ep.124 湊のメモは、短すぎてギャルを怒らせる
朝比奈湊は、メモアプリを開いたまま固まっていた。
夜の自室。
机の上には、飲みかけの麦茶と、今日学校で使ったプリントが置いてある。
黒瀬琉衣奈は、今日は来ていない。
毎日来るわけではない。
それは当然だ。
当然なのに、来ない夜は少しだけ部屋が広く感じるようになっていた。
そのことに気づいて、湊は少し困った。
黒瀬が夜に来る。
カフェラテを飲む。
クッションを抱える。
文句を言う。
確認をする。
たまに、かなり素直なことを言ってから「今のなし」と逃げる。
そんな時間が、いつの間にか当たり前になりかけている。
それは少し怖いくらい落ち着く。
そう思った。
思ってしまった。
そして、メモアプリに何かを書こうとしている。
きっかけは放課後だった。
黒瀬の余白ノート。
白瀬栞の一行ノート。
藤堂莉子のツッコミ帳。
三人がそれぞれ、何かを残し始めた。
白瀬は湊を「聞く側の記録係」と言った。
黒瀬は夜に、「朝比奈がどう思ってるのかも、ちょっと見たい」と言った。
無理にとは言わない。
でも、書いたら見せて。
その言葉が、妙に残っている。
だから湊は、スマホのメモアプリを開いた。
開いたはいいが、なかなか書けない。
黒瀬のように勢いで書けるわけではない。
白瀬のように整った一行にできるわけでもない。
莉子のように軽く笑えるツッコミにできるわけでもない。
自分が何を見ているのか。
それを言葉にするのは、思ったより難しかった。
けれど、何も書かないまま閉じるのも違う気がした。
湊は少し迷って、一行だけ打った。
――今日も黒瀬は文句を言いながら嬉しそうだった。
打った瞬間、思った。
短い。
短すぎる。
しかも、これを黒瀬に見せたら確実に怒る。
文句を言いながら嬉しそうだった、なんて、黒瀬にとってはかなり危険な言葉だ。
でも、嘘ではない。
今日の放課後、黒瀬は湊が何かを書くかもしれないと聞いて、文句を言った。
けれど、嬉しそうでもあった。
それを見た。
だから書いた。
湊はしばらくその一行を見つめた。
そして、消さなかった。
翌日の放課後。
黒瀬は、やはり気にしていた。
授業中も、休み時間も、何度か湊の方を見ていた。
見ていないふりはしている。
でも、顔に出ている。
莉子にもたぶん見えていた。
白瀬にも、少し見えていたかもしれない。
昼休み、莉子がにやにやしながら聞いた。
「朝比奈くん、何か書いた?」
黒瀬が一瞬で固まる。
「莉子」
「いや、昨日の流れ的に気になるじゃん」
「気にしなくていい」
「るいなは気になってる顔してる」
「してない」
「してる」
「してない」
黒瀬は焼きそばパンの袋を畳みながら、湊を見ないようにしている。
湊は少しだけ迷った。
今ここで見せるのは、さすがに違う。
教室で見せたら、莉子が絶対に拾う。
白瀬はたぶん静かに受け止めるが、黒瀬が耐えられない。
「一応、書いた」
湊が言うと、黒瀬の手が止まった。
莉子は目を輝かせる。
「おお!」
白瀬も少しだけ顔を上げる。
「書いたんですね」
「うん。一行だけ」
「一行」
黒瀬が小さく復唱した。
その声は、明らかに気になっていた。
湊は黒瀬を見る。
「見る?」
黒瀬はすぐには答えなかった。
代わりに莉子が身を乗り出す。
「見る見る」
「莉子はだめ」
黒瀬が即答した。
「何で!」
「絶対騒ぐから」
「騒がないよ」
「騒ぐ」
「半分」
「だからだめ」
いつものやり取り。
白瀬は静かに言った。
「黒瀬さんが最初に見た方がいいと思います」
黒瀬が少し驚いた顔で白瀬を見る。
「何で」
「黒瀬さんが、一番気にしているように見えたので」
「白瀬」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬は顔を赤くして、湊の方を見た。
「……夜なら」
小さな声だった。
莉子がすぐに反応する。
「夜なら?」
「莉子、聞くな」
「聞こえたんだもん」
「聞こえてないことにして」
「無理」
「最低」
黒瀬は顔を赤くして、焼きそばパンに視線を戻した。
湊は頷く。
「じゃあ、夜に」
「うん」
「カフェラテ?」
黒瀬は少しだけ口元を動かした。
「当然」
その夜、黒瀬はいつもより少し早く来た。
インターホンが鳴ったのは、九時より少し前だった。
ドアを開けると、黒瀬は鞄を肩にかけ、少しむくれた顔で立っている。
「……遅」
「今日は早いな」
「早くない」
「メモ、気になった?」
「気になってない」
「そうか」
「……半分」
「便利だな」
「便利にするな」
黒瀬は靴を脱ぎ、いつものように部屋へ上がった。
ソファに座る。
クッションを抱える。
湊がカフェラテを出す。
そこまではいつもの流れだった。
ただ、今日は黒瀬の視線がずっと湊のスマホに向いていた。
「見る?」
湊が聞くと、黒瀬はカップを両手で包んだまま固まった。
「……見せて」
湊はスマホのメモアプリを開いた。
その一行を表示する。
そして、黒瀬の前に置いた。
黒瀬は、かなり真剣な顔で画面を覗き込んだ。
――今日も黒瀬は文句を言いながら嬉しそうだった。
数秒、沈黙。
黒瀬の顔が、じわじわ赤くなっていく。
湊は何も言わなかった。
黒瀬はスマホから顔を上げた。
「……短い」
「そこ?」
「短い!」
「一行って言っただろ」
「一行にも限度があるでしょ!」
「そうなのか」
「そう! 短いのに刺さる!」
黒瀬はクッションをぎゅっと抱えた。
「何これ。文句を言いながら嬉しそうだったって何」
「そう見えたから」
「普通に言うな!」
「でも、本当にそう見えた」
「本当なら余計だめ」
黒瀬は顔を赤くして、もう一度スマホを見る。
怒っている。
かなり怒っている顔だ。
でも、目は画面から離れない。
「消して」
「消した方がいい?」
湊が聞くと、黒瀬は固まった。
即答しない。
それだけで答えは半分出ていた。
「……消せとは言ってない」
「じゃあ残す」
「即答するな」
「大事そうだから」
「ずるい」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
それから、また画面を見る。
「今日もって何」
「今日もは、今日も」
「前からそう見えてたってこと?」
「うん」
「最低」
「ごめん」
「でも」
黒瀬は小さく声を落とした。
「……嫌じゃない」
「そっか」
「嫌じゃないからむかつく」
「難しいな」
「難しいんだって」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
でも、スマホはまだ返さない。
画面を何度も見ている。
湊はそれを見て、少しだけほっとした。
短すぎるとは言われたが、少なくとも完全に拒絶されたわけではなさそうだった。
「他にも書く?」
黒瀬が聞いた。
「今?」
「うん」
「何を?」
「白瀬とか莉子のこと」
「急に?」
「朝比奈がどう見てるのか、ちょっと見たいって言ったの、あたしだし」
黒瀬は照れくさそうに視線を逸らす。
「一行だけなら、白瀬たちのことも書けば」
「じゃあ」
湊はスマホを受け取り、少し考えた。
黒瀬は黙って見ている。
見られていると書きにくい。
書きにくいが、黒瀬たちはいつもこうして何かを書いているのだ。
湊は、白瀬のことを一行打った。
――白瀬さんは少しずつ表情が見えるようになってきた。
黒瀬が画面を覗き込む。
「……うん」
「どう?」
「白瀬、これ見たら嬉しそう」
「そうかな」
「うん。ちょっとだけ顔に出る」
「黒瀬がよく見てるからわかるんだろ」
「そういうの普通に言うな」
黒瀬は少し赤くなった。
でも、否定はしなかった。
湊は続けて莉子のことを書く。
――莉子さんは、たぶん全員の保護者。
黒瀬はそれを見た瞬間、少し吹き出した。
「莉子に見せたら喜ぶ」
「自分で保護者って言ってたしな」
「でも、たぶん当たってる」
「うん」
「莉子、うるさいけど、見てる」
「そうだな」
「それも書いて」
「追記?」
「うん」
湊は少し考えて、もう一行足した。
――うるさいけど、誰より先に変化に気づく。
黒瀬はそれを見て、しばらく黙った。
「……これ、莉子に見せたら泣くかも」
「泣く?」
「泣かないふりして、茶化す」
「ありそう」
「それでツッコミ帳に書く」
「それもありそう」
二人で少し笑った。
黒瀬はスマホの画面を見ながら、今度は少し静かになった。
三人分の一行。
黒瀬。
白瀬。
莉子。
湊がどう見ているか。
短い。
確かに短い。
でも、短いからこそ逃げ場がない。
黒瀬は自分の一行をまた見た。
――今日も黒瀬は文句を言いながら嬉しそうだった。
「……やっぱ短い」
「増やす?」
「増やさなくていい」
「いいのか」
「増やされたら死ぬ」
「死なないだろ」
「死ぬ」
黒瀬はクッションで顔を隠す。
湊はスマホを閉じようとした。
すると黒瀬が小さく言った。
「閉じないで」
湊は手を止めた。
「もう一回見る?」
「……見る」
黒瀬はまた画面を見る。
何度も見る。
怒っているのに、見る。
その姿が少し黒瀬らしくて、湊は笑いそうになった。
黒瀬がすぐに睨む。
「笑うな」
「ごめん」
「今、嬉しそうって思ったでしょ」
「思った」
「思うな」
「無理だろ」
「最低」
黒瀬はむくれた。
けれど、その声は少し柔らかかった。
「これ、白瀬と莉子にも見せる?」
湊が聞くと、黒瀬は少し考えた。
「白瀬のと莉子のは、見せてもいいと思う」
「黒瀬のは?」
「だめ」
「だめか」
「だめ」
「わかった」
「でも」
黒瀬はまた言葉を止めた。
「……あたしがいいって言った時なら」
「その時まで待つ」
「即答するな」
「待つって言った方がいいと思った」
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
そして、湊のスマホをそっと返した。
「保存」
「する?」
「もうメモにあるでしょ」
「ある」
「消さないで」
湊は頷いた。
「消さない」
「でも、雑に扱わないで」
「大事にする」
黒瀬は固まった。
「……そういうの、普通に言うなって」
「前にも言った気がする」
「言った。だから余計だめ」
黒瀬はクッションに顔を半分隠した。
湊はスマホを伏せた。
だが、そのまま少しだけ迷う。
もう一つ、書きたい一行があった。
けれど、それはまだ見せられない。
黒瀬が夜に来るのが、当たり前になっているのが少し怖いくらい落ち着く。
その一行は、まだ言葉にするには近すぎる。
近すぎて、黒瀬に見せるには少し早い。
湊は黒瀬に見えない角度で、メモアプリにもう一行だけ打った。
――黒瀬が夜に来るのが、当たり前になっているのが少し怖いくらい落ち着く。
書いた。
そして、すぐに画面を閉じた。
黒瀬が顔を上げる。
「今、何か書いた?」
鋭い。
湊は少しだけ固まった。
「……書いた」
黒瀬の目が細くなる。
「見せて」
「まだ無理」
黒瀬は固まった。
さっきまでの空気が、少しだけ変わる。
「まだ?」
「うん」
「変なこと?」
「変ではない」
「じゃあ何」
「ちゃんと言えるようになったら見せる」
黒瀬は何も言わなかった。
クッションを抱えたまま、湊を見る。
不安そうでもある。
気になっている。
でも、無理に奪おうとはしない。
しばらくして、黒瀬は小さく息を吐いた。
「……保留」
「うん」
「便利だから」
「知ってる」
「でも、消さないで」
「消さない」
「いつか見せて」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲み干した。
「今日はそれで許す」
「ありがとう」
「普通に礼言うな」
「でも言いたかった」
「ずるい」
黒瀬は少しだけ笑った。
湊のメモは、短すぎてギャルを怒らせた。
短いのに刺さる。
黒瀬はそう言った。
けれどその一行を、何度も見返した。
白瀬と莉子のことも、湊は少しだけ書いた。
そして最後に、まだ見せない一行を残した。
その一行は、湊自身もまだ扱い方がわからない気持ちだった。




