ってから、黒瀬は少しだけ動きを止めた。
たぶん、自分で少し気にしていることに気づいたのだろう。
書かなくてもいい。
それは本心だと思う。
でも、書くなら見たい。
顔にそう出ていた。
莉子はそれを見逃さない。
「るいな、見たい顔してる」
「してない」
「してる」
「してないって」
「じゃあ、朝比奈くんが書かなくても全然平気?」
「……平気」
「間があった」
「莉子」
黒瀬の声が低くなる。
莉子は笑って両手を上げた。
「はいはい。深追い半分にしとく」
「半分もするな」
白瀬は少し考えてから、静かに言った。
「朝比奈くんは、書く側というより、聞く側なのかもしれません」
その言葉に、教室の空気が少しだけ変わった。
湊は白瀬を見る。
「聞く側?」
「はい」
白瀬は自分のノートに手を置いた。
「黒瀬さんは、見たものや感じたことを余白に残します。藤堂さんは、私たちのやり取りをツッコミとして残します。私は……まだ少しですが、自分の気持ちを残そうとしています」
「うん」
「朝比奈くんは、それを急かさずに聞いていることが多いと思います」
湊はすぐには返せなかった。
黒瀬も黙っている。
莉子も、少しだけ真面目な顔になった。
「たしかに」
莉子が頷く。
「朝比奈くん、聞き役っぽいよね。るいなの夜の文句とか」
「莉子!」
黒瀬の声が跳ねた。
莉子は慌てて口を押さえる。
「あ、ごめん。今のは半分どころじゃなかった」
「ほんとだよ!」
「でもさ、聞いてくれるから、るいなも文句言えるんじゃない?」
「文句だけじゃないし」
黒瀬が小さく言った。
その声は、思ったより素直だった。
湊は黒瀬を見る。
黒瀬はすぐに視線を逸らした。
「……確認とか」
「便利ワード」
莉子が言う。
「うるさい」
「はいはい」
白瀬は黒瀬を少し見て、それから湊へ戻した。
「聞く側も、記録の一つなのかもしれません」
「記録?」
「はい。誰かが話したことを、急がずに受け取ることも、残すことに近い気がします」
湊は白瀬の言葉をゆっくり受け取った。
言葉を急がない。
以前、白瀬のノートに書かれていた一行。
――朝比奈くんは、言葉を急がない。
その言葉がまた胸に戻ってくる。
急がない。
聞く。
受け取る。
それも記録なのだろうか。
莉子がメモ帳を開いた。
「はい、今の記録」
「莉子さん、今のも書くのか」
「書くよ。白瀬さんの名言だもん」
莉子は丸っこい字で書いた。
――白瀬さん曰く、朝比奈くんは聞く側の記録係。
黒瀬が覗き込み、少しだけ眉を寄せる。
「それは、まあ……悪くない」
「お、るいな承認」
「承認してない」
「してたしてた」
湊は苦笑した。
「俺、記録係なのか」
「聞く側のね」
莉子が言う。
「でも、やっぱり何か書いてもいいと思うけど」
「急に戻すな」
「だって見たいし」
「それが本音か」
「うん」
莉子はあっさり頷いた。
黒瀬が小さく言う。
「……別に、無理にとは言わないけど」
「うん」
「ちょっと見たいかも、くらい」
湊は黒瀬を見た。
黒瀬はすぐに顔を赤くする。
「今のなし」
「無理」
「知ってた」
白瀬が少しだけ微笑んだ。
「私も、朝比奈くんの言葉は少し見てみたいです」
「白瀬さんまで」
「はい。朝比奈くんが、私たちをどう見ているのか」
湊は少し困った。
自分がどう見ているのか。
それを言葉にするのは、思ったより難しい。
黒瀬のノートは勢いで書ける。
莉子のツッコミ帳は反射で書ける。
白瀬の一行は丁寧に選ばれている。
自分なら、どうなるのだろう。
「まあ、気が向いたら」
湊が言うと、莉子がすぐに反応する。
「出た、朝比奈語」
「何だそれ」
「気が向いたら=たぶん考える」
「翻訳するな」
黒瀬が言うべき言葉を、湊が言ってしまった。
黒瀬が一瞬止まり、それから少し笑った。
「取られた」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ、あたしの」
「便利だから」
「便利にするな」
いつもの言葉が重なって、四人の空気がまた軽くなった。
自習会が始まった。
今日の内容は英語だった。
白瀬が文法の要点を整理する。
黒瀬はノートの余白に単語のイメージを書き足す。
莉子は、途中で黒瀬語辞書を勝手に増やして怒られる。
湊はいつものように、説明の合間をつなぐ。
「ここは、直訳より先に文の形を見ると楽だと思う」
「文の形」
黒瀬が復唱する。
「うん。まず骨組み。そこに意味を乗せる感じ」
「また料理じゃないんだ」
「今日は建築寄り」
「朝比奈の例え、日によってジャンル変わる」
「雑だからな」
黒瀬はノートに書いた。
――朝比奈、今日は建築。
莉子がそれを見ようとする。
「るいな、今の見たい」
「見せない」
「一行だけ」
「だめ」
「白瀬さんには?」
「……後でなら」
「扱い違う!」
「莉子は騒ぐから」
「最近ちょっと騒がない努力してるよ?」
「半分?」
「半分」
「じゃあだめ」
莉子は不満そうにしながらも、ツッコミ帳へ書いた。
――るいな、白瀬さんには後で見せる可能性あり。私にはまだ警戒。
「それ書くな!」
「もう書いた」
「消して」
「やだ」
白瀬が少し笑う。
黒瀬がそれを見る。
そしてまたノートに何か書く。
湊は見ないようにした。
見ないようにしたつもりだったが、黒瀬の手元が少し見えた。
――白瀬、笑った。莉子のせい二回目。
湊は少し笑ってしまった。
黒瀬が即座に反応する。
「朝比奈、見た?」
「見えた」
「見たんじゃん!」
「ごめん」
「見えすぎ!」
「それ、白瀬のやつ」
「うるさい」
黒瀬は赤くなってノートを隠した。
白瀬は困ったように微笑む。
「私のことをまた書いてくれたんですね」
「そういうの普通に言うなって」
「嬉しかったので」
「出た」
莉子がすぐにメモ帳へ書く。
――白瀬さん、本当なので系列「嬉しかったので」も強い。
「莉子、それも書くんだ」
湊が言う。
「書くよ。これは重要用語」
「重要用語にするな」
黒瀬が突っ込む。
放課後自習会は、一時間ほどで終わった。
今日はそこまで長くはやらない、と最初から決めていた。
理由は、前回長くやりすぎて莉子が本当に机に溶けかけたからだ。
莉子は最後に大きく伸びをした。
「今日は生き残った」
「前回が死にかけすぎ」
黒瀬が言う。
「るいな、見捨てなかった」
「起きてたから」
「じゃあ次も起きてる」
「それが普通」
白瀬はプリントを丁寧にまとめた。
黒瀬はノートを閉じる前に、今日の余白を少し見返した。
莉子はツッコミ帳をぱらぱらめくる。
三人とも、何かを書いた。
湊だけが、やっぱり書いていない。
黒瀬はそれに気づいて、少しだけ湊を見た。
「朝比奈」
「何?」
「書かないの?」
「今?」
「いや、別に今じゃなくて」
「気になる?」
「……半分」
「便利だな」
「便利にするな」
黒瀬は少しむくれた。
でも、すぐに小さく言った。
「見たいって言ったのは、本当」
湊は少しだけ驚いた。
黒瀬は目を逸らす。
「今のなしは無理?」
「無理」
「知ってた」
白瀬も静かに言う。
「私も、見てみたいです」
莉子が続ける。
「私はめっちゃ見たい」
「そこは軽いな」
湊が言うと、莉子は笑った。
「私だからね」
湊は少し困って、でも少しだけ考えた。
「じゃあ、何か書けたら」
「朝比奈語:たぶん考える」
莉子がすぐに言う。
「翻訳しなくていい」
「だって便利」
四人は笑いながら片付けた。
帰り支度の途中、黒瀬が湊の席へ来る。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「俺が書くかどうかの話?」
「……半分」
「もう半分は?」
「今日の白瀬の『聞く側の記録係』ってやつ」
「カフェラテ?」
「当然」
夜。
黒瀬は湊の部屋で、いつものようにカフェラテを両手で包んでいた。
今日は少しだけ静かだった。
「朝比奈は、聞く側の記録係らしい」
「白瀬さんが言ってたな」
「うん」
「どう思った?」
黒瀬は少し考える。
「わかる」
「そうか」
「朝比奈、急かさないから」
「うん」
「あたしが文句言っても、確認しても、変なこと言っても、だいたい聞く」
「うん」
「たまに普通に刺してくるけど」
「そこは申し訳ない」
「謝るの早い」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬は少し笑った。
それから、カップを見つめる。
「でも、聞いてるだけじゃなくて」
「うん」
「朝比奈がどう思ってるのかも、ちょっと見たい」
湊は黙った。
黒瀬は続ける。
「無理にとは言わないけど」
「うん」
「……書いたら、見せて」
「書けたらな」
「朝比奈語」
「たぶん考える?」
「そう」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「みんな何か残してる」
「うん」
「あたしは余白。白瀬は一行。莉子はツッコミ帳」
「うん」
「朝比奈は、まだ」
「うん」
「でも、まだでいい」
湊は黒瀬を見る。
黒瀬は少しだけ照れたように目を逸らした。
「白瀬の時に待つって言ったし」
「うん」
「朝比奈のも、待つ」
その言葉は、思ったより真っ直ぐだった。
湊の胸の奥に、静かに残った。
「ありがとう」
湊が言うと、黒瀬はすぐに顔を赤くした。
「普通に言うなって」
「でも、言いたかった」
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
四人の記録係がそろった放課後。
黒瀬は余白に書く。
白瀬は一行に残す。
莉子はツッコミで拾う。
湊はまだ、聞いている。
けれどその「まだ」は、終わりではなく始まりの前だった。
湊もいつか、自分の言葉を残す日が来る。
黒瀬はそれを、急かさず待つと決めた。




