ep.121 莉子だけがノートを持ってこない
藤堂莉子は、わりと何でも軽く言える方だと思っていた。
実際、クラスでもそういう扱いをされている。
明るい。
よく喋る。
空気を軽くする。
面倒な話を、笑いに変える。
自分でも、それは嫌いではなかった。
重い空気は苦手だ。
誰かが気まずそうにしていると、つい茶化したくなる。
真剣な話の途中でも、少しだけ横から笑える隙間を作りたくなる。
黒瀬琉衣奈には、昔からそうしてきた。
るいなは、感情がわかりやすい。
怒る時も、照れる時も、むくれる時も、だいたい顔に出る。
でも本人はそれを認めない。
だから、莉子が「顔」と言う。
黒瀬が「顔って言うな」と怒る。
それでいつもの空気になる。
それでいいと思っていた。
けれど最近、少しだけ思うことがある。
黒瀬は変わった。
前よりよくノートを開くようになった。
白瀬栞と話す時間が増えた。
朝比奈湊に文句を言いながら、ちゃんと助けを求めるようになった。
そして、ノートの余白にその日の気持ちを残すようになった。
白瀬さんも変わった。
前より少し笑うようになった。
黒瀬が選んだヘアピンを毎日つけてくる。
きれいなノートの余白に、自分の感情を書き始めた。
黒瀬と一行を交換した。
朝比奈くんも、少し変わった気がする。
黒瀬を見る時の顔が、前より静かになった。
白瀬さんの言葉を受け取る時、ちゃんと考えるようになった。
二人のノートに自分の名前があったことを知ってから、少しだけ何かを抱え込んでいるようにも見える。
そして莉子は。
いつも通り、茶化している。
笑って、突っ込んで、場を軽くしている。
それは役に立っているのかもしれない。
少なくとも、黒瀬は「莉子がいないと空気が重い」と何度か言いかけて、言っていない顔をした。
でも。
自分だけが、少し同じ場所にいない気がした。
「今日、自習会やる?」
昼休み、朝比奈くんが何気なく言った。
確認テストが近い。
ここ数日の流れからすれば、自然な提案だった。
白瀬さんはすぐに頷く。
「私は残れます」
黒瀬は焼きそばパンの袋を畳みながら、少しだけ視線を逸らす。
「……やってもいい」
「はい、るいな語で参加確定」
莉子がいつもの調子で言うと、黒瀬がすぐに睨んだ。
「翻訳するな」
「もう定番でしょ」
「定番にするな」
いつものやり取り。
教室の空気が少し軽くなる。
でも、その後で莉子は、自分の机の上を見た。
黒瀬の机にはノートがある。
白瀬さんの机にもノートがある。
朝比奈くんも最近、小さなメモアプリを時々開いている。
自分の机には、購買のパンの袋とスマホだけ。
別にそれで困らない。
自習会ではプリントを見ればいい。
ノートなんて、必要になったらルーズリーフを一枚もらえばいい。
そう思ったのに、少しだけ胸の奥がざらついた。
放課後。
教室から人が減っていく。
四人はいつものように机を少しだけ寄せた。
白瀬さんは丁寧にプリントを並べる。
朝比奈くんは問題集を開く。
黒瀬はノートを出す。
莉子だけが、筆箱を出したあと、少し手持ち無沙汰になった。
「藤堂さん、プリントありますか?」
白瀬さんが聞く。
「あ、あるある」
莉子は鞄から少し曲がったプリントを出した。
黒瀬がそれを見て眉を寄せる。
「莉子、プリントぐちゃってる」
「味があるでしょ」
「ない」
「冷たい」
いつもなら、ここで笑える。
今日も笑った。
でも、少しだけ自分の笑いが薄い気がした。
自習会は始まった。
白瀬さんが問題の流れを整理する。
朝比奈くんがざっくり説明する。
黒瀬がノートの余白に何かを書き込む。
莉子はそれを見て、いつものように覗こうとした。
「るいな、今何書いた?」
「見ない」
「一行だけ」
「だめ」
「最近、白瀬さんには見せるのに」
「白瀬は騒がない」
「あたしだって騒がないよ」
「騒ぐ」
「半分くらい」
「だからだめ」
黒瀬の反応はいつも通りだった。
白瀬さんが少し笑う。
朝比奈くんも笑う。
莉子も笑った。
でも、笑いながら思った。
白瀬さんは見せてもらえる時がある。
朝比奈くんも、夜に黒瀬のノートを見ることがある。
自分は、いつも外から覗いている。
それは自分が騒ぐからだ。
わかっている。
でも、それだけだろうか。
自分は、四人の中で何を残しているのだろう。
「莉子」
黒瀬の声で、莉子は顔を上げた。
「何?」
「そこ、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「じゃあ、この問題どうするの」
「……まず、気合い」
「聞いてないじゃん」
黒瀬が呆れた。
白瀬さんが少し困ったように笑う。
「では、もう一度説明しますね」
「ごめん、白瀬さん」
「大丈夫です」
白瀬さんは本当に丁寧に説明してくれた。
その優しさが、今日は少し痛い。
別に責められているわけではないのに、置いていかれている気がする。
自分だけが、いつもの位置で足踏みしているような。
少しして、黒瀬がノートを見ながら言った。
「莉子もノート取れば?」
何気ない言葉だった。
たぶん深い意味はない。
けれど、莉子の中では少し大きく響いた。
「えー、あたしはいいよ」
いつもの調子で返した。
軽く。
冗談みたいに。
「書いても続かないし」
「最初から諦めるな」
「るいなみたいに急成長できないから」
「急成長って言うな」
「でも成長してるじゃん」
「言うな」
黒瀬は顔を赤くしてノートを隠した。
白瀬さんが静かに言う。
「藤堂さんのメモも、きっと藤堂さんらしくなると思います」
「白瀬さんまで」
「はい」
「私が書いたら、ただのツッコミ帳になるよ」
「それも良いと思います」
「良いんだ」
「藤堂さんらしいので」
白瀬さんは真面目に言った。
莉子は笑った。
「白瀬さん、何でも受け止めるね」
「何でもではありません」
「でも、かなり」
「そうでしょうか」
いつもの調子で返したつもりだった。
けれど、自分の声が少しだけ軽すぎる気がした。
朝比奈くんが、それに気づいた。
たぶん。
自習会の途中、莉子はトイレに行くと言って教室を出た。
本当は、少しだけ外の空気を吸いたかった。
廊下は夕方の色だった。
部活へ向かう生徒の声。
階段を駆け下りる足音。
窓の外の校庭。
莉子は廊下の端まで歩いて、窓際で足を止めた。
何をしているんだろう、と思った。
黒瀬が変わるのは嬉しい。
白瀬さんが少し柔らかくなるのも嬉しい。
朝比奈くんがちゃんと二人を見ているのも、安心する。
それなのに、少し寂しい。
そんなことを思う自分が、面倒くさい。
「藤堂さん」
声をかけられて振り返ると、朝比奈くんがいた。
「朝比奈くん」
「大丈夫?」
「え、何が?」
「いや、少し静かだったから」
「私が静かだと事件?」
「まあ、少し」
「ひど」
莉子は笑った。
いつも通りに。
でも朝比奈くんは、すぐには笑わなかった。
困ったような顔で、でも急かさずに立っている。
そういうところが、黒瀬に刺さるのだろうなと思った。
そして、白瀬さんが「言葉を急がない」と書いたのも、わかる気がした。
「……みんな変わってくじゃん」
莉子は、思っていたより自然に言っていた。
朝比奈くんは黙って聞いている。
「るいなも、白瀬さんも。朝比奈くんも、それ見てるし」
「うん」
「私だけ、茶化してるだけなのかなって」
言った瞬間、少し恥ずかしくなった。
自分らしくない。
けれど、もう言ってしまった。
朝比奈くんは少しだけ考えた。
それから、静かに言った。
「莉子さんがいるから、空気が軽くなってると思う」
「……保護者みたい?」
「それもある」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
莉子は少し笑った。
「朝比奈くんって、そういうとこあるよね」
「どこ?」
「普通に言うとこ。るいながずるいって言うやつ」
「俺、そんなにずるい?」
「うん。無自覚ならなおさら」
「それは困るな」
「困って困って」
莉子は窓の外を見た。
「でもさ、私がいるから軽くなるって、本当?」
「本当」
「ほんとに?」
「うん。黒瀬も、たぶんそう思ってる」
「るいなが?」
「うん」
「言わないでしょ、絶対」
「言わないだろうな」
「でしょ」
莉子は少しだけ笑った。
その笑いは、いつもの大きな笑いではなかった。
でも、少し楽になった。
「そっか」
「うん」
「なら、もうちょっと茶化しててもいいか」
「茶化しすぎると黒瀬に怒られるけど」
「怒られるくらいがちょうどいいんだよ」
「それは莉子さんにしかわからない感覚だな」
「保護者だから」
莉子はいつもの調子で言った。
けれど、今度は少しだけ本当に思えた。
教室に戻ると、黒瀬がすぐに顔を上げた。
「莉子、遅い」
「ごめんごめん。迷子」
「学校で?」
「心が」
「面倒くさいこと言うな」
黒瀬はそう言って、ノートに何かを書いていた手を止めた。
莉子は席に座ろうとして、ふと黒瀬の顔を見た。
「何」
黒瀬が警戒する。
「るいな、私がいないと寂しかった?」
「は?」
黒瀬の顔が一瞬で変わる。
「何言ってんの」
「いや、確認」
「便利ワード使うな」
「で?」
「寂しいわけないでしょ」
「ほんと?」
「……」
「お?」
「……自習会が、ちょっと静かだっただけ」
黒瀬は小さく言った。
莉子は目を丸くした。
白瀬さんが少しだけ微笑む。
朝比奈くんは何も言わない。
「るいな」
「何」
「それ、寂しかったってこと?」
「違う」
「違わないでしょ」
「違うし」
「でも、静かだったんだ」
「うん」
「私がいないと」
「……莉子がいないと、たぶん無理」
教室の空気が、一瞬止まった。
黒瀬自身も、自分が何を言ったのか気づいたらしく、すぐに顔を赤くした。
「今のなし」
「無理」
莉子は即答した。
黒瀬が睨む。
「莉子」
「無理。今のは保存した」
「保存するな!」
「心に保存した」
「消して!」
「消せない」
莉子は笑った。
でも、目の奥が少し熱くなるのを感じた。
変だ。
泣くような場面ではない。
なのに、黒瀬の言葉が思ったより効いた。
「何それ、告白?」
いつものように茶化した。
黒瀬はすぐに言う。
「違う!」
「じゃあ何?」
「……必要って意味」
黒瀬はさらに顔を赤くした。
白瀬さんが静かに言った。
「黒瀬さん、それはかなり大事な言葉だと思います」
「白瀬まで言うな!」
「本当なので」
「出た!」
朝比奈くんも少し笑っている。
莉子は、胸の奥のざらつきが少し消えていくのを感じた。
自分だけノートを持っていない。
自分だけ何かを書いていない。
でも、四人の中にいないわけではない。
少なくとも黒瀬は、莉子がいないと無理だと言った。
必要だと言った。
それだけで十分ではないか。
いや、十分すぎる。
自習会が終わる頃、莉子はふと思いついて、黒瀬に言った。
「るいな」
「何」
「私も、何か書こうかな」
黒瀬は少し驚いた顔をした。
「ノート?」
「いや、ノートは無理。続かない」
「早い」
「だから、メモ帳」
「何書くの」
「ツッコミ」
「やめて」
「何で」
「怖い」
莉子は笑った。
「いいじゃん。るいなの余白ノート、白瀬さんの感情メモ、朝比奈くんの何かよくわかんないメモ」
「俺も入るのか」
朝比奈くんが苦笑する。
「入る入る。で、私はツッコミ帳」
「絶対やめて」
黒瀬が本気で嫌そうな顔をする。
それがまた少し嬉しかった。
白瀬さんは真面目に考えていた。
「藤堂さんらしいと思います」
「白瀬さん、そう言ってくれると思った」
「はい」
「でも、るいなには怖がられてる」
「当然」
「ひど」
莉子は笑った。
帰り支度をしながら、黒瀬が莉子の横に来た。
「莉子」
「何?」
「さっきの」
「どれ?」
「いないと無理、のやつ」
「あー」
「……言いすぎた」
「そんなことないよ」
「でも、恥ずい」
「じゃあ聞かなかったことにする?」
「できる?」
「無理」
「だよね」
黒瀬は少しだけむくれた。
莉子は笑う。
「大丈夫。雑には扱わない」
黒瀬が少し驚いた顔をした。
「……朝比奈みたいなこと言う」
「影響されてるかも」
「やめて」
「やめない」
莉子は鞄を肩にかけた。
「でも、ありがと」
黒瀬は目を逸らす。
「……うん」
その日の夜、黒瀬はいつものように湊の部屋へ行った。
カフェラテを両手で包み、少しだけ不服そうな顔をしている。
「今日、莉子に変なこと言った」
「聞こえてた」
「聞こえてたの?」
「教室にいたから」
「最悪」
「必要って言ったやつ?」
「言うな」
「でも、本当だろ」
「……本当だけど」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「莉子、いつも茶化すじゃん」
「うん」
「うざいし」
「うん」
「空気読まない時あるし」
「うん」
「でも、いないと静かすぎる」
「うん」
「自習会、変だった」
「莉子さんがいないと?」
「うん」
黒瀬は素直に頷いた。
「だから、必要」
「言えたな」
「言うな」
「いいことだと思う」
「普通に言うな」
「でも本当だし」
「本当なら余計」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「莉子、メモ帳始めるとか言ってた」
「ツッコミ帳?」
「怖すぎる」
「ちょっと見たい」
「絶対見たいでしょ」
「うん」
「朝比奈、そういうとこある」
「あるかな」
「ある」
黒瀬は少しだけ笑った。
「でも、莉子も何か書いたら」
「うん」
「四人で変なことになりそう」
「もうなってると思う」
「それもそう」
莉子だけがノートを持ってこなかった。
けれど、莉子だけが何も残していないわけではなかった。
莉子は、黒瀬の反応を残している。
白瀬の小さな笑顔を見逃さない。
湊の言葉のタイミングも、ちゃんと見ている。
まだ紙には書いていないだけで、四人の空気を一番よく拾っていたのは、たぶん莉子だった。
そして黒瀬は、それに気づいていた。
不器用すぎる言い方で、ようやくそれを伝えたのだった。




