ep.119 ギャルとメガネっ娘、ノートを一行だけ交換する
白瀬栞は、その一行をまだ消していなかった。
――今日、黒瀬さんのノートが少し羨ましかった。
自分のノートの余白に書いた、たった一行。
それは授業内容ではない。
公式でもない。
先生が強調した範囲でも、解き直しの注意でもない。
白瀬栞の気持ちだった。
書いた瞬間は、ものすごく恥ずかしかった。
翌朝になっても、やはり恥ずかしかった。
けれど、不思議と消そうとは思わなかった。
昨日、黒瀬琉衣奈からメッセージが来た。
――無理に見せなくていいから。
――でも、消さないで。
その言葉が、栞の中にずっと残っていた。
黒瀬さんは、待ってくれる。
そう思うと、少し勇気が出た。
でも、見せるのはやっぱり怖い。
この一行は、黒瀬のことを書いている。
しかも、羨ましいと書いている。
黒瀬はきっと固まる。
顔を赤くする。
「白瀬、こういうの強すぎ」と言う。
そこまでは想像できる。
でも、そのあと黒瀬がどう受け取るかまでは、わからない。
朝の教室。
栞は席に着いて、ノートを開いた。
いつものように日付を書こうとして、手が止まる。
余白の一行があるページではない。
けれど、ノート全体がその一行を抱えているような気がした。
「白瀬さん、おはよー」
莉子がやってきた。
「おはようございます、藤堂さん」
「今日、ちょっと決意してる顔してる」
「決意、ですか」
「うん。何か見せる日?」
栞は思わず、少しだけ目を見開いた。
莉子はそういうところが鋭い。
茶化すように見えて、ちゃんと見ている。
「……はい」
「お」
「でも、まだ迷っています」
「るいなに?」
栞は頷いた。
莉子は一瞬だけ笑いそうになったが、珍しくそのまま茶化さなかった。
「そっか」
「はい」
「るいな、たぶん待ってるよ」
「そうでしょうか」
「うん。あの子、待ってない顔しながら待つから」
「黒瀬さんらしいですね」
「でしょ」
莉子は笑った。
その時、教室の扉が開いた。
黒瀬が入ってくる。
少し眠そうな顔。
けれど、教室に入るとすぐに湊の席を見て、それから栞の方を見る。
目が合った。
「……おはよ」
「おはようございます、黒瀬さん」
黒瀬は自分の席へ行く途中で、少しだけ立ち止まった。
「……消してない?」
小さな声だった。
莉子には聞こえたかもしれない。
でも、聞こえないふりをしてくれた。
栞はノートにそっと手を置く。
「はい。消していません」
「そっか」
「はい」
「ならいい」
黒瀬はそれだけ言って、自分の席へ向かった。
ぶっきらぼうな言葉。
けれど、栞にはそれで十分だった。
朝比奈湊が教室に入ってきたのは、その少し後だった。
「おはよう」
「……おはよ」
「おはようございます」
「おはよー、朝比奈くん」
四人の挨拶が自然に重なる。
それがもう日常になっていることに、栞は少しだけ不思議な気持ちになる。
黒瀬は湊へ何かメッセージを送っているらしい。
湊がスマホを見て、少しだけ黒瀬を見る。
黒瀬は目を逸らす。
きっと、ノートのことだ。
自分の一行のことを、黒瀬は湊にも少し話しているのだろう。
それが嫌かと言われれば、嫌ではない。
むしろ、少し安心する。
湊は急かさない。
黒瀬も急かさない。
藤堂さんは、たぶん茶化しながらも逃げ道を作ってくれる。
だから今日、見せられるかもしれない。
一限目が始まった。
栞はいつも通りノートを取る。
けれど、今日は少しだけ余白を意識した。
先生が説明した内容の横に、小さな空白を残す。
そこに、少しだけ自分の言葉を書いてみる。
――今日は少し緊張している。
書いてから、すぐに恥ずかしくなる。
でも消さない。
消さずに、その横へ小さく書き足した。
――黒瀬さんに見せるかもしれないから。
自分で書いて、さらに恥ずかしくなる。
黒瀬のノートには、こういう言葉が自然にある。
白瀬にはまだ、自然ではない。
でも、少しずつなら。
二限目の休み時間。
黒瀬が席を立って、栞の方へ来た。
「白瀬」
「はい」
「今日」
「はい」
「……見せる?」
すごく短い聞き方だった。
でも、黒瀬なりにかなり気を遣っていることがわかった。
栞は一度だけノートを見下ろす。
「昼休みに、お願いします」
黒瀬の目が少しだけ揺れた。
「……いいの?」
「はい」
「無理ならいいから」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「じゃあ、莉子いない時がいい?」
栞は少し考えた。
莉子に見られるのは、たぶんまだ難しい。
「できれば」
「わかった」
黒瀬は頷いた。
そのやり取りを遠くから見ていた莉子が、こちらへ近づいてくる。
「はいはい、昼休みね。あたし購買行くね」
「莉子」
黒瀬が睨む。
「まだ何も言ってないよ?」
「言ってるでしょ」
「顔?」
「顔」
「便利だねえ」
莉子は笑った。
「じゃあ昼、五分くらい消えるから」
「そういう気遣いが一番困るって何度言えば」
「でも助かるでしょ?」
黒瀬は返事に詰まった。
「……半分」
「はい、半分いただきました」
「勝手に」
莉子は満足そうに笑って、自分の席へ戻っていった。
昼休み。
莉子は本当に購買へ行った。
しかも、いつもよりわざとらしくゆっくり立ち上がりながら。
「じゃ、甘いもの探してくる。五分、いや七分くらい」
「時間言わなくていい」
黒瀬が言う。
「いる?」
「いらない」
「白瀬さんは?」
「私は大丈夫です」
「朝比奈くんは?」
「俺も大丈夫」
「はいはい、じゃあ記録係一名退席します」
「記録係?」
「ツッコミ帳はまだないけど」
「何それ怖い」
黒瀬が眉を寄せると、莉子は笑って教室を出ていった。
妙に静かになった気がした。
実際には、教室にはまだ他の生徒たちの声がある。
でも、四人の周りだけ、少し音が薄くなったように感じる。
湊は自分の席にいる。
近すぎず、遠すぎず。
栞と黒瀬が話せる距離を保っている。
栞はノートを開いた。
黒瀬は、少しだけ緊張した顔をしている。
ノートを見せるのは栞の方なのに、黒瀬も緊張しているのがわかった。
「黒瀬さん」
「うん」
「一行だけです」
「……うん」
栞はノートを差し出した。
黒瀬はゆっくり受け取る。
昨日も似たようなことがあった。
けれど、今回は少し違う。
これは、白瀬自身の気持ちだ。
黒瀬の視線が、余白の一行に落ちる。
――今日、黒瀬さんのノートが少し羨ましかった。
黒瀬は固まった。
予想通りだった。
けれど、昨日よりも少し長く固まっている。
「……白瀬」
「はい」
「何で」
「何で、でしょうか」
「聞き返さないで」
「すみません」
「謝るの早い」
いつもの言葉。
でも、黒瀬の声は少し揺れていた。
黒瀬はもう一度その一行を見る。
「白瀬のノート、めちゃくちゃきれいじゃん」
「はい」
「はいって」
「私も、そこはそう思います」
「自分で言うの珍しい」
「でも」
栞は少しだけ自分の指先を見た。
「黒瀬さんのノートには、黒瀬さんがいます」
黒瀬は何も言わなかった。
「私のノートには、授業の内容はあります。でも、私が何を感じたかは、あまり残っていません」
「……うん」
「黒瀬さんのノートを見て、いいなと思いました」
「いいな?」
「はい。少し、羨ましかったです」
黒瀬はノートを持ったまま、視線を落としている。
顔が少し赤い。
「……あたしのノート、ぐちゃぐちゃだし」
「はい」
「はいって」
「でも、黒瀬さんにしか書けません」
黒瀬は、今度こそ言葉を失った。
しばらく黙ってから、ようやく小さく言う。
「白瀬、こういうの本当に強い」
「すみません」
「謝らなくていいけど」
「はい」
「……それも早い」
栞は少しだけ笑った。
黒瀬も、困ったように少し笑う。
それから、黒瀬は自分の鞄からノートを取り出した。
栞は目を瞬かせる。
「黒瀬さん?」
「白瀬が見せたから」
「はい」
「あたしも、一行だけ」
黒瀬はノートを開いた。
昨日の夜、湊の部屋で書いた一行。
白瀬に選んでもらった本の感想。
でも、きっとそれだけではない一行。
黒瀬はページを少し迷ってから開き、ノートを栞の方へ向けた。
そこに書かれていた。
――白瀬が選んだ本、悔しいけど少し好き。
栞は、その一行を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
自分が選んだ本。
黒瀬に読んでほしいと思った本。
黒瀬のノートに、その本のことが残っている。
悔しいけど少し好き。
その言い方があまりにも黒瀬らしくて、栞は思わず微笑んだ。
「嬉しいです」
「すぐ言う」
「本当なので」
「出た」
黒瀬は顔を赤くした。
けれど、ノートを引っ込めない。
「その本、まだ全部読んでないけど」
「はい」
「ちょっと読んだら、何か書きたくなる」
「はい」
「それがずるい」
「すみません」
「謝るとこじゃない」
「では、嬉しいです」
「それはもう聞いた」
黒瀬はむくれた。
でも、嫌そうではない。
むしろ、少し照れている。
栞はノートを返した。
自分のノートも黒瀬から受け取る。
お互いに一行だけ見せた。
それだけなのに、何かを交換したような気がした。
その時、莉子が戻ってきた。
手には甘いパンと、なぜか小さなチョコ菓子。
「終わった?」
黒瀬がすぐにノートを閉じる。
「終わった」
「一行交換?」
黒瀬が固まる。
「莉子、何でわかるの」
「顔」
「また顔!」
莉子はにやにやしながら席へ戻ってくる。
「何それ、もう文通じゃん」
「文通じゃないし」
「文通ではありません」
黒瀬と栞の声が、ぴったり重なった。
一瞬の沈黙。
莉子が吹き出す。
「だからさあ! そういうとこ!」
「莉子、笑うな!」
「すみません……」
また微妙に重なりかけて、二人とも黙った。
湊も笑っている。
黒瀬が睨む。
「朝比奈も笑うな」
「今のは無理だろ」
「無理じゃない」
「いや、かなり無理」
黒瀬は顔を赤くして、ノートを鞄にしまった。
栞もノートを閉じる。
けれど、閉じたあとも、胸の奥にはまだ一行が残っていた。
――白瀬が選んだ本、悔しいけど少し好き。
それは、本の感想であり、きっと自分への返事でもあった。
放課後。
黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「一行交換の話?」
「文通じゃない」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「莉子さんのせいだな」
「そう」
黒瀬は鞄を肩にかける。
「でも、白瀬に見せた」
「うん」
「白瀬のも見た」
「どうだった?」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから、ぼそっと言う。
「強かった」
「予想通りだな」
「でも、嫌じゃなかった」
「そっか」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜。
黒瀬は湊の部屋で、カフェラテを両手で包んでいた。
テーブルの上には、黒瀬のノートがある。
けれど今日は、すぐには開かない。
「白瀬の一行」
「うん」
「羨ましかった、って」
「うん」
「意味わかんないって思ったけど」
「うん」
「でも、ちょっとわかった」
「何が?」
「白瀬のノートって、きれいすぎるじゃん」
「うん」
「でも、白瀬はそこに自分がいないって思ってた」
「うん」
「それ、ちょっと寂しいかもって」
湊は静かに頷いた。
黒瀬はカフェラテを飲む。
「あたしのノート、ぐちゃぐちゃだけど」
「うん」
「でも、あたしがいるって言われたら」
「うん」
「……ちょっと嬉しかった」
「そっか」
「普通に受け取るな」
「俺が?」
「うん」
「黒瀬も白瀬さんに言ってるやつだな」
「うるさい」
黒瀬は顔を赤くして、クッションに顎を乗せた。
「あと、あたしの一行」
「白瀬が選んだ本の?」
「うん」
「見せたんだろ?」
「見せた」
「白瀬さん、嬉しそうだった?」
「めっちゃ」
黒瀬は即答してから、少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「……ちょっとだけ」
「今、めっちゃって言った」
「言ってない」
「言った」
「聞き間違い」
「無理がある」
黒瀬はむくれた。
「でも、嬉しそうだった」
「よかったな」
「うん」
素直に頷いた。
その後で、黒瀬は少しだけ困った顔をする。
「一行だけなのに、すごい疲れた」
「それだけ大事だったんじゃないか」
「普通に言うな」
「でも本当だと思う」
「本当なら余計」
黒瀬はノートを開いた。
自分の一行をもう一度見る。
――白瀬が選んだ本、悔しいけど少し好き。
その下に、少し迷ってから新しい一行を書いた。
――白瀬のノートに、あたしがいた。
湊はそれを見た。
黒瀬も隠さなかった。
「……見せるつもりだった?」
「今日は、ちょっとだけ」
「いい一行だと思う」
「言うと思った」
「言うだろ」
「ずるい」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
ギャルとメガネっ娘は、ノートを一行だけ交換した。
文通ではない。
本人たちはそう言い張るだろう。
けれど、たった一行でも、そこには確かに言葉のやり取りがあった。
黒瀬のノートに白瀬がいて、白瀬のノートに黒瀬がいる。
それは、名前のついていない二人の関係に、また一つ小さな形が生まれた瞬間だった。




