ep.120 湊は、二人のノートに自分の名前があることを知る
朝比奈湊は、自分が誰かのノートに書かれているとは思っていなかった。
いや、黒瀬琉衣奈のノートに自分の名前が出てくることは、何となく知っている。
――朝比奈、鍋ではなく丸で囲む。
――朝比奈の説明、雑だけど入る。
――朝比奈、褒めるタイミング変。
そんな感じの一行を、何度か見たことがある。
見せられたものもあれば、偶然見えてしまったものもある。
黒瀬はそのたびに「見るな」と怒るけれど、結局消さない。
だから湊も、黒瀬のノートの余白に自分が少しだけいることは、もう受け入れ始めていた。
けれど、白瀬栞のノートに自分の名前があるとは思っていなかった。
その日、放課後自習会があった。
確認テストが近い。
教室には、部活へ向かう生徒たちの足音がまだ残っている。
窓の外では、運動部の掛け声が夕方の空へ伸びている。
教室の中は少しずつ人が減り、やがて四人だけが机を寄せるいつもの形になった。
湊。
黒瀬。
白瀬。
藤堂莉子。
最近、この四人で机を寄せる時間が自然になってきた。
最初の頃は、自習会というだけで少し特別だった。
今は、誰かが「今日どうする?」と言い、黒瀬が「やってもいい」と言い、莉子が勝手に翻訳して、白瀬がノートを開く。
それだけで始まる。
「今日は、確認テストの範囲を一通り見直しましょう」
白瀬が丁寧にプリントを並べた。
「白瀬先生、今日も仕切り完璧」
莉子が言う。
「先生ではありません」
「でも、この机の上だけ見ると完全に補習」
「補習って言うな。落ちたみたいじゃん」
黒瀬がむくれる。
「るいなは落ちてないよ。最近上がってるし」
「それ言うな」
「褒めてるのに」
「褒め方が雑」
黒瀬はそう言いながらも、ノートを開いた。
以前よりずっと自然に。
湊はその動きに少しだけ目を止める。
黒瀬のノートは、今日も余白が多い。
いや、余白が多いというより、余白を使う前提で作られている。
見出し。
問題番号。
途中式。
そして、端の方に小さな一行。
白瀬も自分のノートを開いた。
こちらはいつも通りきれいだ。
整った字。
余白も揃っている。
ページ全体が静かに整列しているようなノート。
けれど、最近の白瀬のノートには、ほんの少し変化がある。
授業の内容だけではない一行が、ページの端に残るようになった。
湊はそれを直接見たことはあまりない。
けれど、黒瀬と白瀬が一行だけ見せ合ったことは知っている。
――今日、黒瀬さんのノートが少し羨ましかった。
――白瀬が選んだ本、悔しいけど少し好き。
その一行交換のあと、二人の距離はまた少し変わった気がした。
友達、と呼ぶにはまだ照れる。
ライバル、と呼ぶにはもう少し優しい。
だから今は、名前がついていない関係。
湊が以前そう言った時、二人はどちらも妙に黙った。
そして、その言葉を少し気に入ったようでもあった。
「朝比奈くん」
白瀬に呼ばれて、湊は顔を上げた。
「ここ、黒瀬さんには朝比奈くんの説明の方が入りやすいと思います」
「俺?」
「はい。私は式から整理してしまうので」
黒瀬が少しだけむくれる。
「別に、白瀬の説明がわかんないってわけじゃないし」
「はい」
「ただ、朝比奈の雑なやつの方が先に入る時があるだけ」
「雑なやつ」
湊が言うと、莉子がすぐに笑った。
「朝比奈先生、公式肩書きが“雑なやつ”になったよ」
「嬉しくないな」
「でも、るいな語では褒めてる」
「翻訳するな」
黒瀬が莉子を睨む。
しかし、白瀬は静かに頷いた。
「黒瀬さんの言う“雑”は、たぶん悪い意味だけではありません」
「白瀬まで翻訳しないで」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
湊は問題文を覗き込んだ。
「これは、最初に聞かれてるものを丸で囲む。で、使う数字を横に拾っていく」
「また丸」
黒瀬が言う。
「鍋よりは丸」
「鍋を持ち出したの朝比奈でしょ」
「それはそう」
「責任取って」
「どう取ればいいんだ」
「次の説明でちゃんとわかりやすくして」
「了解」
黒瀬は文句を言いながら、ちゃんとノートに書いている。
湊は少しだけ笑いそうになる。
黒瀬がすぐに顔を上げた。
「笑うな」
「まだ笑ってない」
「顔」
「顔か」
「顔」
黒瀬はむくれたあと、余白に何かを書いた。
莉子が覗こうとする。
「るいな、今の何?」
「何も」
「朝比奈くんのこと書いたでしょ」
「書いてない」
「じゃあ見せて」
「嫌」
「はい、書いた」
「莉子、うるさい」
黒瀬はノートを自分の方へ引き寄せた。
湊は、見ないようにした。
黒瀬が見せたくないなら、見ない。
そういう距離感も、少しずつ覚えてきた。
自習会はそのまま進んだ。
白瀬が全体を整理する。
湊が例えを出す。
黒瀬が納得したり文句を言ったりする。
莉子が途中で眠そうになり、黒瀬に「寝るな」と言われる。
いつもの四人。
その空気が、湊には少し心地よかった。
途中、莉子が本当に眠そうになって机に突っ伏しかけた。
「藤堂さん、大丈夫ですか?」
白瀬が声をかける。
「大丈夫じゃない。数学が私の精神を削ってくる」
「削られてるの、まだ二問目だけど」
黒瀬が言う。
「二問でこれなら、確認テスト本番どうなるの?」
「知らない」
「るいな、見捨てないで」
「起きてたら見捨てない」
「寝たら?」
「置いてく」
「ひど」
莉子が顔だけ上げて抗議する。
その様子を見て、白瀬が少し笑った。
黒瀬はすぐにノートの余白へ何かを書いた。
白瀬が気づく。
「黒瀬さん、今、藤堂さんのことを書きましたか?」
「書いてない」
「少し見えました」
「見えすぎ」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬はノートを少し隠す。
白瀬も自分のノートへ視線を落とした。
そして、何かを書いた。
湊は何となくそれを見てしまった。
見ようとしたわけではない。
白瀬がペンを動かし、ページの端に一行書いたのが視界に入っただけだ。
もちろん内容までは見えない。
湊はすぐに視線を戻した。
けれど、少し気になった。
黒瀬と白瀬のノート。
二人は、何を書いているのだろう。
自習会が終わりに近づいた頃、事件は起きた。
莉子が「ちょっと飲み物買ってくる」と言って席を立ち、黒瀬は消しゴムを落として机の下を覗き込んでいた。
白瀬はプリントを揃えようとして、ノートを少し開いたまま席を立った。
黒瀬のノートも、消しゴムを拾う時に端がめくれたままだった。
湊は、プリントを重ねようとして手を伸ばした。
その時、二冊のノートの余白が、同時に目に入ってしまった。
黒瀬のノートには、こう書いてあった。
――朝比奈、褒める時ずるい。
白瀬のノートには、こう書いてあった。
――朝比奈くんは、言葉を急がない。
湊は固まった。
本当に、動けなかった。
見てはいけないものを見た。
いや、見ようとしたわけではない。
でも見えてしまった。
よりによって、自分の名前が両方にある。
黒瀬のノートにも。
白瀬のノートにも。
しかも、どちらも授業とは関係ない。
自分についての一行。
黒瀬の「ずるい」。
白瀬の「言葉を急がない」。
心臓が少し変な動きをした。
その瞬間、机の下から黒瀬が顔を上げた。
「……朝比奈?」
黒瀬は湊の視線の先を見た。
そして、自分のノートが開いていることに気づく。
さらに、湊の顔を見る。
完全に、ばれた。
「見た?」
声が低い。
湊は正直に答えるしかなかった。
「……見えた」
「見たんじゃん!」
「見ようとしたわけじゃない」
「見えたなら見たでしょ!」
黒瀬の顔が一気に赤くなる。
同時に、白瀬も席へ戻ってきた。
そして、自分のノートが開いたままだったことに気づく。
湊を見る。
黒瀬を見る。
自分のノートを見る。
「……見えてしまいましたか」
白瀬が静かに言った。
黒瀬が反射的に突っ込む。
「白瀬、そこ冷静に言う!?」
「いえ、かなり動揺しています」
「そう見えない!」
「顔に出にくいので」
「出てる! ちょっとだけ!」
黒瀬がそう言った瞬間、白瀬の頬が少し赤くなった。
湊はまだ動けない。
どうすればいいのかわからない。
見なかったことにはできない。
だが、正面から何か言うのも違う。
そこへ莉子が戻ってきた。
手にはペットボトル。
そして、三人の様子を見てすぐに察した顔をする。
「何? 何か見た?」
「莉子、黙って」
黒瀬が即座に言う。
「いや、絶対何かあったじゃん。朝比奈くん固まってるし、るいな真っ赤だし、白瀬さんも微妙に赤い」
「微妙に言うな」
「で、何?」
莉子の視線が二冊のノートへ向かう。
黒瀬は慌てて自分のノートを閉じた。
白瀬も、珍しく少し慌ててノートを閉じた。
それだけで莉子は全部わかったような顔をした。
「あー」
「何のあー」
「朝比奈くん、二人のノートに登場人物として出てた?」
黒瀬が完全に固まる。
白瀬も目を伏せる。
湊は小さく息を吐いた。
「……出てた」
「朝比奈!」
黒瀬が叫びかける。
「正直すぎます」
白瀬も珍しく少し責めるように言う。
莉子は楽しそうに笑った。
「すごいじゃん。朝比奈くん、二人のノートの共通キャラ」
「キャラって言うな」
湊がようやく返す。
「いや、でもさ、るいなのノートにも白瀬さんのノートにも出てるって、なかなかだよ」
「莉子、ほんと黙って」
黒瀬はノートを抱えるようにしている。
白瀬も自分のノートをきちんと閉じたまま、少しだけ視線を落としている。
湊は、申し訳なさで少し肩を落とした。
「ごめん。見ようとしたわけじゃないけど、見えた」
「……何て書いてたか」
黒瀬が小さく言う。
「忘れて」
「無理」
「即答するな!」
「いや、あれは無理だろ」
「最低」
黒瀬は顔を赤くしたまま机に突っ伏しかけて、教室なので耐えた。
白瀬は少しだけ息を整えたあと、静かに言った。
「私の方も、忘れてもらえると助かります」
「……たぶん無理」
「そうですか」
「ごめん」
「いえ。閉じ忘れた私も悪いので」
「白瀬、そういうとこ冷静」
「冷静ではありません」
「だから見えないって」
黒瀬が言うと、白瀬は少しだけ頬を赤くした。
莉子が机に頬杖をついて、にやにやしている。
「いやー、いいね。ノートって怖いね」
「莉子が一番怖い」
「何で」
「面白がるから」
「だって面白いもん」
「最低」
「でもさ」
莉子は少しだけ真面目な声に戻した。
「二人とも、朝比奈くんのことちゃんと見てるんだね」
その言葉に、空気が少し変わった。
黒瀬は黙る。
白瀬も黙る。
湊は、何を言えばいいかわからなくなる。
莉子は続けた。
「るいなは、朝比奈くんが褒める時ずるいって思ってる。白瀬さんは、朝比奈くんが言葉を急がないって思ってる」
「莉子!」
黒瀬が慌てる。
「復唱するな!」
「いや、大事じゃん」
莉子は黒瀬を見る。
「どっちも、ちゃんと見てないと書けないよ」
黒瀬は何も言えなかった。
白瀬も、静かに自分のノートを見下ろしている。
湊は、胸の奥が少し重くなった。
嬉しい、というだけではない。
照れくさい。
申し訳ない。
少し怖い。
自分が誰かの中に残っている。
それは、思っていたよりもずっと重い。
放課後自習会は、そのまま少し妙な空気で終わった。
莉子は最後までにやにやしていたが、必要以上には掘らなかった。
白瀬はノートを丁寧にしまい、黒瀬はノートを鞄の奥へ突っ込むように入れた。
帰り際、黒瀬が湊の席へ来る。
「朝比奈」
「うん」
「今日、行く」
「ノートの話?」
「見たこと忘れろ会」
「忘れられないと思う」
「そこは嘘でも頑張るって言って」
「頑張る」
「遅い」
黒瀬はむくれた。
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
その夜。
黒瀬はいつものように湊の部屋へ来た。
しかし今日は、ソファに座ってもなかなかカフェラテに手をつけなかった。
クッションを抱えたまま、湊をじっと睨んでいる。
「見た」
「見えた」
「同じ」
「違うと思う」
「同じ」
「……ごめん」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
「何て書いてたか、ほんとに覚えてる?」
「うん」
「忘れて」
「無理」
「最低」
黒瀬はしばらく黙った。
それから、顔を隠したまま小さく言う。
「でも」
「うん」
「書いたのは本当だから」
湊は息を止めた。
黒瀬は逃げなかった。
いや、クッションで顔は隠している。
でも、言葉は逃げていなかった。
「褒める時、ずるいって?」
「言うな」
「ごめん」
「でも、本当」
「そっか」
「朝比奈、普通に言うじゃん」
「うん」
「似合ってるとか、いいノートだと思うとか、ちゃんと見てるとか」
「うん」
「そういうの、ずるい」
「嫌?」
「嫌じゃない」
即答だった。
黒瀬はそれに気づいて、少し顔を赤くした。
「……嫌じゃないから、ずるい」
湊はカップを手に取った。
何か言おうとして、少し迷う。
言葉を急がない。
白瀬のノートにあった一行を思い出す。
――朝比奈くんは、言葉を急がない。
その一行も、まだ胸の奥に残っていた。
「白瀬さんのノートにあった一行も」
「言わなくていい」
「うん」
「でも、あれも見たんでしょ」
「見えた」
「同じ」
「……うん」
黒瀬は少しだけ黙った。
「白瀬、朝比奈のこともちゃんと見てる」
「うん」
「ちょっと面白くない」
正直な言葉だった。
でも、以前よりずっと静かだった。
「でも、白瀬らしいとも思う」
「うん」
「それも面白くない」
「難しいな」
「難しいんだって」
黒瀬はようやくカフェラテを飲んだ。
少し落ち着いたのか、クッションから顔を上げる。
「朝比奈」
「何?」
「見たこと、誰にも言わないで」
「言わない」
「莉子にも」
「言わない」
「白瀬にも、改めて言わないで」
「言わない」
「でも」
黒瀬は小さく息を吐いた。
「忘れなくてもいい」
湊は少し驚いた。
黒瀬は目を逸らす。
「……もう見られたし」
「うん」
「消す気もないし」
「うん」
「だから、忘れなくてもいいけど、雑に扱わないで」
湊は、ゆっくり頷いた。
「大事にする」
黒瀬が固まった。
「……そういうの」
「うん」
「普通に言うなって」
「でも、そう思ったから」
「本当なら余計」
黒瀬は顔を赤くして、カフェラテをまた一口飲んだ。
湊は、二人のノートに自分の名前があることを知った。
黒瀬のノートには、ずるいと書かれていた。
白瀬のノートには、言葉を急がないと書かれていた。
その二つは、まったく違う言葉なのに、どちらも湊をちゃんと見ていた。
だからこそ、湊は少しだけ怖くなった。
自分も、何かを書かなければならない気がした。
誰かの中に残るだけではなく、自分の中に残っているものも、いつかちゃんと言葉にしなければならない。
けれど、それはまだ少し先のことだった。




